4-2 遠くて近い影
律子が妊娠に気づいたのは、東京での生活にようやく慣れ始めた頃だった。
検査結果を見つめる指がわずかに震える。律子は息を吸い込み、穏やかな気持ちでお腹に手を当てた。
「そっか……私、母になるんだ」
誰に言うでもなく呟いたその言葉が、静かな部屋に溶けていく。
圭祐は、最初こそ驚いていたが、すぐに落ち着きを取り戻し、仕事の合間を縫って律子の体調を気遣うようになった。
東京支社の立ち上げは忙しかったが、それ以上に、彼の心には家族を持つ実感が静かに広がっていた。
律子は、その喜びをいち早く実佳に伝えた。
ビデオ通話越しに「本当に、おめでとうございます!」と笑顔で手を叩く実佳。
その表情に、曇りは見えなかった。
「律子さんがママかあ。……なんか不思議。でも、絶対に素敵なママになりますね」
その言葉に、律子も素直に微笑んだ。
実佳は本当に、自分のことのように喜んでくれている――そう思っていた。
だがその裏で、実佳の胸の内には、別の感情が冷たく渦巻いていた。
——社長夫人、かあ……。
圭祐という存在に対して、実佳が明確に何を望んでいたのか、自分でもはっきりとはしていなかった。
けれど、「あの人の隣にいる律子さん」が、どうしようもなく羨ましかった。
美しくて、賢くて、愛されていて……すべてを持っているように見える律子に対して。
それは、実佳の中にあった承認欲求の炎を静かに煽った。
東京支社とバンクーバー支社をつなぐ社内チャット。
必要な業務連絡のついでを装って、実佳は少しずつ圭祐とのやり取りの「空気」を変えていった。
「社長、東京の夏はやっぱり暑いですか? こっちは今ちょうど過ごしやすくて…」
「律子さん、お元気ですか? 無理してませんか? 心配で…」
他愛ない言葉から、自然な流れで私的な関心を織り込んでいく。
圭祐は最初こそ軽く受け流していたが、妊娠による律子の体調変化で気を張っていたこともあり、実佳の「気遣い」はときに癒しのようにも感じられた。
実佳はそれを逃さなかった。
まるで心からの応援者のように、常に律子の味方であるフリをしながら、圭祐との距離を一歩ずつ詰めていった。
「律子さんのこと、本当に尊敬してるんです。私も、あんなふうに……なりたいな」
深夜のチャットで送られたその言葉に、圭祐はどう返すべきか迷いながら、「ありがとう」とだけ打った。
その小さな一歩が、実佳にとっては確かな「手応え」だった。
——社長の隣にいるのは、律子さんじゃなくてもいい。
そう思うことに、もう罪悪感はなかった。




