Lo specchio è pieno di rose. 鏡の中は薔薇で埋まり I
客室の数はそれほど多くない。
数部屋ほどなのだろうか。
わずかな使用人と暮らす未亡人の社会からとり残された生活を表している気がした。
アノニモは、スッと手を上げてサイドテーブルに置かれた手燭の灯りを消した。
月の光がカーテンごしに射しこむ。
部屋を青白く照らしていた。
窓ぎわにある長椅子に腰かける。
天蓋の布のすきまから、眠っているランベルトをじっと見つめた。
部屋に案内されるなり、たいした会話もなく眠ってしまった。
あれほど驚くようなことが起こってもぐっすりと眠れるものなのか。
アノニモは、ゆっくりと脚を組んだ。
子供のころも様子を見るたび寝てばかりいた印象だ。
暗いオレンジ色の火焔が出現し、宙に浮いている。
ややしてから、厳つい形の悪魔が片膝をついた格好で姿を現した。
「おまえはとりあえず消えていろ。ご婦人を怯えさせてしまう」
悪魔は小さくうなずくと、暗闇に溶けこむように姿を消した。
入れかわるようにして、青年の姿をした二人の悪魔が姿を現す。
明るい金髪の者と、白っぽい灰髪の者。
二人とも長身で非常に見目良く、正装で身を包んでいた。
「ランベルトの護衛にあたれ。自身の命と引き換えにしても守り通せ。よいな」
美しい青年の姿をした悪魔は、片膝をつきそろってうなずいた。
アノニモは窓を見上げ、月明かりの射す様子をながめた。
月など見たのは、死んで以来だ。
自身が死んだ日は、もう少し月が満ちていた。
肉体からぬけだしてベッドを囲んだ人々をながめ、屋敷の外にさまよい出て月をながめながら、ゆっくりと死んだのだと自覚した。
透けた自身の手を月明かりが素通りした。
きれいに手入れされた庭の芝生の上に、自身の影はなかった。
もう肉体にもどることはできないのだと悟った。
もどりたかったが、ムダなことなのだと頭のどこかで理解していた。
さまざまな想いが込み上げた。
跡継ぎ息子として育った。
今後は、御家はどうするのだろうと気がかりに思った。
つぎの跡継ぎになる者がいないわけではない。
だが自身とは違い、幼少のころから次期当主としての教育を受けた者ではない。
苦労させてしまうな。
そんなことをぼんやりと思った。
神は、何もしてくれないものなのだなと思った。
庭にいながら、自身の寝室に集まる人々の様子が見える。
胸元で十字を切っている者、神に祈っている者。
ムダなようだぞと口の端を上げた。
絶命してからいくらか時間が経ったが、神も御使いも現れない。
月が、いつもより巨大になり迫ってくるように見えた。
冷たい穴だらけの月の顔が、手ざわりまで感じていると錯覚しそうなほどにはっきりと見える。
月には、書物を読む女も大きなハサミの蟹もいなかった。
動くものなど何もない。
冷たく寂しい顔をしていた。
あれが死後の世界だろうか。そう思い、ぼんやりと月と見つめ合っていた。
ランベルトの寝姿をもういちどながめ、アノニモはゆっくりと長椅子から立ち上がった。
月明かりで照らされた客室を横切る。
二人の美しい青年の悪魔が、片膝をつきそろって礼をした。
客室の壁に設置された鏡に近づき、水面に入りこむように通りぬける。
鏡の入口からのびる長い廊下は、コンティ家の屋敷の廊下を模していた。
向こう側まで真っ直ぐ伸びる紅色の絨毯、壁の金のかざり、流線形の燭台。
将校服のまえポケットに片手を入れ廊下をしばらく進むと、大ホールに差しかかった。
正面と左右の三方から伸びる大階段、吹きぬけの回廊、天井に描かれた細密な宗教画。
不意にアノニモは立ち止まった。
後方に目線を向ける。
「これはこれは……」
口の端を上げてふり返る。
「男の住む屋敷に無断で入りこむとは。とんだアバズレだ」
甘い香りがする黄色い薔薇が、大ホールのすべての窓とドアから大量になだれこんだ。
大ホールを天井まで埋めつくし、アノニモをも飲みこむ。
つぎの瞬間なにごともなかったように薔薇が消え、代わりに臙脂色の上等なドレスに身を包んだ令嬢が、侍女をともないホールの中央にいた。
陶磁器の人形のような肌理のなめらかな美貌、腰までの黒髪。
ダニエラ・バルロッティ。
黒いレースの扇を口元でひろげ、禍々しい赤黒の目でアノニモをじっと見ている。
「よいのか？ 婚姻をねらった相手にあることないこと言うが？」
「従者の遊びのお相手をしてくださったようなので、主人として礼を」
ダニエラがそう告げる。
「いやいや。おたがい趣味が同じなので、お遊びにはならなかった」
アノニモは肩をすくめた。
ダニエラがフッと鼻で笑う。
「生前から、冗談の好きな面白い方だったそうですわね」
「だれからそんなことを？」
アノニモは口の端を上げた。
ダニエラは扇を手元で閉じると、一転して見下すように顎をしゃくった。
「傷をかくすための仮面などと大ウソを」
対峙する者を塵としか捉えていないような目つきだ。
「従者のマネ事などしてもムダだ。人に仕えたことのない人間など、一目で分かるわ」
特徴のあるソプラノの声が、大ホールにひびきわたる。
ダニエラは優雅な動きでこちらに近づいた。
「なにが名は無しか」
鮮血のような色の唇をクッと上げる。
「おまえの名は分かっている」
ダニエラはそう告げた。
コツ、コツ、とヒールの音をひびかせてアノニモの目の前までくると、深紅の唇を開いた。
「パトリツィオ・コンティ」
ダニエラは言った。
「十五年まえに死んだランベルトの兄だ。そうであろう」
