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コシュマール 〜薔薇の心臓〜  作者: 路明(ロア)
Episodio dieci あなたの香りがする

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Profumo di te. あなたの香りがする III

「仕方のない」

 アノニモがつぶやく。

「消えていろ」

 そう指示する。

 美女の悪魔は一、二歩うしろに下がり、空中に消えた。

 いつの間に現れたのか、ドアのまえに正装した若者が二人立っている。

 アノニモの指示でドアを開けた。

「あら……」

 見慣れない若者二人にフランチェスカが戸惑う。

「ランベルト、この方たちは」

「ええと」

 ランベルトはアノニモの顔を見上げた。

「恋人」

 アノニモが答える。

「えっ……」

「……は来ていませんね。その者たちは、ゆうべ遅れて到着した従者です」

 フランチェスカがアノニモをじっと見つめる。

 ヘッドロックの体勢でいるせいではないか。ランベルトはアノニモに視線を送った。

 「ああ」とつぶやいてアノニモが身体を起こす。 

「お見苦しいところを。主人が、休んでいたほうがよいという具申をいっこうに受け入れてくれないものですから」

 アノニモが襟元(えりもと)を直す。

 フランチェスカは、クスクスと笑いだした。

「従者の方、やっぱりパトリツィオに似ていらっしゃるわね」

「兄にこんな乱暴なことをされた覚えはないよ」

 ランベルトは首をさすった。

「ランベルトが赤ちゃんのときにやってたわよ。おもしろがって」

「……は?」

 ランベルトは目を丸くした。

「もちろん、ちゃんと手加減はしていたけど」

 完璧で厳格でストイックな人という兄のイメージが、そうとう崩れた気がした。

 そんな悪ふざけをする人だったのか。

 フランチェスカはサイドテーブルに着替えを置くと、はしを少しめくって確認した。

「侍女の弟君のものを借りたのだけれどいい? うちには男ものとか置いていなくて」

「ああ……べつに着替えなんて」

 女中が上着のようなものを持ってくる。

 フランチェスカは受けとり、開いて襟元や留め具を軽く確認した。

 完全に幼い息子か弟の部屋にきたかような様子だ。男性というあつかいではない。

 アノニモが、フランチェスカの動きを目で追っているのに気づいた。

「寒くない?」

 フランチェスカがそう尋ねる。

 ベッドに近づくと、ランベルトの掛布を直した。

「寝ていたほうがよい状態なのでしょう?」

「いや、大丈夫」

 ランベルトはあわてて断った。

 完全に男性とは見られていないらしいが、こちらは気恥ずかしい。


「私がやりますので、奥方(モナ)


 アノニモがやんわりと制止する。

 あ、という顔をしてフランチェスカはゆっくりと手を引いた。

「いつもやっていただいている方のほうがいいわね」

「いや……やっていただいているわけでは」 

 ランベルトは眉をよせた。

「いつも、やっておりますから」

 アノニモがそう返し、雑な手つきで掛布を直す。

 ふわりと何かの香りを感じて、ランベルトはアノニモの手先を凝視した。

「いつから仕えていらっしゃるの? 従者の方」

 フランチェスカがほほえみながら問う。

「ごく最近ですね」

「お食事を運びたいのだけれど、こちらのお部屋でいいかしら」

「そうですね、こちらで。私とそちらの従者は不要ですので、主人のものだけで」

 アノニモは掛布を直し終えると、ぽんぽんと手の平でたたいた。

「そんなクセまでパトリツィオと同じなのね」

 フランチェスカがクスクスと笑う。

 アノニモがピタリと手を止めた。




 フランチェスカが退室すると、入れ替わりでアノニモが使役する美女の悪魔が現れた。

 ベッドからやや離れたところで行儀よく待機する。

「香水をつけているのか?」

 ランベルトは尋ねた。

「彼女のつけている香りはミルラですが」

 アノニモが美女を指して答える。

「いや」

「フランチェスカ殿ですか? 失礼ですよ」

「……ほかの女性のそういう話は平気でするのに、フランチェスカは失礼なのか」

「身分のある家の女性ですから」

 アノニモが答える。

「ダニエラ殿もそうではないか」

「別種族の女王など、身分のうちに入りません」

「いやおまえだ」

 ランベルトは言った。


「香水の香りがする」


 アノニモは、しばらくこちらを見ていた。

「霊でも香るんですかね」

 将校服の袖口(そでぐち)を顔に近づける。

「香りが気にさわりました?」

「いや」

 ランベルトは天井の模様を見つめた。


「どこかで嗅いだ覚えがある香りなんだが」


 アノニモが現れはじめたときにも思った。

 だいぶ以前に、日常的に嗅いでいた香りのような気がするのだが、何だったか。

「ふしぎな香りだな。ハーブのような、焼き菓子のような」

 ランベルトは前髪をかき上げた。

「だれかがつけていた香りと似ているのかな……」

 アノニモは手を伸ばして掛布を直そうとしたが、途中で動作を止めて使役する美女に指示した。

「いま思い出さなくてもよいのでは? 体調をもどすことに専念してください」

「いやでも、何か気になるな」

 ランベルトはつぶやいた。

「眠れないほどですか?」

「どうかな。まだ昼間だし」

 窓の外は先ほどよりも少し曇っていたが、悪天候というほどではない。

 太陽が高い位置にあるのに気づく。

 フランチェスカが食事を運ぶと言っていたが、だいぶおそい朝食になりそうだと思った。

「夜になっても眠れないようであれば、強引に眠らせる方法はいくらでもありますが」

 何をする気だ。

 ランベルトは眉をよせた。

「べつに無理して思い出さなくてもよいのでは」

 アノニモがしずかな口調で言う。

「思い出せないのなら、あなたにとっては重要な記憶ではないのだと思いますよ」

「そうなのかな……」

 ランベルトは天井を見つめた。





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