Cappella ci sono malizia. 悪意のいる礼拝所 II
「はい、そこまで」
若い男の声が割って入る。
やや離れた場所から近づいてくる靴音。
ランベルトは気が遠くなりグラリと姿勢をくずした。何か柔らかいものに受け止められる。
「ランベルト」
頬をパシパシと叩かれる。
「ランベルト」
さらに強く叩かれた。
うっすらと目を開ける。
マスカレードマスクのような仮面をつけた男が覗きこんでいた。
「……あの下品な女は」
ランベルトは尋ねた。
「あなたも下品だと思いましたか」
仮面の男が言う。
「私も何て誘い方をするのかと」
「いや、そこではない。父は」
ランベルトは父のほうに手を伸ばした。
「いまだ寝ていらっしゃいますよ」
姿勢すら変えずにぐっすりと寝ている父の姿が目に入る。
意識がはっきりしてくると、片膝をついた男に上半身を抱き起こされるようにしていることに気づいた。
白い将校服に手袋。
それなりの家の者のようだ。
「 “悪意” は、とりあえず引いたようですねえ」
「というか貴殿は?」
ランベルトは男から離れた。座り直して息を吐く。
「アノニモとお呼びくださいと言ったでしょう」
アノニモは、ランベルトの目のまえに羊皮紙を差しだした。
夢に出てきた契約書と同じに見える。
捺印の部分に火が灯り、羊皮紙は燃え上がるようにして手品のように消えた。
「……あれは夢では」
ランベルトは眉をよせた。
「夢魔か?」
「あんな変質者みたいなのと、いっしょにしないでください」
アノニモが答える。
「契約者の身はお守りせねばと思い、参上いたしました」
「……そういうものなのか」
「私の独自のオプションです」
いちいち調子の狂う男だとランベルトは思った。
「悪魔が人を守るのか」
「ですから、人の霊と申し上げているでしょう」
アノニモが面倒そうに言う。
「契約した以上、対価をもらうまえに死なれては困りますから」
「対価」
ゆっくりと上半身をひねり、ランベルトは男のほうを向いた。
「対価とは何だ、金か」
「霊がどこでお金を使うんですか」
「ほかに何がある」
ランベルトはそう問うた。
「そもそもあれは、夢のなかの話では」
「あそこは夢のなかではありませんよ。べつの世界です」
アノニモが言う。
「地獄か煉獄とでも言いたいのか」
「それより質が悪いところですねえ。あなたが行くには」
アノニモが肩をゆらして笑う。
「あの世界にまぎれたあなたをさがすのは、少し手間がかかった」
「なら無視して放っておけば良かったのでは?」
「欲しい対価がもらえそうな方だったので」
アノニモが微笑する。
「だからその対価とは」
祭壇のまえに立てられた鏡が、振動して歪む。
何が原因の振動かと、ランベルトは周囲を見回した。
「こちらへ」
アノニモが立ち上がり、ランベルトの腕を引く。
そのまま真っ直ぐべつの鏡に向かって進んだ。
「ちょっと待て」
ランベルトは、つかまれた手を振りはらおうとした。
「早くしなさい」
アノニモが子供を叱りつけるように言う。
「鏡に貼りつけとでも言うのか!」
「言っていません」
アノニモが、グイッと腕をつよく引く。
「鏡の中にいなさい」
反論しようとしたが、アノニモに強引に腕を引かれ鏡の中に引きずりこまれる。
鏡の外と中との境界線を通りぬけた瞬間、やはり夢を見ているのだとランベルトは思うことにした。
自分は父を連れもどしに礼拝所に来て、また倒れてしまったのか。
だれか家の者が様子を見に来てくれればいいが。
鏡の中には、コンティ家の書斎にそっくりの部屋があった。
壁にそって並ぶ書棚と、奥にしつらえられた机。
客人をむかえるさいのテーブルと肘かけ椅子。
「奇妙な夢だな」
ランベルトはつぶやいた。
「べつに夢と思っていてもいいですが」
アノニモが答える。
「私がいいと言うまで、ここから出ないでください」
アノニモの背後に鏡の形をした出入口がある。向こう側には、先ほどまでいた礼拝所が見えた。
祭壇の鏡のまえには、いつの間にあらわれたのかマリーツィアと三人の女がいる。
いずれも胸元の大きく開いた淫らなドレスを着こんでいた。
いかがわしい笑みを浮かべながら、あたりを見回している。
「出ておいでなさい、ランベルト君。わたくしたちが遊んで差し上げましてよ」
マリーツィアが呼びかける。
「父をたぶらかした女どもだ」
ランベルトは眉をよせた。
「ちなみにお母上はどうしておられる」
「先立ってお気が触れられ、田舎で療養中だ」
「何とまあ、親御さまお二人そろって頼りがいのない」
アノニモがあきれたような声を上げた。
「おまえに関係ない」
ランベルトはムッとして答えた。
「それにしても、そろいもそろってあのドレスは何だ、ふしだらな」
「ああいうのを悪魔というんですよ」
アノニモが子供に教えるように言う。
「悪魔は大袈裟だ。ただの淫らな女どもだ」
「あれは本物の悪魔です」
アノニモは仮面を軽く押さえた。
「たぶらかしているのは父一人だ。大勢の人間をたぶらかしているわけではない」
「なに悪魔の擁護をしているのですか、あなたは」
アノニモが言う。
「あれは本物だと言っているでしょう」