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72. 関係を変えていくということ

 時刻は六時半前。早朝のお風呂に入り終え、真冬の空気と温泉のお湯で冴えた意識を持って部屋に向かう。脱衣所だとお風呂の熱でぼんやりとしていた意識も、着替えて少し時間が経てばはっきりとした。昨日の夜も含めれば都合四度目となる寒い通路を抜け、旅館、銀泉花ぎんせんかの廊下に出た。

 さっきお風呂で郁弥さんが言ったことでもあるけれど、このお風呂前に来るのもこれが最後だと思うとちょっとした寂しさがある。


「――あ、札直さなきゃ」

「あぁ、そういえば直してなかったわね」


 別のことを考えていたせいで完全に忘れちゃってた。貸切風呂だから、ちゃんと人が入ってるかどうかの札変えなくちゃならないのよ。

 下り階段の手前で止まり、行ってくるねとあたしの手を振り解こうとする恋人を繋ぎ止め、一緒に行くと無言で抗議した。

 何を察してくれたのかはわからないけれど、柔く微笑んでそのまま一緒に歩いてくれた。二人で"貸切中"の札を"空いてます"にひっくり返し、ゆっくりゆったりと足を動かす。

 隣のお風呂はまだ人が入ったまま。あたしたちが入っている間に入れ替わったのか、それとも同じ人が入ったままなのか。昨日も同じことを考えたような気がする。


「……」


 声をかけるかかけまいか。話をしたいのに、口を開くことすらも億劫で。手を引かれるまま階段を下りていく。気づいたら、もう部屋の前までやってきていた。

 鍵を開けている恋人の後ろで、ぼんやりと考える。

 あたしは。

 あたしは、何がしたいのかしら。

 二人で旅行しに来て、散々って言っちゃえるくらいにたくさんイチャイチャした。これがドラマとか映画だったら甘過ぎて胸やけするほど、たっぷりと甘い時間を過ごした。

 だからもうイチャイチャしたくないとかそういうのじゃない。ただ――ただ、これが思い出に変わっちゃうことが寂しい。そう、結局のところ寂しいだけ。

 旅行の終わりとか、一日遊んで夕方にお家へ帰らなくちゃいけないとか、もっと楽しい時間が続いてほしいっていう当たり前な思い。どうあがいても避けられないし消えない思いがこれだから。だからあたしは。


「日結花ちゃん?開いたよ?」

「……うん、ありがと」


 目を合わせてお礼を伝える。


「ねえ、郁弥さん」

「うん」


 あたしが考え込んでいたのに気づいてか、鍵だけ開けてそのまま待っていてくれる。微笑があたたかくて嬉しかった。


「写真を撮りましょう?」

「ふふ、うん。いいよ」


 優しく笑って頷いてくれた。

 この人のことだから、あたしが寂しさに浸っていたことも気づいているのかもしれない。ただまあ、気づいていても、気づいていなくても、どちらにせよすぐに寄り添って隣に来てくれたのだから、あたしはもうそれだけでいい。

 ぱしゃりと、静かな廊下にシャッター音が響く。技術が進んでも携帯が伸びたりなんてしないので、カメラと身体の距離は近い。自撮りらしく泊まっている客室のドアを背景に数枚だけ撮って、とろりと息を吐いた。


「満足した?」

「ん、それなりに」


 言葉少なく、ぎゅっと手を繋ぐ。携帯はエコバッグに放り込み、扉に手をかけてがらがらと開けた。できるだけ音を減らそうとしても、やっぱりそれなりに出てしまう。二人で苦笑しながら、そそりと部屋に入っていった。

 玄関扉を閉めると、階段付近で聞こえてきていた一階の物音も届かなくなる。朝食の準備か、銀泉花の人が宿に泊まっている人のためのあれこれをしているのだと思うと頬が緩んだ。

 恋人の手を引き、膝からくず折れるようにお布団へ倒れる。


「……むぅ」


 うつ伏せに倒れ、自分のくぐもったうなり声がお布団に吸い込まれる。左手が恋人と繋がったままで、その恋人さんが一緒に倒れ込んでくれなかったせいで腕が伸ばされることになった。痛くはないけれど、物足りない。


「ねー郁弥さーん」

「うん」

「なんで立ったままなの?」

「なんとなく。今座るよ」


 言ってぽすりと腰を下ろす気配がした。繋いだ手のひらが遊ばれ、指をくすぐられたり挟まれたり組まされたりと、両手でぺたぺたと触られている。

 ゆっくりと半身を起こし身体を横向きにすれば、あたしの手をぽんぽんと軽く跳ねさせて遊んでいる郁弥さんがいた。

 目が合い、にこりと微笑んでくる。


「……それ、楽しい?」


 聞いておいて思った。あたしも似たようなことして楽しんでたから、きっとこの人も楽しんでるのかなって。あと、表情がほんわかしてるから楽しんでるってわかっちゃった。


「楽しいよ」

「そ」

「うん」


 それからまた、じっと時間が止まったかのように会話が止まる。郁弥さんは変わらず恋人あたしの手で遊んで、あたしはその姿をぼーっと見続ける。

 この朝の時間、まだ朝ご飯まで一時間はある。お風呂で見た外の景色は暗くて、今もきっと暗いままなはず。視線を逸らして向けた障子戸の先は薄暗いまま。昨日の夜よりかは明るいかもしれない。

 今だけ。今この時間にだけできることは。


「ねえ」

「なに?」


 声をかけると、遠くを見るようにぼんやりしていた瞳があたしを映す。


「外が見たいの」

「うん」

「連れていってもらえる?」


 彼に届く程度の小さな声で、本当に小さくささやかに問いかけた。


「いいよ」


 頷いて手を離し、それからあたしの背と膝裏に手を通す。


「少し、僕の方に身体預けてくれる?」


 片膝だけをお布団についた体勢で聞いてくる恋人に、こくりと頷いた。彼の方に身を寄せ、首に両腕を回す。もたれかかるように、抱きつくように、しがみつくように。体重を預けてすぐ、ぐっと全身が動く。

 郁弥さんに抱えられながら――お姫様抱っこで――部屋の窓に近づいていく。完全に両手が塞がっている恋人さんと違い、あたしは片手なら簡単に空けられるのですぐに障子戸を開けさせてもらった。

 窓越しに、薄暗い灰白色の世界が広がった。

 雪を落とす空はまだ暗い灰色で、目の前の建物もはっきり見えるとは言えない程度。川の水はまったく目に映らず、深く積もった屋根の雪は空の暗さのせいか青白さが混じって見えた。


「――日結花ちゃん」


 そっと窓際に下ろされ、隣同士座ったまま名前を呼ばれる。声を返さず、頭を恋人の肩に寄りかからせた。


「愛してる」

「っ」


 ぽつりと言われた言葉は、痛いくらいに胸に響いた。


「いきなり、なにを言うのよ」


 動揺を押し殺して、外の景色から隣に視線を移す。郁弥さんは、普段通りに柔らかな表情を浮かべていた。


「結局、心を込めて言葉にはしてなかったからさ。愛してるの一言を伝えておきたいって思ったんだ」


 あたしと目を合わせ、よくわからない理屈で言葉を伝えてくる。

 照れくさくて嬉しい気持ちはあるのに、どうしてか心が静かだった。


「……愛してる、なんて」


 凪いだ心地で考えて、浮かんだ言葉を口にしていく。


「愛してるなんて、あたしと…………」


 ゆっくりと、大切な言葉を紡いでいく。


「……あたしと。また一つ、変えていきたいのね」


 抽象的で、ひどく曖昧な話になってしまったけれど、郁弥さんにならこれで伝わる。


「うん。色々と話してわかったから。そろそろ僕も、ううん、僕らも変えていいくらいにはなれたと思って」

「そうね……」


 薄っすらと口元に笑みを見せて話す恋人に頷き返し、再び外へと視線を向ける。


「そうかも、しれないわね……」


 続けて呟き、確かめるように手を繋ぐ。

 きっと、この旅行を終えてから先、あたしたちの関係は少し変わる。今のやり取りでそれが鮮明になった。なあなあの流れであやふやだったものが、言葉で繋がってあたしたちの中で形になったから。

 昨日今日と、たくさん触れて話して気持ちを伝え合って、全部が重なって今のこの時間がある。

 これからは今までより、少しだけ近くて、少しだけ痛くて、少しだけ不安で、少しだけ温かい。そんな壁の薄くなった関係になる。

 手を伸ばせば届いちゃうから不安で、全部見えちゃうから怖くて。それでも好きだから、愛してるから不安なのも怖いのも共有して生きていく。

 もしかしたらそれは、もう家族と呼んでもいいくらいの距離感で――。


「――郁弥さん」


 恋人の、大好きな人の名前を呼ぶ。


「うん」


 目は合わせず、身体を寄り添わせて繋いだ手に力を込めた。返ってくる優しい力が少しだけくすぐったい。


「愛してるわ」


 短い頷きと、簡素な返事が鼓膜を揺らす。

 顔を見ていなくても、柔らかく微笑んでいる姿が目に浮かぶ。だからそれで、あたしにはもう十分だった。

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