Tu sei il mio importante committente. あなたは大事な契約者 II.
甘い香りがふたたび部屋に充満する。
吐き気がおさまったあとも、ランベルトは手を口にあてていた。
匂いを嗅ぐまいとするが、どうしても香りが鼻腔に入りこむ。
「食事は、もう少しあとにしたほうがいいですかね」
アノニモが言う。
先ほどまで長々と背中をさすってくれていた。
ベッドのまえには、厳ついなりをした大男の悪魔が片膝をつき控えている。
「すぐに食べたら吐くかもしれませんね」
「……吐く。たぶん」
ランベルトはそう返した。
「神経が細すぎるのではないですか、ランベルト」
アノニモが横に座る。
おまえを基準にするなとランベルトは頭のなかで返した。
「おまえは、調理の心得があるのか?」
「ありません」
アノニモがあっさりと答える。だろうなとランベルトは思った。
言葉の発音や仕草からして、生前のアノニモは良家の者だったと思って間違いないだろう。
自身と同じで、厨房など入ったこともないはずだ。
「とりあえず執事を起こして、吐き気止めの薬湯でもないか聞いてみる」
口を押さえたまま、ランベルトは怠く立ち上がった。
横目に女中の遺体の残骸が目に入る。
ついアノニモを責めるタイミングを逃した。
「ランベルト」
アノニモはベッドに座ったままこちらを見上げた。
「まだねぼけていますか?」
「いや?」
「三日のあいだ寝ていたと言ったでしょう。なぜだれも起こしに来なかったのだと思います」
ランベルトは目を見開いた。
「え……」
「薔薇の香りを嗅いだのは、あの女中だけではありませんよ」
ランベルトは仮面の顔を凝視した。
ぐらりと目眩がする。
血の気が引いて座りこみそうになったのを、かろうじてこらえた。
「……まさか屋敷中?」
部屋のドアを見る。
「屋敷のなかすべて薔薇を運んで歩いたわけではないので、私もさすがに全体に影響はしないだろうと思ったのですが」
アノニモが、組んだ脚の上で頬杖をつく。
「予想外の流れに」
戯けたように肩をすくめる。
なにをこの男はこんなに落ち着き払っているのか。
幽霊だから、もう生者のことはどうでもいいのか。
屋敷の者たちが、生前から知る者たちではないからか。
あるいは。
「……平気そうだな」
ランベルトはそう問いかけた。
「そうですか?」
アノニモが答える。
「やはりおまえは悪魔か?」
「またその質問ですか」
アノニモがうんざりしたように返す。
「骨も残さず焼くなど、人間の発想ではない」
「人間の発想ですよ。聖書の悪魔には骨なんてないでしょう?」
それもそうだがとランベルトは鼻白んだ。
「だが、おまえは何か冷酷すぎる」
「死体を焼いて冷酷ですか?」
アノニモが返す。
「火葬の風習のある人たちに怒られますよ?」
ランベルトは眉をよせた。何か口では勝てなさそうだ。
「だが、止めた時点で思いとどまってくれても」
「そうやってグズグズごねると子供みたいですよ」
アノニモは口の端を上げた。ゆっくりとベッドから立ち上がる。
「ドアの向こうに出たら、そんなことも言っていられなくなる」
アノニモが部屋の出入口を指さす。
ランベルトは示されるままドアを見た。
「……そんなにひどい状況になっているのか」
「ええ」
「父は?」
「残念ながら」
ランベルトは頬を強ばらせた。
「何かあったのか?」
「いまだ酒びたりの状態がつづいておられて」
アノニモが仮面を指先で直す。
「お部屋に籠り爆睡なさっているので、結果的にご無事で」
ランベルトは仮面の顔を見つめた。
「……無事なのか」
「はい」
「なぜ残念なんだ」
「あんなふがいないお父上なら、さっさと身罷ってくださったほうがすっきりしませんか?」
アノニモがシレッと言う。
ランベルトは、仮面の顔をポカンと見た。
「他人のおまえに親のことをどうこう言われる筋合いはない」
「そうですね。他人なら」
アノニモが答える。
「まあよいでしょう。ランベルト、銃を」
スッと方向転換すると、アノニモはドアのそばに歩みよりそこに立った。
ドアの向こう側を伺う。
「部屋を出るのか?」
「出なければ食事ができません」
「……何かおまえは食事にこだわるな」
ランベルトは、読書机の引きだしを開けた。フリントロック式の銃をとりだす。
「三日のあいだ食べていないんですよ。お腹すきませんか?」
「落ちついたら一気にくるのかもしれないが、いまはまだ」
ここしばらく父の代理の執務で銃の鍛練はあまりしていなかった。安全装置や劇鉄を確認する。
「薬包もできるかぎり持って……」
アノニモが言う。
弾丸を手にしたランベルトを見ると、「ああ……」とつぶやいた。
「いまは弾丸を詰めこむほうが主流でしたね」
そう言い苦笑する。
「おまえの生きていたころは違ったのか」
「薬包の紙ごと火薬を入れるタイプがふつうでしたか」
まあ、わりと最近の時代のようだ。そんなに大昔の人間ではないのだなとランベルトは思った。