Lo specchio è pieno di rose. 鏡の中は薔薇で埋まり IV
パトリツィオはふと周囲を見回した。
窓と鏡、開け放たれた扉をそれぞれながめる。
「あの従者はこないのだな……」
そうダニエラに問うが、答えは期待していない。
「女王のこんな事態を見たら、飛んできそうな気がしていたのだが」
ダニエラの首にからめた腕を、グッと引きよせる。ダニエラは美しい顔を歪めて「くっ」と呻いた。
「待遇が悪いのでは? 女王さま」
パトリツィオは、ダニエラの耳元で含み笑いをした。
「いちどくらい接吻でもさずけてやったらどうだ。あれは、そういう感情をもっているように見えるが」
「だまれ、汚らわしい」
ダニエラがキッと睨む。
「下衆な考えを。……なんでもかでも色恋に結びつけるとは」
「男色のうわさ話に食いつく女王さまに言われても」
パトリツィオは苦笑した。
「まあいい」
パトリツィオは、前ポケットから刃物をとり出した。
「あとは従者にでも聞くか。世間話はこれくらいにして、契約を遂行させていただく」
「契約」
ダニエラは苦痛に目を眇めながらパトリツィオを睨んだ。
「弟と契約をしているので」
ダニエラの首に刃物をつき立てる。
「酔狂な」
「羊皮紙なんて、この件ではじめて見た」
パトリツィオはクックッと笑った。
「弟相手にそこまで演出する必要があるのか」
「死にゆく女王さまには関係ないですよ」
刃物の切っ先が、ダニエラのなめらかで肌理の細かい首筋に傷をつくる。
「ああ……」
パトリツィオはおもむろに口を開いた。
「冥界にいらしたら改めて仲よくしましょう。うつくしい顔の女性は好きですよ」
「だれがおまえなんかと」
グッと力をこめ、刃物を横一直線に引く。
「アーメン」
ダニエラの侍女たちが立ち上がり、いっせいに飛びかかる。
鮮血が頭上たかく吹き上がり、パトリツィオの顔とダークブロンドの髪を真っ赤に濡らした。
長い黒髪がみだれて血に染まる。
パトリツィオは顔の半分ほどを深紅に染め、顎からしたたる血を手の甲でぬぐった。
「動くな!」
パトリツィオは侍女たちに向けて叫んだ。
大量の血を見た本能的な嫌悪感をむりやりにおさえつけて、パトリツィオは毛を逆立たせた獣のように周りを睨みつけた。
「貴様らは本物の人形か、それともそれに似た外見をしているだけか」
侍女たちは答えなかった。
表情もなく銘々の場所で直立している。
パトリツィオは、もういちどしたたる血をぬぐった。
「……どちらでもかまわん。貴様らの女王は死んだ。おとなしく退くのなら下の者まで害することはしない」
半身だけ赤く染まった将校服の前ポケットに手を入れる。
「退け」
もういちどそう告げて、ダニエラの死体と侍女たちに背を向ける。
使役する悪魔たちの群れに近づいた。
ダニエラを欺くために微動だにするなと命令していた悪魔たちが、ようやくざわざわと動きだす。
パトリツィオはふかく息をつき、もういちど顔をぬぐった。
人間としての根源的な禁忌を犯した不快感で、なかなか落ち着くことができない。
興奮した獣のように吊り上がったままの目を、使役する者たちに向ける。
うつくしい女性の悪魔が、数人ほど進みでた。
身につけたドレスの袖や上掛けでパトリツィオの顔を染める血をぬぐおうとする。
「いい。全員、人形どもが退くまで態勢をくずすな」
パトリツィオはそう指示した。
女悪魔たちが気づかうようにパトリツィオの顔を見る。
パトリツィオはもういちど自身で顔をぬぐい、無言で歩を進めた。
カシャンカシャンカシャン、と陶器の割れるような音がする。
使役する悪魔たちがざわめいた。
パトリツィオは、音のするほうを振り向いた。
侍女たちの身体が内側から割れ、細かい素焼きのカケラのようになってその場に散らばる。
やはりほんものの人形か。
肩越しにパトリツィオはながめた。
ダニエラは、人形使いか。
コンティの屋敷でのあの死体のあやつり方の巧みさは、毒物の調合のうまさだけではなかったということか。
パトリツィオは人形たちに背を向けた。
あのコンティの屋敷の惨劇は、いったい何がしたかったのか。
もうすこし生かして追及してもよかったか。
自身は厄介事が解決すればそれでいいが、ランベルトへの説明に困るかもしれない。
カシャンカシャンと陶器の人形の割れる音をしばらく聞いていた。
やがて、割れる音が止んで静かになる。
パトリツィオは、使役する悪魔たちに帰投の合図をするため右手を上げた。
その瞬間。
ひときわ大きな破砕音がした。
軽く涼やかな音が、大ホール内をつらぬく。
パトリツィオはふり向いた。
ダニエラの死体は、侍女たちと同じように砕けていた。
臙脂色のドレスの袖や襟ぐりから破片がこぼれている。
人形だったか。
パトリツィオは砕けた身体を見つめた。
どうりであの従者がこなかったはずだ。影武者だと知っていたのか。
「やってくれるな。女王さま……」
パトリツィオは口の端を上げた。




