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モノローグ

 この世界に、絶対に正しいものなど何一つないと思っている。

 

 宗教家が唱える「隣人愛」も「慈悲」も素晴らしい思想だし、クリーンエネルギーの促進や核兵器廃絶、戦争反対などは、文句の付けようもないくらい立派なお題目だ。

 

 けれど、それが絶対に正しいかというと、そうは思わない。

 

 どんなに立派な思想も、どれだけ立派なお題目も、その主張が絶対なのだと――誰かに押し付けた瞬間、醜悪な産物に変わる。

 

 そういうものに人生の大半を翻弄されてきた自分が、言うのだから間違いない。

 

 何が、正しいのか、間違いなのか、分からない。この世界は、絶対の正解などない、不安定な答えで溢れているというのが持論だ。

 

 だから、声高に自分の考えの正当性を主張する人を見ると一歩引いた冷めた目で見てしまうのは―――そうした絶対の答えというものによって造り出されるのは―――人の偏見と同調圧力によって形作られた得体のしれない産物であることが多かったという経験則からだろう。

 

 それでも、自分の人生を賭けて何かを主張する人は、敬意を払うに値するとは思う。


 その主張の妥当性は別として、己の信条とした主張に、答えに、殉ずる覚悟は素晴らしいものだ。

 

 もっと楽に生きれる方法があるのに、人と主張をぶつけ合う労力を払いながら、自分の信じる道を進み続ける人は―――本当に馬鹿みたいだと思うけれど、その生き様は誰よりも人間らしい人生を歩んでいるように輝いて見える。


 でも、だからこそだろう。


 批判を受けながらでも信じた道を歩み続けるような人たちの多くは、その弊害として―――いつしか他者からの批判を受け付けなくなる。


 客観的には、耳は痛くとも正しい批判だと思えるような指摘も、心ない反対派の主張だと遠ざけて――全く聞き入れず。


 そして、自分の主張が正しいのだと、自分の正当性が絶対なのだと凝り固まっていくのだ。


 そうなってしまえば、どんな正しい主張も、他者を傷つけるだけの醜悪な産物でしかない。


 自分だけでなく、周りの人間をも巻き込み、その絶対の正しさの前で味方と敵に選別されてしまう。


 それは、ご立派な思想を掲げた宗教団体の信徒も、ご立派なお題目を掲げた活動家団体の活動家も、国会で政党を持つご立派な支持団体の皆様も変わらない。


 それら全てを間近で見るはめになったが、彼らの違いは、何を正しいと思っているかの違いでしかなかったとハッキリと言える。


 自分の目から見て、彼らの主張は、どれも正しく、けれど間違っていて―――そして、何より純粋じゃないように見えた。


 もちろん例外はあるのだろうけど、少なくとも半ば強制的に彼らの主張に賛同することを求められた自分には、彼らの主張する理想と目の前の現実(実態)の乖離かいり具合は、受け入れがたいほどいびつであるように見えたのだ。


 ………そんな夢も理想もない現実を、幼少の頃から見続けたせいだろう。


 自分の意志を持つことは大事だけれど、それを絶対だと誰かに押し付けるようなことはしてはいけない。


 自分の考え(答え)は、自分の中にだけあればいいと思うようになったのは…。

 

 そんな、幼少期を経て、自分が信条としたことは3つ。

 

 ――――俺は、誰も嫌わないし、恨まない。

 

 ――――自分の生きる道、大切にするものは、自分で決める。

 

 ――――強くなる。

 

 誰に語ったこともない。その3つの信条だけが、自分こと佐藤元さとうはじめという人間を形成する意思だった。


 正直、これが何のための信条で、誰のための誓いなのかは、自分でもよく分かっていない。

 

 けれど、誰かに自分の生き方を強制される、少しばかり特殊な生育環境下にあって、何かに流されるのではなく、自分というもの持って生きていくためには必要な誓いだったのだろう。


 そういう意味では、半ば必然的に自然と胸の内に根付いた誓いだった。

 

 そんな、時代錯誤な、重苦しく、堅苦しいだけの信条を胸に、17年という時を生きてきた結果。

 



 ――高校のクラスメイトたちが、楽しそうに談笑する姿を遠目に眺めることしかできない、立派な社会不適合者気味のハグレ者が誕生することと相成ったのだった。




 だからだろう、自分が読書や映画、ゲームなどといったインドア派な趣味に傾倒していったのは。

 

 ―――自分には、この現実の世界は、酷く息苦しく感じられる。

 

 そんな時、フィクションの中の世界の存在は自分にとって救いだったのだ。


 自分の行いが正しかったのか、間違いだったのかも分からぬ現実世界と違い。


 ストーリーの進行状、正しい行動というのが明確にある世界。

 

 そんな世界の中で、自分以外の誰かになって、誰かの成功や失敗に、賛同し、批判し、共感しながら追体験できる世界は、とても刺激的で―――何かから解放されたような気になれるのだ。

  

 ――それは、その世界の中でなら自分を主張することが許されるように感じているからなのだろう。

 

 何かを主張できない、何かを声高に主張することは悪だと心の何処かで嫌悪感を覚えている自分でも、誰かに成りきることで何かを主張することができる。


 何てことはない、嫌悪しながらも憧れているのだ。

 

 自分の生き方を、正しさを、人間らしい輝きを持った人間に……。

 

 けど、きっと自分は誰かに押し付けられるような絶対を、主張を持つことは永遠にできないだろう。


 それでも、せめて自分で、自分を嫌いにならないでいれるくらいには、自分の信じる、正しさを持っていたい。

 

 だから、これは、きっと、純粋に大好きなゲームの中の世界を旅しながら、自分というものの生き方を探していく。


 そんな有り触れた物語。

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