2-9 思い出の影、再会の午後
親友の一華にだけは、バンクーバーでの出来事をすべて話していた。
盗聴器のこと、乾燥機のこと、小型カメラのことも。
彼女は電話越しに何も言わず、ただ律子の言葉をすべて受け止めてくれた。
そして最後にこう言ったのだ。
「何もできないけど、心配だけはしてるから。……頼れる人がいるって思えるだけで違うからさ」
たぶん、その「頼れる人」の一人として、一華が連絡したのだろう。
英樹から届いたメッセージは、丁寧で、少し距離のあるものだった。
胸の奥に、わずかな波紋が広がる。
もう、完全に終わった人。今は家族を持つ人。
けれど、その名前が持つ重みは、今の律子にとってどこか救いのようでもあった。
迷いながらも「会おうかな」と思っている自分に気づき、律子はそっと目を伏せた。
皇居のお濠を見下ろすようにして佇む、パレスホテル東京。
そのラウンジ「ザ パレス ラウンジ」は、午後の光を大きな窓から取り込み、どこかヨーロッパの邸宅を思わせるような静けさと品を漂わせていた。
律子は、少し早めに着いていた。
窓際の席に案内され、ふと窓の外に目を向ける。行き交う車、咲き始めた街路樹の緑。
けれど、景色は目に入っていても、心はどこか上の空だった。
やがて、英樹が現れた。
濃紺のスーツに身を包み、短く整えられた髪ときびきびした動き。
記憶の中の彼と、何もかもが変わっているようで、それでいて変わっていない雰囲気もどこかに残っていた。
「久しぶり」
英樹のその一言に、律子は少しだけ笑った。「……ほんとに、久しぶり」
コーヒーと紅茶が運ばれてくる間も、少しの沈黙が流れた。
その沈黙は、気まずさというより、お互いの「空白」を丁寧に扱うためのものだった。
「一華ちゃんから、ざっくり聞いた。無理に話さなくていいけど、……大丈夫なのか?」
その言葉に、律子は紅茶のカップを持ち上げたまま、答えを探していた。
「大丈夫、って言えるかどうか、自分でもよくわからない。でも……一華が、あなたに話してくれて、よかったと思ってる」
英樹は静かに頷いた。
「なんていうか、律子って、頑張り過ぎるよな。昔から。誰にも甘えずに、いつも自分でなんとかしようとする」
「……そんなふうに見えてた?」
「うん。別れたあとも、ずっと思ってた。あのまま一緒にいたら、俺も君のこと、ちゃんと支えられてたのかなって」
律子は、グラスの水に目を落とす。
今、この場所にいても、まだどこかバンクーバーのあの部屋の空気が体から抜けきらない気がした。
信じたいのに、信じられない人と暮らす日々。自分を責めながら、誰にも打ち明けられない時間。
「……支えてもらえばよかったな、って、今になって思う。たぶん、私はそういうの、すごく下手だったから」
英樹は言葉を返さず、ただうなずいた。その沈黙が、どこか安心を与えるものだった。
外の光が少しずつ陰り始め、ラウンジに夜の気配が漂いはじめたころ、英樹は時計に目をやりながら言った。
「そろそろ行かないと。明日も朝から会議でさ。……でも、また、話したくなったらいつでも言って」
彼が立ち上がり、律子に会釈する。
「ありがとう。……会えてよかった」
「俺も。じゃあ、またね」
英樹がラウンジを後にすると、律子はその背中を見送りながら、手元の紅茶にもう一度口をつけた。
ぬるくなった味が、なぜか心にやさしく沁みた。




