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89. "幸せ"についてのお話

 深緑色の暖簾をくぐり、お蕎麦屋さんで注文した蕎麦が手元に来るのを待つ中で。恋人が突然おかしなことを言う。


「――幸せって、なんなんだろうね」


 突然に、本当に突然過ぎて一瞬ついていけなかった。直前までは蕎麦がどうとかこうとか話していたから、話に繋がりがなさすぎて困る。それに。


「また難しいこと言うわね」


 小難しい内容、というかあたしが答えられない話。

 幸せ、ね。


「……」


 少し、考えてみる。

 あたしは今、幸せだって言える。言い切れる。それは間違いない。でも、だけど……。だけど、これが、この幸せが何かと問われると答えられない。

 だって、幸せって、それぞれの価値観によって変わるものでしょう?

 あたしにとっての幸せは、誰かにとっての幸せじゃなくて。今感じている幸せを、郁弥さんも同じように感じているかって言われると、きっと――――。


「――ねえ郁弥さん」

「うん?」

「あなた、あたしが幸せだと幸せ?」

「……ある程度は?」


 うん。そうだと思った。もしかしてって思ったらそうだった。この人は特別ね。あたしが幸せだとしても、たぶん他のほとんどの人は別に幸せだって思ったりしない。

 郁弥さんと一緒に居られて、お話できて、ぎゅーってくっついて、たまにキスもしちゃったりして。二人きりで過ごす時間が嬉しくて楽しくて。だから幸せで。

 咲澄日結花の幸せの形の一つとして、郁弥さんと過ごすあらゆる時間がある。

 他にも、幸せならたくさん。

 ご飯をお腹いっぱい食べたとき、お風呂に入って深く息をついたとき、お風呂でお隣の夕ご飯の良い匂いがしたとき、家族と一緒にお出かけしたとき、休日に何も考えてないでごろごろしているとき。

 明日がお休みで、お布団で寝る前にぼんやりしているときとか、綺麗な景色を見ているときとか。好きな人と、虹とか流れ星とか、綺麗で素敵なものを見ているときとか。

 全部が全部そうじゃなくても、多くの人が一つは当てはまるような幸せの形。あたしだっていくつかは当てはまる。ていうかほとんど全部だけど。


「郁弥さん」


 恋人の、好きな人の名前を呼ぶ。


「なに?」


 下がっていた視線が上がり、瞳の先があたしに向く。興味と疑問と、期待と好意と。いくつかの色が宿った中で一番に大きいのは、やっぱり優しさで。あたしへの慈しみに満ちた眼差しに少しだけむずがゆくなる。

 気持ちを抑えて、改めてと、そっと口を開く。


「幸せって、たぶんその人がその瞬間に心から満たされている状態のことを指すんだと思うの」

「ふむ……?」


 あんまりわかってなさそうな顔。可愛い。ちゃんと教えてあげなくちゃ。


「えっとね。幸せだなぁーって感じる瞬間って、人によって違うでしょ?」

「それは、うん」

「その幸せって、嬉しいとか悲しいとか辛いとか楽しいとか、いろんな気持ちを合わせて、それでもまだ幸せだって言えるからあるものじゃない?」

「……うーん?」

「んと、郁弥さんって、あたしと一緒にいていつも幸せってわけじゃないでしょ?」

「え?うん、まあ、ね」

「緊張することもあるでしょうし、恥ずかしいこともあると思う。ドキドキしたり、胸が苦しくなったり、不安になったりも。あたしがそうなんだもん。あなたも同じよね?」


 問いかけて、ちょっとだけ不安になる。違ったらどうしようって。全然ドキドキしてないとか、ほんとは緊張なんてほとんどしないとかだったら悲しい。


「うん……同じだよ。君と同じ。緊張ばっかり、不安ばっかりだ」


 ドキドキするのが一番多いけどね、と付け加えて笑う恋人の姿に胸をなでおろす。

 今の不安も全部解けて、安心感が身体を包み込む。同じでよかった。わかってはいたけれど、言葉にしてもらうとやっぱり嬉しい。


「ん、そう。そうなの。そんな気持ちが大きいときは、幸せだーなんて思えないでしょ?」

「うん――あぁ、そういうことか」

「あ、わかってもらえた?」

「うん。わかった」


 頷く恋人に、あたしも小さく頷き返した。


「緊張とか不安とか、そういうのを抱えたうえで心から笑顔になれる、そんな時間が幸せそのものになる、ってことかな」

「ん、だいたいそんな感じ」


 まあ、中には特殊な気持ちが幸せに繋がる人もいるとは思うけどね。ほとんどの人はリラックスしたあったかい気持ちで満たされたら幸せだって感じると思う。あたしもそうだし、郁弥さんだってそう。


「ところで郁弥さん」

「うん。なに?」


 ちょうどよくと言うのはおかしな話かもしれないけれど。区切り良いところで思ったことがあるから。


「どうしてこんな話しようと思ったの?」


 正確にはどうしてそんなこと思ったの、だけどそこはいい。似たようなものだし、あたしの恋人さんならこのニュアンスで伝わるはずだから。


「ん?あぁ、うん」


 どんなことを言われるのかと待っていたら、少しばかり照れくさそうに一度目を逸らして、それから再びこちらを見て口を開けた。口元がもにょっとしてる。言いづらいことなのかな。それにしては困ったさんな顔で照れてるっぽいけど。顔も若干赤くなってる気もするし。


「えっとさ。日結花ちゃん。今、幸せ?」

「――」


 言葉を失うって、こういうことなのかもしれない。全然想像と違った言葉で、なんにも答えられなかった。

 幸せって。そっか。だからこの人、幸せについて考えてたんだ。あたしが今幸せかどうかって、気になっちゃったのか不安になっちゃったのか。わかんないけど、何か思うことがあったのだけはわかる。

 本当に。まったくもう。またあたしのこと考えてたなんて、いつも通りで、いつも通り過ぎて胸の中いっぱいよ。


「――本当、相変わらずのおばかさんね」


 瞳にちょっぴりの揺れがあるの、見逃してないんだから。表情だってほんの少し固くなってるし。自分で聞いておいてそれだなんて、おばかさんとしか言いようがないわ。

 だから、伝えてあげないと。あたしがどれだけ。どんな想いであなたとの時間を過ごしているのか。


「あたしは幸せよ。これ以上ないくらい、幸せのお裾分けをしちゃいたいくらいに幸せいっぱいなんだから。安心してあたしの傍にいなさい」


 自然と笑顔になったまま言葉を伝えて、手を伸ばして目の前の大好きな人を捕まえる。

 不安の色を丸ごと消し去って、頬を緩めて手を繋ぎ合わせてくる恋人に、一言だけ付け加える。"これからもちゃんと、あたしのこと幸せにしてね?"、って。

 郁弥さんがどんな顔で頷いたのかは、誰にも言わないあたしだけの秘密。こんな素敵な表情、他の人になんて見せられないもの。彼の恋人である、あたしだけの特権なんだから。

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