硝子の靴
漸く互いの意思を認め合った2人だったが、2人の中での総ての障害が無くなったという事実が、余計な戸惑いを生じさせてしまっていた。
まるでハイティーンの子ども並みの様相を呈していたのだったが、アウルに至っては、欲求を満たすという行為が子どもと言っても、幼児並みのレベルから始まってしまったのだった。
夜会がはねたのは真夜中を回ってからだった。ケインの運転する車で、アパルトマンの地下駐車場まで送り届けられてしまって、如何にもばつの悪い次第だった。
止むなく受けた酒が入ってしまっていたのと、体裁を構っていられない程、気持ちが切羽詰まってしまっていたのだから仕方が無くも有った。
見送られて、エレベーターで最上階まで上がる。その間までもがもどかしい。
何一つ隔てるものが無くなったのだと…ただそれだけの変化だっものが、触れたがる指を躊躇させる。
やはり少し効き過ぎた酒の力に、エレベーターの壁に背を預けざるを得なくなっているのだろうアウルの、然り気無く背けられる面からも、彼もまた、俺同様、妙なはにかみに囚われているだろう事が伺える。
ルーティンの指輪の付け替えも忘れて、到着のサインに気づかされる始末だった。
エレベーターを降りてドアに向かって歩いていたアウルの左手を引いて止めた。
振り返って、ほんのりと染めた目元に潤んだエメラルドが、直視に耐え得ないように視線を彷徨わせる。
拇指の指輪を付け替えようと動く指が震える。漸く薬指に指輪を着けると、耐え得ず唇を押し当てて拝跪してしまう。
「女扱いするな!」
言い様、捉えられていた左手を逆手にして、引き上げると、唇を重ねてきた。熟れきった紅唇が絡み付いて、遠慮という躊躇いを引き剥がしていく。
攻め立てられて、引き摺られるように高められる興奮に、溜息をついて逃すより他に無くなっている俺を、目だけを上げると笑った。
俺のクラバットに指を入れて寛げながら、自分の襟は乱暴にひき抜く。
逆転した様相に揺さぶられて、殊更に情欲を煽られる。
良いな?!と、念を押されて、微かに恐怖を覚えて承諾した。
ああ…やっと…共に有ることを、自分に許したんだなと、遺しておくために俺を保つことを止めたんだと。
ええ。
俺の全ては貴方のものです。存分に。
フェードアウトした視界が戻ったのだと、ソファーの背に額を持たせていたのに気づいて判った。
腕に抱いていたアウルが、カーフの背に仰け反るように頭を預けているのが目に入った。
辺りは失笑が漏れるほどの浅ましい情景だった。フェスタの衣装のまま、やっとの思いで夜会を抜けて辿り着いた。
巣に戻るや否や、激情の赴くまま、矢も盾もたまらず、扉からリビングのソファーにいたる床の上に、2人の脱ぎ捨てた衣装が散乱している。
未だ体を繋いだまま、抱き合ったままのソファーの上のあちらこちらを、情欲の欠片が汚している。
半裸に成って、俺を受け入れたまま、墜情したそのままに、覚醒も侭ならない在られも無い様で有るのに、遺しておけないのが口惜しいほどに、俺のアウルは美しい。
愛を注がれることに慣れない彼は、この様に充足に耀く己の肌を知らない。
浄化されたように透き通り、薄い皮膚の下から浮かび上がるのは、血潮の紅。
それは、涙を載せた睫毛の淵に、何時もは白皙の額に、頰から耳の後ろ、襟に隠れた白い項に、浅く隆起する鎖骨の窪みに。
合わせた胸には石榴の蕾。
…は…と、微かな吐息と供に我に返り、仰け反るようにカーフの背に保たせていた頭を、腕に右手を縋らせて擡げると、もう一つ溜め息を付く。
テーブルに載せたままのシャンパンのグラスを引き寄せて、唇を湿してやると、目を閉じたまま2口目を催促した。
3口でも事は足りず、グラスを差し付けてやると素直に飲み干した。
ひと息つくなり紅くなった。
「どうしました?!」
「…自分がこんなに淫乱だったなんて…呆れる」
この代わりよう。
「可愛すぎ」
言うと、ムッとしたように唇を曲げたものの、溜め息を付いて、再び紅くなった。
可愛すぎ2。
「怒らないんですね?!」
「…必要なんだから仕方ないと思うことにした」
そう言いながらも、恥ずかしげに紅くなる。
「愛していますよ。可愛いアウル」
「調子に乗ると殴るぞ!」
可愛い過ぎ3
「…なんだ、もう片付けて終ったのか?!」
髪を伝う雫を拭いながら、キッチンに居た俺に、やや不服そうに言う。
「仕方ないでしょう?!体力の差が在るんだから。俺はキチンと養ってますからね」
テーブルに出しかけていたスープカップを手にしたまま、悔しげにチロリと睨んだ唇を覆う。アペリティフのように欲を掻き立てる濃厚なキス。
手の中の、洗い立てのヴァーベナと燻り始めたロズィエ・ドレスが、未だ残滓と汗に饐えた俺を浄化してくれるようだった。
紅く熟れた唇が離れる微かな音が、ゆるりと鼓動を速くする。未だ余韻を味わっているアウルに、カップのスープを含んで、再び触れる。
「…まだ欲しい」
「どっちが?!」
アペリティフかスープか。
「どっちも」
良い傾向だった。
素直に欲に応じ始めている。
ダイニングのテーブルに付かされて、次々に並べられる料理を前に、少々の戸惑いを見せながらも、俺の選択に溜め息を付く。
ビシソワーズにズッキーニのキッシュ。
サーモンのディルクリームソース。
「食べながら待ってて。もう一つはカシスのソルベと一緒に戻ってきてからあげます」
言った俺をちろりと見遣る。
「全部は無理」
子どもの顔で剥れるのが可愛くて思わず笑うと、何故か紅くなってそっぽを向き、カトラリーに手を伸ばした。
スープを口に運んだのを確かめてサニタリーへと向かった。
営みの残滓を流してしまうのが惜しいような、燻り立つ躰を抱くには相応しくないような。
複雑な思いに駆られて、それでも、それ程時間をとったとは思わずにリビングへと戻った。
「アウル。少しは上がれましたか?!」
肌を零れ落ちる雫が、一瞬にして凍り付いたかのように、目にした光景が戦慄をもって俺を襲った。
「アウルっ!!」
叫んで走り寄ってもう一度驚かされた。
俺の声に、微かに身じろいだのだ。
そうして再び、すうっと深い溜息のような寝息を立てた。
「寝落ち?!食べながらか?!」
一気に全身の力が抜けた。
ベビースプーンを咥えたまま、眠気に抗う赤ん坊のような情景を演じたと言うのだろうか?!
有り得ない…頭を振りつつ、となりの椅子に腰を下ろし、気持ちよさげに眠る顔を眺めていた。
何時まで見ていても見飽きるものでも無かったが、思い付いて、テーブルの上の料理を食べ始めた。
その内目を覚ますかも知れないと思ったからだが、眠り姫はいっこう目覚める気配も無い。
食器を片して戻ると、抱き上げてベッドへ運んだ。まだバスローブのままだったが構わずベッドへ入れた。
シーツを引き揚げ、額に落ちた前髪を掻き上げていた俺の手を、アウルが引き留めた。
「アウル?!目が醒めてしまいましたか?!」
そう声を掛けても、覚醒の兆しは見えない。俺の手を掴んだまま、再び、陥るように眠りの底へ降りていった。
手を外して、解く気が起きない。
仕方無くも、となりに潜り込んで目を閉じた。
それだけで訪れる深い充足。
何という安堵。
夜は深い。
お読み頂き有り難う御座いました!
まるで赤ちゃん並みのアウルが出現してしまいました。ジェラシーの中で、アレンが「母性本能まで出てきたんじゃ無いの?!」なんて言われるシーンが有るのですが、こうなることが判っていたかのようなセリフだなぁと思ってしまいました。