3-1 はじまりの影
ある日、実佳からメッセージが届いた。
「私、実は悩みがあるの。聞いてもらっていい?」
いつも3人で会うときは明るく控えめな雰囲気を見せていた実佳からの、突然の“個人的な相談”。
律子は少し戸惑いながらも、「いいよ」と返事をしてしまっていた。
その日の午後、指定されたダウンタウンのオフィス近くにあるBlenzで律子が席に着くと、実佳はすでに来ていて、静かにカップに口をつけていた。
普段より少しだけ濃いメイク。目の下にはうっすらクマがある。
「ごめんね、こんなふうに呼び出しちゃって……」
「ううん、大丈夫。どうしたの?」
律子がそう声をかけると、実佳は一瞬だけ周囲を見回してから、少し声を潜めた。
「……実はね、千賀子さん、ちょっと苦手で」
その言葉に律子は驚いた。あんなにフレンドリーな千賀子を苦手だなんて、正直想像がつかない。
「えっ、そうなの?」
「うん……なんていうのかな、いい人なんだけど、なんか時々、無神経というか……。ちょっとした言葉で傷つくことがあるの。律子さんは気づかない?」
「……そう、かなぁ。私はそんなふうに思ったことはないけど」
「そっか。ごめん、私が敏感すぎるのかもしれない」
そう言いながら実佳は目を伏せ、少し肩を落とした。
その様子がどこか演技めいているようにも見えたが、律子はそれを言葉にできず、曖昧に微笑むしかなかった。
「でもね、実はもうひとつあって……会社のことで」
実佳は続けて、会社での“ある女性”について話し始めた。
「咲良さんって、知ってる? 社長の右腕みたいな人」
「うん、会ったことある。指先まで綺麗にネイルしていてオシャレな人よね」
「そうそう。でもね……あの人、見た目と違って、すごく我儘で……。スタッフの前と社長の前で全然態度が違うの。私、ずっと我慢してるけど、限界に近くて」
実佳の声には微かな怒りと悔しさが滲んでいた。
「たとえばね……咲良さん、一人暮らしなの。だから私、毎朝モーニングコールしてあげてたの。心配で」
「え? でもそれ、頼まれて?」
「ううん。私が勝手にやってた。でも、この前ね、1回だけうっかり忘れちゃったの。そしたら咲良さん、会社に遅刻して……それだけならまだしも、一日中私を無視してきたの。怖くてさ……」
「……」
律子は言葉を失った。
咲良という女性の真意も、実佳の言葉の真偽もわからない。ただ、話は一方的で、どこか“誘導”されているような感覚があった。
それでも、「社長夫人」という立場で、こんな話をされてしまうと、律子も無関心ではいられなかった。
──もしかしたら、何かあったのかもしれない。
そんな思いが律子の心に入り込んでしまった時点で、すでに実佳の“罠”は始まっていたのかもしれなかった。
律子はカップのロンドンフォグをひと口すすると、まだ温かさの残る甘みが口の中に広がった。気まずい沈黙をどう埋めようか迷っていると、実佳が急に顔を上げて言った。
「……ごめんね。こんな話、律子さんにすることじゃなかったよね。社長夫人なのに、私、なに考えてるんだろ」
「そんなことないよ。社長の奥さんっていうより、私はまだこっちに来たばかりの“新入り”みたいなものだし……話してくれて、ありがとう」
そう言うと、実佳はほっとしたように微笑んだ。
「律子さんって、やっぱり優しいね。なんか……つい甘えたくなっちゃう」
その一言に、律子は少しだけ胸がざわつくのを感じた。でも、悪い気はしなかった。慣れない土地で、こうして頼られることに、どこか安心感を覚えてしまう自分がいた。
「今度、おうちに遊びに行ってもいい? 千賀子さんには内緒で、二人だけで」
「うん……もちろん」
そう返した瞬間、実佳の目がふっと笑った。ほんの一瞬のことだったが、それは確かに見えた。
その夜、律子はベッドに横になっても、なかなか眠れなかった。
──私は、誰の話を信じるべきなのだろう?
それでも、“実佳が悪意を持っている”という疑いにはまだ至らない。律子の中には、まだ彼女の言葉を信じたい気持ちが勝っていた。
やさしさの仮面をかぶった嘘は、最も美しく、最もたちが悪い。
しかし、そのことに律子が気づくのは、もう少し先のことだった。




