1 婚約破棄のその後は
――ついに、この時がやって来てしまった。
「ガーネット・フレジエ、ここに君との婚約破棄を宣言する!」
いつもと変わらないはずの、王宮で開かれた夜会の場にて。
いきなりその言葉を突きつけられた侯爵令嬢――ガーネットは気を落ち着けるように息を吸い、まっすぐに背筋を伸ばした。
今、この場には国内の多くの貴族が集まっている。
たとえどんな天変地異が起ころうとも、みっともなく醜態を晒すわけにはいかないのだ。
「……理由を、お聞かせいただけますか」
口から出た言葉が震えていなかったことにほっとする。
毅然とした表情を取り繕い、真っすぐに顔を上げて、ガーネットはつい数瞬前まで婚約者であった相手の顔を見つめた。
――ジェノワーズ王国第一王子、ナルシス。
8歳の時に婚約し、16歳の今までずっとガーネットの婚約者であったはずの人物だ。
彼の隣には、小柄な少女が不安そうに身を寄せている。
……それだけで、婚約破棄の理由など聞かなくても明白なのだが。
「……本当の愛というものを、知ってしまったんだ。イザベルがそれを教えてくれた。イザベルのひたむきな愛に報いるためにも、君との婚約を続けることはできない」
熱に浮かされたような顔で、ナルシスが傍らの少女を抱き寄せる。
その光景を、ガーネットはどこか冷めた目で見つめていた。
……予兆はあった。
婚約者が行儀見習いとして城に上がった子爵令嬢――イザベルに熱を上げていることは、とっくにガーネットの耳にも入っていた。
婚約者にも、子爵令嬢にも、それとなく忠告はした。
だが、かえって二人の「本当の愛」とやらを盛り上げてしまっただけのようだ。
一時の火遊びなら、そこまで咎めるつもりは無かった。せめてもう少し隠れて欲しいと、オブラートに包んで伝えただけだ。
ガーネットと正式に婚姻を結んだ後でなら、愛人や側妃として傍に置くことを許容するつもりだった。
だがまさか、こんな場所で彼女を正妃とするために婚約破棄を言い出すとは……。
――よほど、私のことを貶めたいようね……。
衆人環視の中でのこのパフォーマンスだ。よっぽど、ガーネットのことが腹に据えかねていたとみえる。
いったいこの後はどうするつもりなのだろう。
ガーネットのありもしない罪を並べ立てるのだろうか。
糾弾し、断罪し、国外追放だとでも言うのだろうか。
……そう来るのなら、反撃する準備はできている。
だが臆さず顔を上げるガーネットに告げられたのは、思いもしない言葉だった。
「しかしながら、今まで君はよく私を支えてくれた。本当の愛ではなかったが、私も君のことを妹のように思っているんだ」
「…………ぇ?」
思わず漏れた小さな驚きの声は、余裕の笑みを浮かべたナルシスの声に飲み込まれる。
「君の長年の献身に報いるためにも……我が弟――第二王子ラズリスとの婚約を許そう!」
――第二王子との、婚約……?
ガーネットは唖然として目の前の婚約者を見つめた。
彼は子爵令嬢の腰を抱き寄せたまま、どこか嘲るような笑みを浮かべている。
「君のことを妹のように思っている」などという言葉が、心からのものではないのは明白だ。
更に彼の背後では、第一王子の側近と、彼の生母である王妃が悠然とした笑みを浮かべている。
――っ……! まさかこれは、王妃の……!
ガーネットは毅然とした表情を保ったまま、動揺を押し隠そうと小さく息を吸う。
――王妃様は、すべて承知の上……。となると、私と第二王子との婚約も王妃の策なのかしら……。
ナルシスは直情的で、人の言うことなど聞かないわがままな王子だ。
彼が婚約破棄を言い出すのなら彼自身の独断で、ガーネットを糾弾し、ありもしない罪を仕立て上げ、その場で追放を言い渡すくらいのことは予想できた。
だから、そうなった時の対処法は考えていたのに。
上手く立ち回る準備はできていたのに。
――……落ち着いて、ここで動揺すれば相手の思う壺よ。
ガーネットはゆっくりと息を吐くと、穏やかに微笑んで見せる。
その微笑みに、ナルシスは明らかに動揺した様相を見せた。
――私が、拒否すると思っていたようね。
彼がそう思うのは無理もない。
ガーネットの新たな婚約者として名が挙がった第二王子は、病弱でほとんど公の場に姿を現すこともない、幽霊同然の存在なのだから。
有力な後ろ盾もなく、いつ死ぬかわからないとも噂されている。
そんな、幸せな未来など望めるはずもない相手との婚約など、普通の令嬢であれば嫌がって当然だ。
だが、ガーネットはそうしなかった。
ガーネットは結婚に愛など求めない。
貴族の娘の結婚など、政略の一環でしかない。個人の感情よりも家の利を、そして国全体の益を考えるべきなのだから。
――ナルシス殿下は私を……そして我が侯爵家を切り捨てようとしている。……策を考え直さなければ。
そっとナルシスの前に跪き、ガーネットは深く頭を下げた。
「ナルシス殿下の寛大なご配慮に感謝いたします。謹んで、ラズリス殿下との婚約をお受けいたします」
顔を上げると、ナルシスもその隣の子爵令嬢――イザベルも、信じられないといった驚きの表情を浮かべていた。
そんな二人を眺めながら、ガーネットは普段通りの落ち着いた声で告げる。
「お二人の未来に幸があらんことを、心よりお祈り申し上げます」
これで、周囲の目には「婚約破棄を言い渡されても文句ひとつ言わず、相手の幸せを願うような健気な令嬢」だと映ることだろう。
ガーネットの――ひいてはフレジエ侯爵家の評判を、少しでも落とさずにいられればよいのだが。
再び頭を下げたガーネットは、静かに決意を固めていた。
――このままでは、いけないわ……。
第一王子ナルシスは、現在最も次期王位に近い人物だ。だが彼はわがままで、横暴で、短気で、とても王の器を兼ね備えた人物ではない。
いずれはガーネットが王妃として、彼の足りない部分を支えていくつもりだった。
だが彼はガーネットを蔑むように切り捨てて、「本当の愛」とやらを取ってしまった。
このまま彼らが玉座に座れば、私欲にまみれた政治を行い、国が荒れるのは必至である。
王国貴族の一人として、ガーネットはそんな状況を看過することはできない。
――なんとか、しなければ……。
婚約者に見放されても恨み言の一つも言わず、静かに微笑む淑女。
……そんな仮面の裏で、ガーネットはさっそく元婚約者を玉座から引きずり落とすための策を練り始めていた。
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