Dove sei andato? あなたはどこへ
目を覚ますと、フランチェスカの屋敷の部屋に寝かされていた。
閉められたカーテンから、うすい光が透けている。
ランベルトはゆっくりと起き上がり、部屋のなかを見回した。
昼間なのか、とぼんやりと思う。
いったい今日は何日なのか。
床を見回す。
あちらこちらに散らばったはずの陶器の人形の欠片は、跡形もなく消えていた。
ここで兄パトリツィオが使役する者たちと、ダニエラの操る人形たちとのすさまじい戦闘があったなど夢であったのかと思うほどに部屋は片づけられ、整然と整えられていた。
兄とバルドヴィーノが土足で上がり攻防と舌戦を繰り広げていたベッドも、足跡などなくきれいな寝具に替えられている。
「兄上」
ランベルトは、室内をもういちど見回した。
ベッドで眠りにつくまえは何があったのだったかと懸命に思い出そうとしたが、いまいち記憶がぼやけている。
兄がいっしょにいたはずだが。
ずっと手首をつかみ誘導してくれていたのは覚えている。
真っ暗な城の通路のなか、一定間隔で響いていた兄の靴音とセリフの断片を覚えていた。
「兄上」
ランベルトはかけられていた掛布をのけ、ベッドのはしに脚を投げだして座った。
城の暗い通路を長々と歩き、大きな鏡のある広間にたどり着いた記憶があった。
その鏡に押しこめられた気がする。
兄もいっしょに鏡に入った気がするが、その後どこへ行ったのか。
「兄上」
まさかと思う。
もう冥界に帰ってしまったのか。
「いや待て、兄上」
ランベルトはだれに言うでもなくつぶやいた。
話したいことがいろいろとある。
兄だと気づくまでに、ずいぶんと時間がかかったのだ。そのあいだ兄弟としての会話はなかった。
「兄上!」
冥界に帰られてしまった以上、この世のどこに駆けつけてもムダだが、じっとしていられずにランベルトはベッドから立ち上がった。
あわててシャツの留め具をとめる。
「兄上!」
ランベルトは部屋のあちらこちらに向けて呼びかけた。
「どこにいるのだ! 兄上!」
そのあたりからまた唐突に現れるのではないか。そう期待して室内を見回す。
「別れのあいさつもなしとは、ひどいではないか! 兄上!」
何も応えない空間に向けて呼びかける空しさにいら立ち、声を張る。
「兄上!!」
カチャ、と部屋のドアが開く。
「では一両日中に」
「急がなくてもよろしいのよ」
開いた隙間から男女の声が聞こえた。
ランベルトは動作を止め、隙間から覗き見える男女の様子をじっと見た。
ややしてからドアが大きく開けられる。
仮面をつけたパトリツィオが入室し、しずかにドアを閉めた。
「起きたか」
白い手袋を直しながらベッドに近づく。
「兄上……」
「何だその、がっくりした顔は」
パトリツィオが声音を落とす。
「いや……」
ランベルトは、脱力してベッドにどさりと座った。
「まだいらしたのか……」
「残念そうに言うな」
パトリツィオが嫌そうに言う。
冗談ではなく本気で言っているのだろうか。
もしかして生前のこの人は、歳の離れた幼い弟の表情を読み間違うことが多かったのだろうか。
嫌われているなどと思いこんでいたのは、そういうことなのか。
「仮面を……またつけていらっしゃるのか、兄上」
ランベルトは言った。
パトリツィオが、目の部分をかくしたマスカレードマスクに手を伸ばす。
とるのかと思ったが、ただ指先で直しただけだった。
「……とってはくださらないのか」
「自分と似た顔がそんなに見たいのか」
パトリツィオが吐き捨てる。
「そんなナルシストに育てた覚えはない」
「……兄上にはほとんど育てられていないのだが」
ランベルトは困惑しながらそう返した。
「せめてフランチェスカの前ではとってあげたらよかったのでは」
フランチェスカが、このまま兄だと知らずに別れるのは切ない気がする。
仮面をつけていても、従者を装った目の前の男が兄にそっくりだと言った人だ。
生前の兄と、ほんとうに仲がよかった。
本来であれば親に決められた相手とはいえ、仲のよい夫婦になっていただろうにと思う。
「だからおまえは逢い引きの相手すらおらんのだ」
パトリツィオが窓ぎわに歩みよる。閉めてあったカーテンをしずかに開けた。
さわやかな陽光が室内に射しこむ。
よく晴れていた。
延々とうす暗い日のつづくダニエラたちの世界をランベルトは思い出した。
明けない夜がつづく世界に追いこまれた彼らには、同情心もある。
ダニエラとバルドヴィーノは、その後どうしたのか。
兄が説明していたとおりなら、必ずしも合意の内容をすべて守る必要がないのは分かっていると思うが。
それでも結ばれるだろうか。
「いまさら死んだ男が目の前に現れてどうする」
パトリツィオが窓の外をながめて言う。窓の外の丘陵地には、遠くまでオリーブ畑が広がっている。
「単純に会えれば嬉しいのでは」とランベルトは言おうとした。
違うのだろうか。
兄が死去したのち、べつの御家の奥方として人生を歩んできたフランチェスカと、冥界にいて時が止まっていた兄は、もう再会などしないほうがいい間柄なのか。
「……私にたいして正体を隠していたのも、そういうお考えからか、兄上」
ランベルトはそう問うた。
「最後まで正体不明の霊として事を収めるつもりだったのか」
パトリツィオは背中を向けたままだ。陽光を照り返す遠くのオリーブ畑をじっと見つめている。
兄にとっては、なつかしい景色も見納めという気持ちなのか。
「嫌ってなどいないとなんども言った、兄上」
ランベルトは言った。
「私は兄上が来てくれたことが嬉しいし、なんども救ってくださったことに感謝している」
パトリツィオはじっと窓の外を見ていた。
「たとえそれで、ふたたび別れが来るのだとしても……」
「うるさい」
突如パトリツィオがそう声を発する。
「弟などより、かわいらしい妹がほしかった」
そう言いパトリツィオはつかつかと部屋の中央に移動した。
何だそれは。
目をぱちくりとさせながら、ランベルトは兄の動きを目で追う。
「フランチェスカにバレんように、この部屋を片づけさせるのに難儀した」
パトリツィオが言う。
「屋敷のほうもぼちぼち片づいたようだし、一両日中には帰るぞ」




