24 イザベルの誤算
「……駄目ね。聴くに堪えないわ。いったい今まで何をやっていたの?」
冷たい視線と声が、真っすぐ心臓に突き刺さるようだった。
王妃エリアーヌに睨まれ、彼女の息子である第一王子ナルシスの婚約者――イザベルは、顔を青ざめさせてきゅっと奥歯を噛みしめた。
イザベルはシュセット子爵家という、たいして歴史も財産もない小さな貴族の娘だ。
だが、実家の規模に似合わずイザベルは野心家だった。
幸いにも自分は人よりも美しく生まれつくことができた。だったら、もっともっと良い暮らしが望めるはずだ。
そう信じたイザベルは、伝手を辿り行儀見習いとして王宮に上がったのである。
王宮は故郷にいては決して会えないような、大貴族が大勢出入りする場所だ。
行儀見習いとして日々働く中で、イザベルは少しでも力のある貴族の目に留まろうと必死だった。
だがまさか、彼女に目を留めたのは……既に婚約者を持つ、次期王位が確実視される第一王子だったのである。
最初は一時の愛人、よくて側室にでもなれれば大儲けだと思っていた。
だが、どんどんと野心は膨らんでいく。
ナルシスの婚約者――フレジエ侯爵令嬢ガーネット。
まるで人形のように表情の乏しい、美しいが気に入らない女。
彼女はことあるごとに、取り澄ました表情のままナルシスとイザベルの関係に苦言を呈してくるのである。
――彼女の地位にとって代わりたい。
その欲求は、日増しに膨らんでいった。
ナルシスはいずれ王位を継ぐ。そうなれば、彼の正妃は王妃になり、名目ともにこの国で一番尊ぶべき女性となるのだ。
ナルシスに心から愛されているのは、ガーネットではなくイザベルの方だ。
ガーネットが口うるさく苦言を呈するのも、ただナルシスに愛されるイザベルに嫉妬しているだけなのだろう。
あぁ、なんて醜い! そんな女に、自分が負けるわけがない!!
元々、ナルシスは小言ばかり言ってくるガーネットを疎ましく思っていたのだろう。
イザベルはそんな彼を誉め、甘やかし、心の隙間を埋めていった。
少しずつ、ガーネットの悪口を吹き込みながら。
目論み通り、彼はガーネットと婚約破棄し、イザベルを新たな婚約者として迎え入れるとの主張を始めた。
その主張は王妃にも聞き入れられ、ガーネットは無様に公衆の面前で婚約破棄され、誰もが嫌がるであろう第二王子の婚約者という地位に甘んじることとなった。
イザベルはこの世の春とばかりに歓喜した。
こうなればもう、黙っていてもいずれ王妃の地位が転がり込んでくる。
誰もイザベルに逆らえない。
どんな高価なドレスだって宝石だって、望むままに手に入る。
……はず、だったのに。
最初の内は幸せだった。
皆がイザベルに平伏し、褒め称え、何も怖いものはなかった。
イザベルは自分が望むままに派手なドレスを仕立て、着飾り、思うがままに振舞った。
風向きが変わったのは、第二王子が宮廷舞踏会にやって来たあの夜からだ。
どんな手を使ったのか、ガーネットは離宮に引きこもっているはずの第二王子を表舞台へと引きずり出したのだ。
第二王子は噂されているような、病を患い死にかけの子どもではなかった。
身長は低くとも、利発そうな顔立ちに話し方。
堂々と国王の前で挨拶を述べる姿は、年に似合わず立派だと認めざるを得なかった。
その夜から、エリアーヌ妃は豹変した。
「私に妃教育を……?」
「えぇ、ナルシスはいずれ王位を継ぐ身。その妃となれば、最低限の教育は必要よ」
戸惑うイザベルに、エリアーヌ妃はうっそりと微笑んで告げる。
「でも心配しないで。きっとあなたなら大丈夫よ」
イザベルはエリアーヌ妃のその言葉の真の意味を理解できず、「王妃様がそう言うのなら楽勝だろう」と高を括っていた。
彼女の言葉の真の意味が「この程度のこともできないようじゃ、ナルシスの婚約者でいる資格はない」ということだと気づいたのは、ずっと後になってからだった。
すぐに、つらい日々が始まった。
朝から晩まで教育、教育、教育!
イザベルの親は教育熱心ではなく、特に女児に教育を施しても無駄だと考えていたため、イザベルのマナーはほとんど見よう見まねで身に着けたものだった。
もちろんそんなものは、妃教育において通用するはずがなかった。
「違います、この場合の挨拶をしてまわる順は――」
「明日までに、歴代の王の名と功績を暗記してください」
「我が国の主要な貴族の領地と、特産物について――」
「王妃となるのならば、奏楽や歌唱技術は必ず身につけていただかなければなりません」
思い描いていた薔薇色の日々とは真逆の、地味でつまらない時間だ。
何よりイザベルを苛立たせるのは、どの教師もナルシスの以前の婚約者であるガーネットと比較しようとするところだ。
「フレジエ侯爵令嬢なら、この部分は全て暗唱できておりました」
「ガーネット様のお辞儀は、本当に優雅で――」
「ガーネット嬢の場合は、最初からある程度の技術は身についていらしたので――」
その言葉を聞くたびに、イザベルの心をどろどろとした黒い感情が支配していく。
愛されずにみっともなく捨てられた女の癖に。惨めな女の癖に。
少し地位のある家に生まれたからって、自動的に王妃になれるなんて思ったら大間違いだ。
あの女――ガーネットにだけは、絶対に負けたくない……!
ガーネットへの反骨精神で、イザベルは辛い教育を耐えていた。
だがここで今、最大のピンチともいえる局面に直面している。
――「冬至祭に合わせて宮廷音楽祭が開かれるの。あなたはナルシスの婚約者なのだから、当然優勝できるわよね?」
エリアーヌ妃が微笑みながら告げたその言葉に、イザベルは震えあがった。
もし優勝できなかったら、いったい自分はどうなってしまうのだろう。
ここでナルシスの婚約者を降ろされては、何もかもが水の泡だ。
捨てられた女、哀れな女、惨めな女……。
そんな風に扱われるなど耐えられない!
今の地位を守るためにも、何が何でも優勝してみせなければ。
だがイザベルの奏楽技術は未だに低く、とても優勝など狙えるものではない。
「……見損なったわ。こんな風なら、ガーネットの方がまだマシだったかもしれないわね」
練習を見に来たエリアーヌ妃はイザベルに冷たい言葉を浴びせ、一瞥することなく去っていく。
背中に冷たい氷を浴びたような心地のイザベルは、かすかに震えながら思案した。
「なにか、別の方法を考えなきゃ…………」
もうすぐ、もうすぐで……イザベルはこの国の頂点に立てるのだ。
だから、こんなところで終わることなどできるはずがない。
「私は、絶対に優勝してみせるわ」
その為なら、どんなに汚い手だって使ってやる。
そう決意し、イザベルは練習を止めて静かに部屋を後にした。




