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コシュマール 〜薔薇の心臓〜  作者: 路明(ロア)
Episodio uno 悪意のいる礼拝所
2/79

Cappella ci sono malizia. 悪意のいる礼拝所 I

 目が覚める。

 自身の私室のものではない天蓋(てんがい)が目に入った。

 父の私室のベッドだと気づく。なぜこんなところに寝ているのだとランベルトは記憶をたどった。

 まくらが少し年配男くさいなと思いつつ上体をおこす。

 部屋を見回したが誰もいない。

 奥の大きな窓からはうすい陽光が射しこみ、昼をやや過ぎたあたりだと見当がついた。

 どこかの窓が開いているのか、父の読書机の上にある羽根ペンがゆらゆらとゆれる。

 しばくして入室してきた執事がこちらを見て駆けよった。

 上体を屈ませ、面長の顔を近づける。

「ご気分は」

「私は何をしていた」

 ランベルトはそう尋ねた。

 まだ少し頭がぼやけている。髪を雑に掻き上げた。

「先ほどまで旦那さまに」

 執事がそう言いかけたあたりで、ようやくすべて思い出した。

「……ああ、分かった」

 ランベルトは、もういいというふうに手で制した。

 父の私室に押しかけ、抗議していたのだ。

 上の空の返事しかしない父にいらだち、さらに言葉を続けたところで気が遠くなった。

 渦巻いた黒い雲に捉えられたような感じがして、ゆっくりと血の気が引いたかと思うと意識が失せた。

「そうだった……」

 ランベルトは呟いた。

「私の部屋まで運んでくれたらよかったのに」 

 苦笑してベッドの上を見回す。

「旦那さまもここでよろしいとおっしゃいましたので」

「誰がどこで寝ていようが、もう関心などないのだろう」

 執事は黙っていた。

「それで父上は」

「お出かけになられました」

「またか……」

 ランベルトは顔をしかめた。

「しかたがない。出先で抗議のつづきをする。馬を用意してくれ」

 かけられていた毛布をのけランベルトはベッドから降りた。

「だれかに案内させますが」

「いい。例の礼拝所だろう?」

 ランベルトはゆるめられていた(えり)を片手で整え、ベッドから降りた。




 教区教会は、街の入りくんだ道ぞいにある。

 石畳の敷かれたせまい道路で馬から降りると、ランベルトは教会入口の鉄輪に馬をつないだ。

 先々代の教皇が建てた教会は、教皇の出身家の紋章が入口に掲げられていた。

 教会のなかにあるコンティ家専用の礼拝所は、入口に教皇の家の紋章とコンティ家の紋章がたてに並べて掲げられている。

 つかつかと礼拝所に向かうと、ランベルトは扉をあけ奥に向かって声を上げた。


「父上!」


 返事はなかった。

 中は暗い。衝立(ついたて)のように目のまえに立てられた鏡が、なかの様子を隠している。

「父上!」

 ランベルトは呼びかけながら奥へと入った。

 なかは礼拝所としてはかなり異様な様子に改装されていた。

 両側に隙間なく大きな鏡が貼られ、あわせ鏡の通路を作っている。

 無数の自身の姿が映っていた。

 ダークブロンド、年齢よりも少し幼く見える顔立ち。あまり(たくま)しいとはいえない細身の体型。

 十五年前に死んだ兄もよく似た容姿をしていたのを覚えている。

 しつこく続くあわせ鏡の通路に、精神のバランスを崩しそうになる。

 吐き気をもよおしそうだ。

 

「父上!」


 ようやく鏡の通路を抜ける。祭壇がしつらえられている場所に出た。

 掲げられていたはずの大きな十字架は外され、ワインのグラスがあたり一面に散乱している。

 グラスにまぎれるようにして、父はあおむけに倒れていた。

 服をだらしなく乱し、大柄な身体を床に投げ出している。

「父上!」

 ランベルトは駆けよった。

 父のかたわらに座り、心の臓を確認する。動いてはいた。

 酔って寝ているだけか。ホッと息をつく。

 床に散乱するグラスを見回した。

 割れているものまである。

 抗議していたのは、父のここ最近の生活ぶりだ。

 生真面目で実直だった父が、一ヵ月ほどまえから急に礼拝所を改装し、邪教の真似事に凝りだした。

 よく分からないものを崇拝しては女遊びにふけり、執務もせず一日中酒を飲みつづけている。

 どういうことかと尋ねても、呂律(ろれつ)の回らない口調でズレたことを返す。

 今のところ屋敷に戻っては来るが、この異様な礼拝所にいる時間はどんどん長くなっていた。

 父が薄目を開ける。

「マリーツィア」

 ぼそりと口にする。

「いえ。ランベルトです、父上」

「マリーツィアはどこに行った」

「それ、新しい女の名ですか?」

 ランベルトは父の顔の横に両手をつき、真上から声を張り上げた。

「いい加減にしてください、父上! いつまでつづけるのですか!」

「マリーツィア」

「ランベルトだと言っているでしょう!」

 父がまた何かをつぶやく。

 抗議など、もう耳には入っていないのだなと思った。

 溜め息をついて身体を起こす。

 引っぱたいて正気に戻したいところだが、一族の当主にそうもいくまい。

 執務は、ここのところランベルトが執り行っていた。

 跡継ぎとしてひととおりのことを教わっているとはいえ、執事に手伝ってもらいながらでもまだ効率は悪い。

 のこりの執務の量を考えたら、そう長居するわけにもいくまい。

 雑に髪を掻き上げる。

 ここはいったん帰宅して改めて父を運べる者をよこすか。そう考えて立ち上がろうとした。


 ヒールの高い靴の音がする。あわせ鏡の通路を通ってくるようだ。


 ややして姿をあらわしたのは、胸元を大きく開けたドレスの女だった。

 少しかがめば隠すべき箇所まで見えてしまうのではないかというほどの(きわ)どい胸元。

 黒い髪を寝乱れたようにだらしなく結い上げ、きつめの顔立ちに濃い化粧をほどこしている。

 いかにも場末の遊び女といった感じだ。

 女はランベルトの姿を見ると、クッと厚い唇を上げて笑んだ。ドレスの両端をからげて(ひざ)を折る。


「ランベルト・コンティ(ぎみ)とお見受けいたします」


 仕草はていねいだが、顔を上げてこちらを見つめた目つきに禍々(まがまが)しさを感じた。

「おまえが “マリーツィア” か?」

 ランベルトは尋ねた。

「さようでございますが」

 マリーツィアがこちらに近づく。

「上級貴族の若君に直々に出向かれて怖い顔で睨まれるようなことを、わたくしいたしましたでしょうか」

 マリーツィアは口角を上げた。

「父をここまでたぶらかしたのは、おまえか」

「わたくし一人ではございませんわ」

 マリーツィアは唇に手を当てた。


「はじめはインジュスティツィア、つぎがコルツィオーネ、そのつぎがインモラリタ、そしてわたくし」


「はじめが “不正”(インジュスティツィア)、つぎが “堕落”(コルツィオーネ)、そのつぎが “不道徳”(インモラリタ)、そしておまえが “悪意”(マリーツィア)


 マリーツィアは、口に手の甲を当てククッと笑ってみせた。

「見事なほどに不快な名前がそろっているな」

「若君さまがたのお相手をする高級娼婦と違って、場末の者はそんな演出でもしないと目立てませんから」

 マリーツィアが媚を売るような声色で言う。

 ランベルトは身をかがめて、もういちど父の様子を伺った。

「今日は父は引き取らせてもらう。おまえももう帰れ」

「いいえ」

 マリーツィアは父をはさんで向かい側にしゃがんだ。

「遊んで行きませんこと?」

 きつい香水の香りが鼻を突く。

「結構」

 ランベルトはそう答えて、「父上」と呼びかけた。

 マリーツィアがスッと手を伸ばし、ランベルトの唇を指先でなぞる。

「やめろ」

「下のほうもこうして触って差し上げましてよ」

「下品な女だな」

 「早く帰れ」とつづけてランベルトは女を睨んだ。

 マリーツィアと目が合う。

 よく見ると、暗い赤の気味の悪い瞳だと思った。

 戦場の土や遺留品にこびりついた血を連想する。

 こんな瞳の者がいるのか。

 血の色が透けて見える白ウサギですら、もっと明るい赤の瞳をしている。

 

 人間に、こんな瞳があるのだろうか。


 そう思ったとたん、頭のなかに渦巻く雲が浸食(しんしょく)してきたように感じた。

 血の気が引き、思考がぼやける。

 気が遠くなった。

 枯れ木の森に囲まれた気味の悪い古城と、放置された墓地の情景が頭のなかに流れこむ。

 衣ずれの音がこちらに近づいた。

 冷たい手が胸元のクラバットをはずし、喉仏(のどぼとけ)のあたりをさぐる。

 真っ赤な唇が、目のまえでニッと歪んだ。





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