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2-11 遠ざかる雲、近づく決意

離陸を知らせるチャイムが鳴る。律子は背もたれに身体を預け、静かに目を閉じた。


頭の中に、真由子の声が残っていた。

「戻ってこなくてもいいからね。戻りたくなったら、私の家に泊まればいい」


そこに重なるように、バイブ音がかすかに響いた。

機内モードに切り替える直前に届いた一通のメッセージ。英樹からだった。


「頑張りすぎるなよ。律子は律子のままで、いいんだから」


その瞬間、堰を切ったように涙が頬を伝った。


「お客様、携帯電話の電源はお切りいただくか、機内モードにてお願いいたします」

CAの柔らかい注意に、律子は慌ててスマートフォンの画面を伏せ、頷いた。


泣いている理由が自分でもわからなかった。

英樹の優しさに、一華の温かさに、あるいは、まだ終わっていない何かに。


涙をぬぐいながら、律子は心の中でそっと決めた。


──私は、まだここで終わりたくない。


バンクーバーでの生活。あのコンドミニアム。香港、深圳。ふたりで歩いた街の記憶。

全部が「間違いだった」と言い切るには、まだ自分の気持ちに決着がついていない。


降り立ったバンクーバーには、澄んだ青空と乾いた風が迎えてくれた。

まだ七月。バンクーバーは、一年でいちばん輝く季節を迎えていた。

空港からの帰り道、タクシーの窓越しに見る街は、どこか少しだけ違って見えた。


「おかえり!」


家のドアを開けた瞬間、圭祐の明るすぎる声が飛び込んできた。


「いやぁ、ひとりの生活、やっぱりつまんなかったよ。冷蔵庫、スッカラカン!」


ソファの上にはぐしゃっと置かれた洗濯物、テーブルの上には律子が出発前に整理したままの雑誌。

律子がいなかった一週間、ここには「生活の気配」がまったくなかった。


「ごめん、迎えに行けなくて。でも、おばあちゃんのこと……本当に大変だったな」


圭祐の言葉は、どこか薄く感じた。


──本当に、そう思ってるの?

そう問いかけそうになる心を、律子は押し込めた。


「うん、大丈夫。ありがとう」


その日の夕食は、律子が持ち帰った日本の惣菜を並べただけで済ませた。

食卓には、いつもより少しだけ静けさがあった。


翌週から、律子は英語学校に通い始めた。


前から考えてはいたけれど、やっと決心がついた。

家にいても気が滅入るだけなら、自分の世界を広げようと、思い切って申し込んだのだ。


「いいじゃん、やってみなよ。俺も応援する」


圭祐は驚くほどあっさりと賛成した。

拍子抜けするほど明るく、そして、なにもかもをなかったことにしたかのように。


毎朝、圭祐が出勤したあと、律子はノートとペンを鞄に詰め、語学学校へと向かう。

年齢も国籍もバラバラなクラスメイトたちと並んで、挨拶の仕方から始める授業。


教室にいる間だけは、不思議と心が軽かった。

嘘も、疑いも、誰かの過去も存在しない、ただの「律子」としての時間。


──頑張り過ぎないで、でも、もう少しだけ頑張ってみる。


そんな思いを胸に、律子は少しずつ、また歩き始めていた。



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