鼈甲の櫛
それぞれの人毎に、本意とは違う立場というものが有って、常に何方かと言う選択を迫られるのが人生というものなのかも知れないと思いながら書かせて頂きました。
アレンの父上も、既に10年ほど選択を迫られていて、2人の働きで前向きな選択をすることが出来たと言う瞬間でした。
待つと言う手段が最良で有る場合でした。
結局、審議会の折に着用した、カシミアと絹で紫を匂やかに織り出したダークスーツに、ダイヤとプラチナでエンブレムを象ったラペルピンを合わせることにした。
アンティークな色を選んだ薔薇の花束を抱えた姿は申し分が無かった。
皆が集うホールを迂回すると、父の居間へと直接入った。この屋敷を取り仕切るメイズに来訪を告げ、主人が戻るのを待つ間に、アウルは、結婚指輪を薬指に付け替えた。
驚きに固まる俺の指輪も付け替えてくれた。思わず、花束を彼ごと引き寄せて口付けた。はにかみに俯いていた瞳を上げて俺を見、口の端に微笑を浮かべた。
やがて父が執事を従えて居室に現れた。
杖を突く父を支えるメイズも、俺の子どもの頃から仕えているだけに、腰の辺りも前屈みにならざるを得なくなっている。
暖炉の前の背の高い肘掛け椅子は、父の気に入りの席だった。その何時もの席に父を着かせ、接客の一通りを終えても執事は父の背後に控えて留まっていた。
怪訝に思った俺の視線に気づくと、弾かれたように慌ててその場を立ち去った。
その様子を見送って1つ溜め息を付き、父は俺達に対峙した。
「御無礼を。わしの身を案じての。この所傍を離れようとせぬ」
「伯にも良い執事をお持ちだと伺える。私も執事に支えられてこうしております。又とない祝いの夜に、お時間を割いて頂き、恐縮致しております」
「これは心ばかりの祝いの品、お納め下されば幸いです」
「わしの長寿を祝うて下さるとは…やれ、楽しみな。開けてみても宜しいか?!」
「はい。お気に召せば良いが」
メイズを下がらせてしまったので、父は手ずから包みを開いた。現れたのはアラバスターに銀のラベンダーを散らした優雅な香合だった。
ラベンダーの装飾に合わせて、アウルのオリジナルの「春の王」の練り香が入れてあるのだろうが…
「アラバスターを透かして淡い紫が美しい。これは香合ですかの?!良い香りが致します。内も外もラベンダーとは」
「私の真意を差し上げたく。真実で有るからこそ、未来永劫秘めたままにしておきたいと思っております」
ラベンダーの花詞は「沈黙」俺とのことは真実で有るからこそ秘めておきたい。その証として父の手元に留めて欲しいと…
「有り難う存ずる。「碧の貴公子」と謳われた貴方には、既に世継ぎの爺の座を頂いて居ると申しますのに。重ねて御礼申しまする」
言葉とは裏腹に、父の声音にはひやりと冷たいものが潜むようにも聞こえた。表向きの権力は持たせて置いて、裏では一族を牛耳るつもりか?!と。
…やはりアウルの危惧は的を得ていた。
「伯。どうか、お気の済むように。貴方からアレンを…継子を奪った私を、どの様になりと」
突然、父の足元に額づいて、そう口にしたアウルを助け起こそうとした俺を、結婚指輪を着けた左手が止めた。
そうしてより深く頭を垂れた。
俺に今夜のことを切り出す前から、この事態は想定の範囲内だったのだ。
「…なれば」
「父上!!」
「アレン!!父上に盾突いては成らぬ!」
父の出した手と、アウルとの間に割って入ろうとした俺を向いて、咎めた彼を、父の諸手が抱き締めた。
驚愕に言葉を無くしたアウルを、父の掌が愛しげに背を撫でる。
それでも彼は表情を無くしたまま、なすがままになり、我を忘れたままだった。
「奪われたのでは無い。我が子に加わって下されたのじゃ」
「父と呼んで下された」
「伯…」
「でなければ臣下である身が、玉体を抱いて良いわけが無い」
そう言って微笑まれて、面が泪を堪えた。
「わしは、これが女で有れば、表向きにも、貴方に寄こせと言われなば、否とは言えぬ立場の者ですぞ」
「…その様に仰られては…」
「それ!貴方は実のある方じゃ」
1つ頷くと、微笑みを持ってアウルを見てくれた。
「わしこそが…貴方に許しを請わねばならぬ身じゃ」
溜息を付いた父の体が、大儀そうに少しふらついた。
「伯。お掛けに」
「やれ、有難い」
咄嗟に支えたアウルの手で、お気に入りの椅子に助け下ろされた父の姿が、殊の外小さく見えて、と胸を突かれた。
…老いた…そうか、アウルが謝罪に動いたのはこの為だったのだ。
メイズに助けられて漸く歩いている姿を見て居てさえ、見慣れた俺には意識の上に登ることさえ無かった。
今を外して終ったなら、俺には一生の間後悔が残っただろう。
お陰で、父の面は穏やかで微笑みを湛えてさえいた。
「わしはの、御父上を、先の公爵をお助けすることが出来なんだ。その為に、貴方に何もかもを覆い被せてしもうた」
「事件が起き、貴方が喪われかけた時、この国の行く末を潰して終うたと覚悟致したのです」
「だが、未だおさな児で在られた貴方が堪えて下さった。崩壊を食い止め、アレンと供に、取り戻しても頂いた」
「改めて謝罪を受け取り、お許しを賜れますれば冥土の土産に出来ましょう程に」
そう言って頭を下げる父に、今度はアウルが戸惑っていた。
「許す等とは…でも、父を助けられなかったとは?!お教え頂けますか?!」
「貴方の御父上はの、今の貴方のように、御自分の不本意を他の者のせいには出来ぬ方での」
「それ故、兄上で在る先王に対して抱いた不信を肯定することが御出来にならんかった。かと言って、貴方のように、総てを捨てきる事も御出来にならなかった」
「其れが常道じゃ。人とはそう言ったもの。誰しもが陥る、ごく普通の闇じゃ。傍に仕える者が導き、本来の務めを果たされるよう諭さねばならぬ」
「だが其れには2分された国を1つに纏めた上で無ければ叶いませぬ。当主1人では一党と国とは扱いかねる」
「故に、妙齢の継子を持てなんだわしも、息子夫婦を事故で無くしたリントにも出来なんだ」
「それ故、リントの焦りが起こしたあの大事で、この国は終うたと…最悪の事態に陥ったと思うほか御座いませなんだ」
「其れを貴方が救って下された」
「貴方の成されることに否やを唱える道理は無いのですよ。総てを思うままに成されよ。此奴のこととて遠慮など無用の事」
真摯な言葉に、ハラハラと涙が落ちる。父を憚って、抱き締めて支えてやれないもどかしさに、殊更に胸を締め付けられる思いで居た。
「信じてやって頂きたい。我が息子は、貴方に請われたからでは無く、初めから、自ら欲して共に有りたいと思うて居るのです」
「貴方は此奴が、己を含めて、初めて望んだ方なのですよ」
これには俺の方が驚いた。
「父上…よもやお気づきで有ったとは…」
「わしを誰じゃと思うて居るのだ?!其方の父ぞ!」
憤慨され、情け無さ気に睨まれて、溜め息を付くしか無かった。
「何時までもグズグズとしおって、漸くグラヴゼルに編入が可能うたと思えば、ハラハラして居るわし等の心地を頓着せぬ事はもとより、休暇で戻ったかと思えば、呆れるほどに惚けた此奴の有り体を、お目にかけられなんだのがもどかしいと申すもの!」
父の言葉に、驚いたように瞳を上げたアウルに、重ね重ね不甲斐なくてと、もう一度溜め息を付くしか無かった。
お読み頂き有り難うございました!
掛けられた総ての枷を外し終えるまでには未だ未だお話が必要なようです。
今暫くお付き合い下さいませ!