2-6 嘘のなかの生活
夕暮れの光がキッチンに差し込む。
律子は、そっと包丁をまな板に置いた。
「ねえ、今夜はパスタでいい?」
背後に立つ圭祐が「うん、楽しみ」と笑ったその瞬間、
律子の中で何かがふっと冷えた。
──この笑顔を、私は信じていいの?
律子は笑顔を返さず、ただ無言で鍋に水を張った。
かちゃり。何でもない音が、やけに大きく聞こえた気がした。
それでも、律子は努めていつも通りにふるまった。
朝にはきちんとベッドを整え、洗濯物を畳み、食器を磨く。
まるで「ちゃんとした日常」を続けていれば、心のざわめきも消えると信じているかのように。
けれど本当は、目の端に映る圭祐の姿ひとつで、胸の奥がきゅっと締めつけられる日々だった。
そんなある日の夕方。
バンクーバーの空は低く曇り、外の景色もどこかぼやけて見えた。
キッチンでぼんやりと紅茶を入れていた律子のスマホが震えた。
「……おばあちゃんが、亡くなったの」
母の声はかすかに震えていた。
父方の祖母。近所というほどではないが、車で二十分ほどの距離に住んでいて、律子が幼い頃は、忙しい両親に代わって週末に泊まりに来てくれた、かけがえのない存在だった。
結婚式には体調の問題で招待できなかったが、出発前に会いに行くと「早く律子のひ孫が見たいね」と、目を細めて笑ってくれた——そんな祖母だった。
だからこそ、その訃報は、思っていた以上に律子の胸を締めつけた。
遠く離れたこの土地で、突然糸がぷつりと切れるように、心の奥が冷たくなっていくのを感じた。
胸がざわつき、目頭が熱くなる。
「帰ってこれる?一週間くらいでいいのよ」
「……うん。行く」
圭祐にその話をしたのは、その夜の食事のあとだった。
「そうか……それは大変だったね」
圭祐はそう言いながらも、あくまで淡々としていた。
「で、いつ戻るの?」
「明後日。……一人で帰るね」
律子は一瞬、圭祐が「空港まで送るよ」と言うのを期待してしまった自分に嫌気がさした。
だが、圭祐は予想通り、少し申し訳なさそうに肩をすくめただけだった。
「ごめん、日本から戻ったばかりで、仕事のスケジュール厳しくて」
そう。分かっていた。
今のふたりは、心を通わせるどころか、ただ最低限の言葉を交わして暮らしているだけなのだ。
出発の朝。
スーツケースを引きずりながら玄関を出た律子は、ひとりタクシーを呼び、静かにドアを閉めた。
その音が、自分の中の何かを断ち切るように響いた。
飛行機の窓の外には、広がる灰色の空と、低く垂れ込めた雲。
律子は何も考えず、ただ手元のカップに注がれた水を見つめていた。
──離れている間に、何かが変わってくれるだろうか。
そう思いたい気持ちと、何も変わらない現実を知っている自分が、胸の中でせめぎ合っていた。




