コシュマール 〜薔薇の心臓〜

Episodio undici 鎌のような月

Luna come falce. 鎌のような月 I

　フランチェスカの屋敷に滞在して数日が経った。

　駆けこんだ日に真円に近かった月は、少し細くなっている。

　そろそろ迷惑ではないかとランベルトは気がかりになっていたが、アノニモはここを出るのをなかなか許してくれなかった。

　よくよく考えたら、なぜ自分はこの素性不明の霊の言うことをこうも素直に聞いてしまっているのか。

　ベッドのヘッドボードを背にして座り、ランベルトは窓辺に立つ将校服の姿を見た。

　兄にクセや話し方が似ているとフランチェスカが事あるごとに言っているが。

　だから何となく逆らいにくいのか。

　ランベルトは眉をよせた。

「何ですか？」

　じっと見つめているのを不審に思ったのか、アノニモが問いかける。

「いや……」

「素性なら話す気はありませんよ」

　こんどは先に言うようになったか。ランベルトはさらにきつく眉をよせた。

「さっさと寝てください。もう夜遅い」

　アノニモはそう言い、アンズ色のカーテンを閉めた。

「毒はそろそろ抜け切ったのではないかと思うんだが」

　ランベルトは言った。

　きのうから今日にかけて目眩(めまい)はまったく起こっていない。

　この状態にいたるまでに、アノニモの使役する美女の悪魔になんど接吻されたことか。

　やわらかな唇の感触とミルラの香りは、しばらく脳裏に残りそうだと思った。

「そうですね」

　アノニモが言う。

　ベッドに近づくと、かたわらの椅子に腰かけた。

「屋敷がどうなっているのかが気になる。見に行ってはだめか」

「生き残りの使用人たちが何とか片づけているようですよ」

　アノニモが答える。

「見てきたのか」

「ちょくちょく見に行っています」

　アノニモは微笑した。

「人手は？　足りているのか」

「逃げて助かった者が思ったよりいたようで」

「……よく屋敷にもどってきたな」

「逃げた者すべてかは分かりませんが」

　アノニモは脚を組み、膝(ひざ)の上で手を組んだ。

「もどらない者から妙な話が流布(るふ)するかもしれません。何か対策したほうが」

「ああ……そうか」

　ランベルトはかけられた敷布を見つめた。

「父はどうしている」

「片づけにはいっさい参加せず、何の役にも立っておりません」

「いやそうではなく。ご無事か」

「忌々(いまいま)しいほどご無事です」

　アノニモが声音を落とす。

「……おまえはうちの父のことになると、いちいち棘(とげ)があるな」

「そうですか？」

　アノニモはそう返し、椅子の背もたれに身体をあずけた。

　軋(きし)む音がしない。何となくランベルトは納得しながら見ていた。

「様子を見たい気持ちは分かりますが、あなたが行けばまた同じ騒ぎを仕掛けられる可能性もある。やめたほうが」

「あれは、私がいたからなのか？」

　ランベルトは問うた。　

「あなたが屋敷から逃げて以降、何の手出しもされていないところをみると」

「目的は」

「そこ、確認しそこねたんですよね……」

　アノニモが額(ひたい)に手をあてる。

「婚姻話を持ちこんだ目的は吐かせたんですが」

「ではここにいては、こんどはフランチェスカを危険にさらすではないか」

　そう思い立ち、ランベルトは周囲を見回した。

「それなんですよね」

　アノニモが肩をすくめる。

「だから早く体調をもどすことに専念してくれと」

「いや、それを先に言えば宿屋に泊まった」

　ランベルトは掛布をめくりベッドから降りると、靴を履いた。

　借りていたシャツの留め具に手をかけ、あわただしく外す。

「すぐにここを出る」

「夜中ですよ」

　アノニモがそう返す。

　ランベルトはかまわずシャツを脱いだ。

　アノニモが脱いだシャツを受けとると、それをランベルトの肩にかける。

「使役する者を、屋敷中に待機させています」

　そう言い、ランベルトにもとどおりシャツを着せて留め具をとめる。

「フランチェスカ殿にまで何かさせるつもりは、私にもありません」

　ランベルトは黙って、留め具をとめる指先を見ていた。

「強引に眠らされたくなければ、今日のところは寝てください」

　アノニモが言う。

「強引にって」

「手刀で気絶させられるのと薬物をむりやり飲まされるのと、催眠をかけられるのとではどれがよいですか？」

「……どれもいやだ」

「では寝てください」

　眠りに落ちて、どれくらい時間が経ったのか。

　ランベルトは目を覚ました。

　部屋は暗い。カーテンを通して入る月明かりもほとんどないようだ。

　耳鳴りがしそうなほどの静けさと、ひんやりとする空気の感じ。まだ深夜だろうか。

　ベッドのすぐ横に、白い服の姿が浮かび上がっていた。

　アノニモか。

　こうしていつもそばについているのか。

　不意にアノニモがクルリとこちらを向き、枕元に歩みよる。

「ランベルト」

　そう呼びかける。

「どうした」

　何か異変かと察した。

　起き上がろうと肩を動かす。

「そのままでよろしくてよ、ランベルト様。夫になる方ですもの。寝姿など何とも思いませんわ」

　どこからともなく高いヒールの靴音が響いた。

　窓ぎわの何もない空間がかすかにゆがみ、空中に水面のような波紋をえがく。

　ドレスの女性が現れた。

　ダニエラだ。

　レースで飾られた黒いドレス姿が、暗い部屋のなかにひときわ濃く浮かぶ影のように見える。

　マシコート色のドレスの侍女が、両側に一人ずつかしずいていた。

　どんよりと渦巻くような禍々(まがまが)しさを感じ、ランベルトは目を眇めた。

　たしか彼女らはべつの種の人類なのだとアノニモが言っていたが、この禍々しさは何を感じとったものなのか。

「先日はどうも。女王様」

　アノニモが口を開く。

　室内のロウソクにいっせいに火が灯る。

　一瞬ダニエラが何か仕掛けたのかと思ったが、まえにもアノニモが手品のように火をつけてみせたことがあるのを思い出した。

　部屋がオレンジ色に照らされる。

　ダニエラは無言でレースの扇を広げると、アノニモを無視するように顔を逸らした。

「今日は本物か？　それともまた人形か？」

　かまわずアノニモがそう尋ねる。

「人形？」

　ランベルトは身体を起こした。

「うつくしく吹きだした鮮血も幻だったようで」

　アノニモが言う。

「あの従者がいないところをみると、今日も」

「亡霊ふぜいが。鬱陶(うっとう)しい」

　ダニエラが見下すように言う。

「ランベルトに素性を暴露されたくないなら、黙りや」

「この場で下着の素材と黶(ほくろ)の位置を言われたいならどうぞ、女王様」

　アノニモが肩をすくめる。

「な……」

　ダニエラは口元から扇を外し、怒りとも羞恥ともとれる表情をした。

「おまえはダニエラ殿に何をしたんだ」

　ランベルトは眉をよせた。

「婚姻を断りたい相手でも何かされると惜しいですか」

「そういう問題ではない」

「首をおさえていたら、襟元(えりもと)からいろいろ見えるんですよね」

　アノニモは、腕を鉤(かぎ)状に曲げてみせた。

「首をって」

「まあ、ちょうどいい」

　アノニモは言った。

「ここでバルロッティ家との婚姻話の破棄を正式に申し入れる。承知してくださいますね」

「おまえがか、亡霊」

　ダニエラが片眉を上げる。

「コンティ家当主の名代として言っている。当主の状態が状態なので、代理として執事に話を通したが」

「なるほど」

　ダニエラが唇をクッと上げた。