4-1 東京の光と影
成田空港に降り立った律子は、バンクーバーでの生活がすでに遠い過去のように感じられていた。
街の喧騒、人の流れ、湿った夏の空気。東京は、彼女にとって「帰ってきた」場所でありながら、どこか別世界にも思えた。
圭祐は新しく立ち上げる東京支社の陣頭指揮を執っており、毎日が慌ただしくも充実していた。
社長としての彼は、どこか以前よりもたくましく見え、律子もその姿を心から誇らしく思っていた。
律子は表立って仕事には関わらなかったが、裏方としてときおり経営的な視点から意見を求められることもあり、それに応じていた。
そんな中、バンクーバーに残る実佳とは、引き続き密に連絡を取り合っていた。
実佳は日々のことをマメに報告してくれて、時折、意味深な言葉を漏らすことがあった。
「最近、ちょっと考えてるんだよね。……会社辞めようかなって」
突然のメッセージに、律子は少し驚いた。
だが、彼女の返した言葉は、友達というより経営者としての本能から出たものだった。
「実佳さん、あなたが辞めたからって会社が傾くようなら、それはもう会社じゃないの。
それでも、どうしても辞めたいなら、後任をちゃんと育ててからの方がいいわ」
遠回しではあったが、その言葉には明確な芯があった。
しかし実佳にとって、それは“自分がいなくても会社は回る”という現実を突きつけられたように感じられた。
彼女は、自分こそが組織の中心であると固く信じていた。
経理という立場にありながら、他部署の業務にも首を突っ込む癖があったし、周囲の人間関係においても、自分がハブでなければ気が済まない。
律子の言葉は、その確信に小さな亀裂を入れた。
けれど、実佳は何も変わらぬ表情で応じた。
「うん、そうだね。律子さんの言う通りかも」
その笑顔には、曇りひとつないように見えた。
そして、翌日以降も連絡の頻度は変わらなかった。
「今日はこんなことがあって」「律子さんはどう思う?」
まるで心を許した友人に接するような言葉を投げかけ、律子もまた、警戒心など持たずに返信を重ねていた。
だが、そのやり取りの裏で、実佳の心は少しずつ濁っていた。
「社長夫人」——その言葉には、彼女なりの憧れがあった。
美しくて、聡明で、誰からも敬意を集める立場。
それを律子が自然に、しかも何の努力もなく手にしているように見えることが、どうしようもなく気に入らなかった。
律子に出会ったときから、実佳の中には小さな嫉妬が確かに存在していた。
最初はそれが何か、はっきりとは分からなかった。けれど今は違う。
——この人を、このまま上に立たせておくのは、嫌だ。
そう思った瞬間から、実佳の中で何かが音を立てて崩れはじめていた。
静かに、しかし着実に——。




