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71. 旅の終わりの足音

 朝の六時を過ぎて、きっと今は六時半くらい。

 銀山温泉の旅館、銀泉花ぎんせんかに泊まって翌日。朝からの貸切風呂は真冬らしく寒くて、東北の熱いお湯に眠気も完全に吹き飛ばされた。

 二人並んで裸のまま立っていると、雪混じりの風に熱く火照った身体が勢いよく冷やされていく。

 朝焼けの見えない雪模様の空は高く遠く、手を伸ばしてみても届きそうにない。手を伝って流れてくる温泉の雫が寒風で冷え、肌を流れるたびに、そこを冷気がたどっていくような気持ちになる。

 なんだかとても、とても、切なかった。


「日結花ちゃん」

「…………ん」


 名前を呼ばれ、少し遅れて声を返す。


「旅行、来られてよかったね」

「……うん」


 頷き、そっと寄り添う。ぴとりと肩を合わせて首を傾けて頭を預けた。静かに、言葉なく、繋いだ手に力を入れてくれた。

 目を閉じると、感覚が鋭敏になってより"今"を感じられるようになる。

 冬の朝の、雪降る街の寒さが肌に染みる。温泉の音以外に聞こえるもののない静けさは物寂しさすら感じさせた。吸い込む空気は冷え込み、全身を巡って身体の温度を下げていく。時折吹き付けてくる風は穏やかで、けれど真冬の厳しさを含んで表面以上に心が凍っていく。肌に触れて溶ける雪が、お風呂に入って身体に溜まっていた熱を冷ましていく感覚がよくわかった。

 そして、伝わる体温。心も身体も、凍えて冷えていくからこそ、その温かさは何よりも強く感じられた。

 寂寞せきばくとした世界にいるはずなのに、隣の、恋人の体温を肌で感じているだけですべてが変わっていく。冷たいのも寒いのも変わらないけれど、それ以上の温かさが心を、身体を満たしてくれる。

 いつの間にか、口の端が柔らかな笑みを形作っていた。


「――郁弥さん」


 目を開け、先ほどと変わらない世界に意識を戻す。


「なにかな」


 名前を呼ぶと、優しい音色で声が返ってくる。顔は向けず、すっと暗い空を見上げて言う。


「あたし、あなたと旅行に来られてよかったわ」


 きっと、今の言葉には旅の終わりに対する寂しさも含まれていた。



 やけに雰囲気のある会話をして数十秒後。

 あたしと郁弥さんは揃って寒がりながら再度の入浴を果たしていた。

 言い方が固いような気もするけど、普通に寒くてもう一回お風呂入っただけ。ちょっと外でぼんやりしすぎちゃった。いくら心が旅行の終わりに寄って寂寥感たっぷりになっちゃったとしても、雪が降ってる中でそこそこの時間突っ立っているのはよくない。湯冷ましどころか風邪ひいちゃう。


「はぁぁ……。でも、本当にもう銀山温泉とお別れなのね」

「そうだね。銀泉花さんともお別れだし、日結花ちゃんとの初旅行も終わりかと思うと結構寂しいな」


 自然とこぼれた言葉にしんみりする。

 昨日の朝、駅で待ち合わせをして、二人で新幹線に乗って。大石田駅に着いた後は送迎バスで銀山温泉まで来た。観光して、お風呂入って、また観光してお風呂に入って。ご飯も一緒に食べて、お風呂も一緒に入って、お布団も一緒で。寝て起きて。それからまたお風呂。

 挙げれば多いようで少ない。たった一日で、しかも移動時間も多いんだから当然といえば当然だけれど。それでも、楽しかった分の物寂しさが積もっていく。

 ちゃぷちゃぷと、気持ちを誤魔化すように指先で湯面を揺らした。


「日結花ちゃん」

「んぅ、なに?」


 ゆるっと指を捕まえられちゃった。指先から視線を流してお隣まで移す。郁弥さんが優しい顔をしてあたしを見ていた。


「またそのうち、旅行しに来ようね」

「……ふふ、うん。来ましょう」


 彼の言葉を飲み込んで小さく微笑む。

 旅行の終わり際が寂しいのは仕方ないから、またいつかの次を考えておく。そんな簡単なことでも、口に出して話せば気が紛れて楽になる。

 今は今を、郁弥さんと二人きりの時間を楽しまなくちゃ。旅は家に帰るまでって言うもの。家に着くまで、いっぱいお喋りしていっぱい楽しんでいきましょうね。


「よーし。ねえダーリン」

「はい」

「お風呂出たらご飯までいっぱいイチャイチャしましょ!」

「いいよ。もうお風呂出る?僕はもう少し入ってたいんだけど」

「あなたと一緒にいるー」

「ふふ、ありがとう」


 お風呂の中でくっついて恋人さんに身を寄せる。裸の付き合いもこれでとりあえずは終わりだから、今のうちにたくさん楽しんでおかなくっちゃ。恥ずかしいのとかはもういいわ。肌と肌をくっつけると本当にあったかくなるのよ。心の中がぽかぽか幸せいっぱいで、全部が満たされて。人間が裸で抱き合うのを好きな理由がよくわかったわ。もちろん、えっちな意味はないわよ。


「あ、ねー郁弥さーん」


 ゆるーっとお風呂に浸かりながら、ふと思ったことがあったので声をかけた。


「なんだい」


 ぽやんと緩んだ声音が返ってきたので、あたしも同じように言葉を返す。


「郁弥さんって、やっぱりちゃんと性欲あったのね」

「っけほ、ごほ、ごほっ」

「大丈夫ー?」


 隣で咳き込む恋人に軽く尋ねる。肩は触れていても背中は浴槽の壁に預けて天井を見上げていたので顔が見えない。ただ、なんとなく苦味の強い顔を浮かべてそうな気がした。


「……はぁぁー。ひどい目にあった。いきなり変なこと言わないでよ」

「変なことじゃないでしょ。ほんとのことだもん。こういう話してこなかったし、たまに思ってたのよ?この人全然えっちなこと考えないのかなぁって」

「それは、うん。確かに話はしてこなかったね。考え自体はしてたよ?いくらなんでも僕だって普通の男だから」

「その割には反応とかしなかったじゃない。性欲ないのか、もしくは薄いのかと思ってたわ」


 理性の塊みたいな?


「それはね。僕がめちゃくちゃ頑張って無心になったり思考逸らしたりと色々我慢してたんだよ」


 迫真の一言だった。思わず隣を見ると、遠い目をした恋人さんがいた。 


「ふーん……」


 そこまで我慢しなくても、という一言は飲み込んだ。我慢されなかったらどうなっちゃったのかなんて、軽く想像しただけで頬が熱くなる。たまに()()()()展開を望んだりはするけれど、まだ早いような気がしなくもない。

 いつかはね。いつかは。そのうち。


「ええと、そもそも我慢とかできるものなの?」


 熱くなった頭を冷やす意味でも、少しだけ話をずらして尋ねる。単純に興味もあったからちょうどいい。


「頑張ればできるよ。ただ限界はあるからさ。日結花ちゃんも昨日よくわかったでしょ?」

「ええ、まあ……」


 言葉を濁す。よくわかったって、今は昨日のお風呂にあてられてふわふわな気分じゃないから普通に恥ずかしい。

 会話が止まって、ゆっくりと時間が過ぎていく。気まずさはすぐになくなった。ただぼんやりと、二人静かにお風呂の音を聞く。

 外の景色はここに来たときからずいぶんと明るくなり、今でははっきりと目でその色を捉えられる。灰色と白と、夜の色が混じった濃紺のような青色と。何度見ても、どれだけ聞いても、銀泉花さんのお風呂は風情のある空間だった。


「郁弥さん」

「うん」

「お風呂、出ましょうか」

「そうだね」


 身体も温まり、後ろ髪引かれる思いをいっぱいに抱えて浴槽の縁に手をつき上がる。

 冷たい風が吹き、全身から立つ湯気を揺らした。それでもまったく寒さは感じず、恋人さんと目を合わせて微笑み合う。温かくも、少しだけ、少しだけ心は寒かった。

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