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5-4 知らなかった時間

「日本語でのFirst Aidセミナーが今度あるんだけど、一緒に行かない?」


週明けの昼下がり、実佳から送られてきたLINEに、律子はすぐ「行く」と返信した。日本人向けに開催される日本語での応急処置セミナー。内容もさることながら、久しぶりに実佳と出かける休日は、何より楽しみだった。


場所はコマーシャルドライブ。

イタリア系のカフェやジェラートショップ、ちょっと年季の入ったデリや雑貨屋が肩を並べ、通りにはどこかイタリアの下町を思わせるようなざわつきがあった。

洒落ているとは言いがたいが、気取らない活気があって、律子はこの通りが好きだった。


「ランチもここで食べようよ」と律子が提案し、2人はMarcello Ristoranteへ向かった。入り口の黄色いオーニングが目印の、地元で評判のレストランだ。


「ここね、圭祐が連れて来てくれたんだけど、とっても美味しくてお気に入りになっちゃったの」


律子がそう言うと、実佳がくすっと笑いながら言った。


「へぇ〜、圭祐さんがこんなオシャレなレストラン知ってるなんて、意外!」


「でしょ?でも意外といろいろ調べてるのよ、あの人」


パスタを頼み、フォカッチャをちぎりながら、他愛のない会話を楽しむ。レストランの外はテラス席も賑わっていて、道行く人々の装いもどこか自由だった。タトゥーにピアス、ドレッドヘア。まるでそれぞれが自分という作品を着ているかのような空気。


そのときだった。

外を歩く男が目に入る。

首に、蛇――コブラを巻いていた。


「えっ……」と思わず声が漏れる。


実佳も目を丸くして、「あれ、ホンモノじゃない?」と半笑いになる。


「ああ、びっくりした……さすがにこれは予想外」と律子も笑いながら首をすくめた。


そんなふうに、二人の時間はあたたかく過ぎていった。あの時までは。



セミナーの会場はカフェ併設の小さなホールで、内容は怪我をしたときや倒れた時の注意事項や応急処置など。想像以上に実践的だった。


セミナー後、修了証を受け取り、2人でスカイトレインに乗り込んだ。


窓際に座った律子は、手元の修了証を眺めながら「いよいよだなあ」と思っていた。そのとき、隣に座った実佳がふと口を開いた。


「律子さんが帰国するの、もうすぐだね」


「うん。7月半ばには帰ろうかなって。8月頭が予定日だから……その前に準備もあるし」


「そっか」


しばらく車内のアナウンスだけが流れる時間が続いたあと、律子は冗談めかして言った。


「その間、圭祐が浮気しないように見張っておいてね」


すると、実佳はすぐに笑い、「大丈夫だよ、圭祐さん、忙しくてそんな時間ないから!」と明るく返してきた。



そのときの声色や笑顔には、何の引っかかりも感じなかった。

ほんの少しも、疑いようのない“信頼できる女友達”の顔をしていた。


――でも、あとから思えば。


どの口が言ったのだろう。

そのときすでに、関係は始まっていたのに。


律子は、後になって何度も、あのスカイトレインの車内の光景を思い出すことになる。


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