プロローグ
律子はビクトリアドライブの赤く色づく街路樹を見ながら、頬をつたる涙に自ら驚いた。
「あぁ、バンクーバーって、こんなに綺麗な街だったんだ……」
カナダ西海岸の都市、バンクーバーに移り住んで三年。
この街の景色をゆっくり味わう余裕もなく過ごしてきた自分に、律子は今さらながら気づかされた。
日々の生活に追われ、目の前の問題をこなすことばかりに精一杯だったあの時間――。
心に余白がないというのは、こういうことなのかもしれない、と初めて思った。
圭祐との出会いは四年前、在東京カナダ大使館で開かれた交流会だった。
若くして商社を立ち上げ、カナダとの取引を始めて間もなかった律子に、バンクーバーで貿易会社を経営する圭祐が目を留めた。
当時の圭祐は、最初の妻と離婚して三年が経ち、長く付き合っていた恋人とも別れて間もない頃だった。
新しい人生のパートナーを求めていた彼が掲げた条件は三つ――
「英語が話せること」「海外での生活に耐えられること」「有名大学を卒業していること」。
律子はそのすべてを満たしていた。
それどころか、自ら会社を立ち上げ、男たちの中で堂々とビジネスをこなす彼女の姿に、圭祐は強く惹かれたのだった。
一方で律子もまた、会社設立当初に掲げた目標を一通り達成し、少しだけ虚しさを感じていた頃だった。
そんな彼女にとって、圭祐の情熱的なまなざしは、不思議な安心感と希望を与えてくれた。
誰かと未来を思い描くことなど、しばらく忘れていた――そんな律子の心に、圭祐は静かに入り込んだのである。
そして、恋に落ちるのは、あっけないほど早かった。
結婚を意識するまでに、そう長い時間は必要なかった。