表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
20/57

2-6 嘘のなかの生活

夕暮れの光がキッチンに差し込む。

律子は、そっと包丁をまな板に置いた。

「ねえ、今夜はパスタでいい?」

背後に立つ圭祐が「うん、楽しみ」と笑ったその瞬間、

律子の中で何かがふっと冷えた。


──この笑顔を、私は信じていいの?


律子は笑顔を返さず、ただ無言で鍋に水を張った。

かちゃり。何でもない音が、やけに大きく聞こえた気がした。


それでも、律子は努めていつも通りにふるまった。

朝にはきちんとベッドを整え、洗濯物を畳み、食器を磨く。

まるで「ちゃんとした日常」を続けていれば、心のざわめきも消えると信じているかのように。

けれど本当は、目の端に映る圭祐の姿ひとつで、胸の奥がきゅっと締めつけられる日々だった。


そんなある日の夕方。

バンクーバーの空は低く曇り、外の景色もどこかぼやけて見えた。

キッチンでぼんやりと紅茶を入れていた律子のスマホが震えた。

「……おばあちゃんが、亡くなったの」


母の声はかすかに震えていた。

父方の祖母。近所というほどではないが、車で二十分ほどの距離に住んでいて、律子が幼い頃は、忙しい両親に代わって週末に泊まりに来てくれた、かけがえのない存在だった。

結婚式には体調の問題で招待できなかったが、出発前に会いに行くと「早く律子のひ孫が見たいね」と、目を細めて笑ってくれた——そんな祖母だった。


だからこそ、その訃報は、思っていた以上に律子の胸を締めつけた。

遠く離れたこの土地で、突然糸がぷつりと切れるように、心の奥が冷たくなっていくのを感じた。

胸がざわつき、目頭が熱くなる。


「帰ってこれる?一週間くらいでいいのよ」

「……うん。行く」


圭祐にその話をしたのは、その夜の食事のあとだった。

「そうか……それは大変だったね」

圭祐はそう言いながらも、あくまで淡々としていた。


「で、いつ戻るの?」

「明後日。……一人で帰るね」


律子は一瞬、圭祐が「空港まで送るよ」と言うのを期待してしまった自分に嫌気がさした。

だが、圭祐は予想通り、少し申し訳なさそうに肩をすくめただけだった。

「ごめん、日本から戻ったばかりで、仕事のスケジュール厳しくて」


そう。分かっていた。

今のふたりは、心を通わせるどころか、ただ最低限の言葉を交わして暮らしているだけなのだ。


出発の朝。

スーツケースを引きずりながら玄関を出た律子は、ひとりタクシーを呼び、静かにドアを閉めた。

その音が、自分の中の何かを断ち切るように響いた。


飛行機の窓の外には、広がる灰色の空と、低く垂れ込めた雲。

律子は何も考えず、ただ手元のカップに注がれた水を見つめていた。


──離れている間に、何かが変わってくれるだろうか。

そう思いたい気持ちと、何も変わらない現実を知っている自分が、胸の中でせめぎ合っていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ