20 ガーネット、婚約者の成長に戸惑う
ぽろりと一言口に出すと、もう止まらなかった。
「わたくしとは踊るのも嫌がるのに。わたくしに内緒で伯爵夫人のレッスンを増やそうとしたり……。殿下がわたくしを避けたりしなければ、わたくしもこんなに寂しい思いをすることもなかったのに」
感情に流されるままにそう口に出してしまった数秒後。
ガーネットは自らの発言の意味に気づいて青ざめた。
――まずい、まずいわ……。これは、最悪の事態……!
今のガーネットの発言は、最悪の失態だと言ってもいいだろう。
今の言い方では、まるでラズリスに冷たくされたから当てつけのようにフィリップが近づくのを許容していたと取られなくもない。
恋愛指南書にも、相手を束縛したり相手の気持ちを試すような行為は最大のNGだと書いてあった。
それなのに、ガーネットはその二大地雷を思いっきり踏み抜いてしまったのだ!
――ど、どうしましょう……。いえ、まずはラズリス殿下の様子を確認してなんとかフォローを……。
ちらりとラズリスの方へ視線を遣り……ガーネットは驚いてしまった。
ガーネットの予測では、今のラズリスは怒りを露にした表情か、ガーネットに失望したような冷めた表情をしているはずだった。
だが、実際は……。
――…………あら?
何故かラズリスはうっすら頬を染め、口に手を当てていた。
まるで、緩む口元を隠そうとするかのように。
「…………ラズリス殿下?」
「いや、少し待ってくれ。その……」
慌ててガーネットから顔を背けるラズリスの耳元も、赤く染まっている。
彼は大きく息を吸うと、意を決したようにガーネットの方へと向き直った。
「……君は、寂しかったのか」
そう問いかけられ、ガーネットはぽかんとしてしまった。
そういえば、先ほどそんなようなことを口走ったような気もする。
だが冷静に考えてみると……恥ずかしいなんてものじゃない!
――何で、こんなことを言ってしまったのかしら……。
まるで幼い子どものように、かまってもらえないのが寂しいなんて。
あまつさえそれを口にして、婚約者を困らせるなんて。
どう考えても、ガーネットの目指す物わかりのいい淑女のあるべき姿ではない。
だが、もうここまで言ってしまったのならやけくそだ。
ガーネットは真っすぐにラズリスを見つめ、心の内を吐き出した。
「えぇ、寂しかったのです。殿下はわたくしを避けて、ろくにダンスの相手もしてくださいませんし、膝枕もさせてくれません。わたくしのことを鬱陶しく思っていらっしゃるのかと……」
「違う! そうじゃない! その、僕は……もう、子供じゃないんだ。いくら婚約者とはいえ、あまりべたべたしすぎるのは柄じゃない」
「でも伯爵夫人とは楽しそうにダンスを踊っていらっしゃったでしょう?」
「見てたのか……。ガーネット、伯爵夫人は僕よりもずっと年上で、既婚者だ。だから、彼女が相手だと平気だということだ」
「……よくわかりませんわ」
「あぁもう! とにかく、別に君を嫌いになったり鬱陶しく思っているわけじゃない! それよりも君こそ、フィリップと必要以上にべたべたしていたじゃないか。確かに挨拶や社交でのスキンシップの必要性は理解しているが、どう考えてもあれは行き過ぎだ」
そこまで言うと、ラズリスはいっそう顔を赤くしてガーネットの手を掴んだ。
「いいか、ガーネット。君は僕の婚約者なんだ。だから……あんな風に、あまり他の男を近づけさせるのはやめてくれ」
どこか縋るようにそう口にしたラズリスに、ガーネットの鼓動がとくんと跳ねた。
そうか、もしかして……。
――私が殿下に避けられて不安になっていたように、殿下も不安を抱えていらっしゃったのかしら……。
ラズリスはガーネットのことを姉や母親のように思っているようだ。
身近な女性として、大切にはされている。それは、前々から気づいていはいた。
だから、もしかすると……ラズリスもガーネットが自分から離れて行ってしまうのではないかという、不安や恐怖を抱えていたのかもしれない。
――そんなことにさえ気づかなかったなんて、私の落ち度だわ。でも、どうせなら……。
少しだけ、ガーネットのわがままを通してみてもいいだろうか。
「……わかりました。殿下が以前のようにぎゅっと抱きしめさせてくだされば、わたくしはもう他の殿方を近づけさせたりしないと約束しましょう」
「なっ……!?」
ラズリスは驚き戸惑ったように視線を彷徨わせたが、やがて意を決したように口を開いた。
「……わかった。好きにすればいい」
観念したようにそう告げるラズリスに、ガーネットは嬉しくなってぎゅっと抱き着いた。
だが、感じるのはかすかな違和感。
――あれ、ラズリス殿下……いつのまにこんなに大きくなったのかしら。
以前はぬいぐるみのように小さく温かかった体が、いつのまにか大きくたくましく成長している。
その変化に、ガーネットは今更ながら驚いてしまった。
「……ガーネット」
そっと囁いたかと思うと、ラズリスの両手がガーネットの背に回り、ぎゅっと引き寄せられる。
……おかしい。ガーネットがラズリスを抱きしめているはずなのに、これではラズリスがガーネットを抱きしめているようではないか。
不意にラズリスの熱い吐息が耳元を掠め、ガーネットはびくりと体を跳ねさせてしまう。
背中に回る腕の力強さに、ガーネットの物とは違う爽やかなフレグランス。
まるで慣れない酒を口にした時のように、くらりと心地よい感覚に身をゆだねたくなってしまう。
――あら、なんだか想像と違う……。
何故だろう。そわそわと落ち着かず、どきどきと鼓動が早まってしまう。
そう意識して、ガーネットは気が付いた。
密着する体からラズリスの鼓動が伝わってくる。
彼の鼓動も、ガーネットに負けないくらい早鐘を打っていた。
その途端急に恥ずかしくなってしまい、ガーネットは慌ててラズリスへと声を掛ける。
「で、殿下。もう充分です。……殿下?」
もういいと言ったのに、何故かラズリスは背中に回した腕を外してはくれない。
それどころか、ますます強く引き寄せられてしまう。
「ラズリス殿下……!」
慌てて彼の背中を叩くと、やっとガーネットは解放される。
服や髪の乱れを直しながら、ガーネットは何故かラズリスが直視できなかった。
――殿下、いつの間にかこんなに成長していたのね。ずっと小さいままだと思っていたのに……。
戸惑いはしたが、嫌な気持ちはしない。
やはり彼を抱きしめると、不思議な充足感を得ることができる。
「ガーネット、君は僕の婚約者だ」
顔を赤くしたラズリスからあらためてそう言われ、ガーネットは不思議に思いつつも肯定を返す。
「はい、その通りです」
「だから……絶対に、他の男にこういうことはさせるなよ」
少し俯き気味に、それでもぎゅっとガーネットの手を握って、ラズリスは小さくそう口にした。
まるで、母親を独占しようとする小さな子どものようだ。
そのいじらしい言葉に、ガーネットの胸はじんわりと暖かくなる。
やはり、ラズリスはガーネットの良く知るラズリスなのだ。
「えぇ、仰せのままに、殿下。ただし、わたくしが寂しくならないように時々は殿下に触れさせてくださいね?」
「…………人の気も知らないで」
「今何かおっしゃいましたか?」
「別に!」
ぷい、とそっぽを向いてしまったラズリスの頬をつつきながら、ガーネットはくすりと笑う。
「今日はいい天気ですから、わたくしの膝でお昼寝はいかがですか、殿下?」
「子ども扱いするな!」
少しだけ距離が近づいた二人の間を、爽やかな風が吹き抜けていった。




