23 ガーネット、ラズリスに演奏を聴かせる
いくら音楽祭が迫っていると言っても、ラズリスの婚約者としての責務をおろそかにするわけにはいかない。
ガーネットは今まで通りラズリスの執務の手伝いと、甲斐甲斐しく彼の世話を焼くのを止めなかった。
「今日のパウンドケーキには茶葉を混ぜてみましたの。お口に合うとよいのですが……」
もちろん胃袋を掴むために、お菓子の差し入れも欠かさない。
ガーネットがどきどきと見守る前で、ラズリスは優雅な手つきでケーキを切り分け、フォークを口へと運ぶ。
そして……ぷい、と視線を逸らしながら、ぼそりと呟く。
「……まぁ、いいんじゃないか」
その言葉に、ガーネットは胸を高鳴らせた。
ラズリスは不味い時ははっきり不味いと言うタイプの人間だ。
つまりこれは、「すごくおいしい」と言っているのと同義なのである。
ガーネットは嬉しくなって、自らもフォークを取り、自分ではなくラズリスの口元へと運ぶ。
「はい、殿下。あーん」
「こら、押し付けるな。ちゃんと食べるから!」
この2年で、ラズリスはガーネットの頑固さを存分に理解したようだ。
あーんとフォークを差し出せば、文句を言いつつも食べてくれるのだ。
ぐりぐりとフォークを押し付けるガーネットに、ラズリスは観念したよう口を開く。
相変わらずその様子は小さな子リスのように愛らしく、ガーネットは頬を緩ませるのだった。
不服そうにもぐもぐと口を動かす婚約者を眺めるのは、ガーネットにとっては至福の時間といってもよかった。
「そういえば、随分熱心に宮廷音楽会に向けて練習しているそうだな。君の侍女に聞いた」
のんびり二人でお茶を飲んでいる最中に、不意にラズリスがそう口にする。
まさか練習に熱中しすぎて、風邪を引きかけたのがバレたのだろうか。
ガーネットは真顔を保ったまま内心は慌てていたが、どうもサラはそこまでは話していないようだ。
「えぇ、出場するからには優勝を狙います。ラズリス殿下に恥はかかせませんのでご安心を」
「いや、別にそんな心配をしてるわけじゃないんだが……君は器用なんだな」
何気なくそう口にするラズリスに、ガーネットは曖昧に笑った。
「……ナルシス殿下の婚約者だった頃に、散々練習を重ねましたから」
ガーネットは第一王子の婚約者として、淑女に必要とされるあらゆるスキルの教育を受けていた。
第一王子の婚約者、そして未来の王妃として恥ずかしくないように、厳しい指導を受けたものだ。
集められた精鋭の教師たちは、皆容赦なくガーネットを叱った。
だが何より恐ろしかったのは、王妃エリアーヌだ。
――「……全然駄目ね。今まで何をやっていたの? あなたの教育に、一体どれだけの時間と費用がかかっているかわかっているの? これ以上わたくしを失望させないで頂戴」
冷たい目でそう告げられるたびに、身も心も凍り付くような心地を味わったものだ。
ガーネットに少しでも落ち度があれば、エリアーヌ妃は容赦なく詰った。
教師たちもエリアーヌ妃に睨まれるのを恐れて、時には深夜までガーネットの授業が終わらないこともあった。
だが、どれだけ努力しても、エリアーヌ妃がガーネットを認めてくれることはなかった。
――私は、皆が言うように器用なわけじゃない。ただ、多くの時間を教育に費やしただけ。
その代わりに、今までの人生でガーネットが取りこぼしてきた物も多いのかもしれない。
それに、ガーネットの努力は実を結ぶことなく、婚約破棄という結末を迎えてしまった。
……いったい、あの時間は何だったのだろう。
どうしてもそう考えてしまい、ガーネットは穏やかな笑みを浮かべながらも、失意を表に出さないように必死になっていた。
ラズリスはちらりとガーネットの方を見やって、ぼそりと口にする。
「……弾いてくれないか」
「えっ?」
「君の演奏が聴きたい」
まっすぐにそう言われ、ガーネットの胸がとくん、と音を立てた。
「……とても、殿下にお聞かせするようなものでは――」
「さっきは自信満々だったじゃないか。それに、君の子守歌なら何度も聞いてる。今更何を遠慮することがあるんだ」
そう言っていたずらっぽく笑うラズリスに、ガーネットは思わず俯いてしまった。
確かに彼と出会ったばかりの頃は、不規則な生活を送る彼をどうにか寝かせようと、何度も膝枕をして子守歌を歌ったものだ。
ラズリスは成長して膝枕を嫌がるようになり、それに伴いガーネットが子守歌を披露する機会もなくなった。
だからあらためて「君の演奏が聴きたい」などと言われると、存外躊躇してしまうものなのである。
――もしも、エリアーヌ妃の時のように失望されたら……。
昔のことを思い出したばかりだからなのだろうか。
エリアーヌ妃のように冷たい言葉を、目の前の婚約者が発するのではないか。
ナルシスやエリアーヌ妃がそうしたように、突き放され、見捨てられるのではないか。
そんな、根拠のない恐怖が頭に浮かんでしまう。
――いいえ、ラズリス殿下はそんな御方ではないわ。
根拠のない妄想よりも、ラズリスと過ごした2年という時間を信じるべきだ。
ガーネットは普段はそっけない部分もある目の前の婚約者が、とても優しい心の持ち主だということを知っている。
だから、今度こそは大丈夫だ。
そう自分に言い聞かせ、ガーネットは立ち上がった。
「承知いたしました。準備をいたしますので、少々お待ちくださいませ」
今日も空いた時間に練習しようとバイオリンは持参していた。
できるだけ平常心を保とうと努力しながらいつものように準備を済ませ、ガーネットはゆっくりとバイオリンを弾き鳴らす。
幸いにも、演奏中はひどい失敗をするようなことはなかった。
だが曲が終わってもガーネットはラズリスの方を見るのが怖くて、視線を床に落とす。
すると、ぱちぱちと拍手の音が耳に届いた。
「……見事だった」
それは、偽りのない賞賛の言葉。
おそるおそる顔を上げ、ラズリスを見つめる。
彼は座っていたソファから立ち上がり、ゆっくりとガーネットの元へと歩いてくる。
その表情は晴れやかだった。
「僕はそこまで音楽に詳しいわけではないが、君の演奏は美しかった。宮廷音楽会も、きっと君なら大丈夫だろう」
ひねくれた性格の彼が、ここまで素直に賞賛することは珍しい。
胸がじんわりと熱くなり、瞼の奥まで熱くなってしまう。
ガーネットは慌ててぱちぱちと瞬きして、ラズリスに向かって微笑んでみせた。
「ありがとうございます、ラズリス殿下。殿下の婚約者として恥ずかしくないように、精一杯尽力いたします」
――やっと……報われた気がする……。
ガーネットの歩いてきた道は、努力は、無駄ではなかった。
彼が褒めてくれた。それだけで、幸福感に心が満たされる
……彼の期待を裏切るわけにはいかない。
今まで以上に気合を入れて練習しなければならないと、ガーネットは決意を新たにするのだった。




