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70. 寝起き朝風呂

 薄ぼんやりとした意識が徐々にはっきりしてくる。

 なんだかすごくあったかくて、触れている近くのものを抱き寄せる。むぎゅむぎゅと顔を押し付けると優しい香りが包んでくれた。あたし好みな甘酸っぱい匂い。柑橘系とはまた違う、独特な甘ったるさに生き物の汗っぽいのが混じったやつ。これが結構好きで、なかなかに飽きない。落ち着く。


「……ふ……はふぅ」


 長いあくびが出てしまった。はしたないはしたない。

 ん、でもなんとなく頭はっきりしてきた。夢でも見てたような気がしなくもないし、寝起き。たぶん寝起きだと思う。そんな感じする。あーでもいい匂い。落ち着くー。好きー。


「……すぅ……はぁぁ…………」


 深呼吸。

 いったん息吸って吐いて思ったけど、あれね。これ、人ね。人の体温と人肌の柔らかさと温かさと。完全に郁弥さんだった。あたし、恋人の匂い好きすぎるでしょ。

 何を思えばいいのかわからなくて、とりあえず押し付けていた鼻は離しておいた。勢いでキスしたりしそうになってたから危なかった。唇が触れていた程度だから気にしなくてもいいの。キスの痕が残らなければセーフ理論よ。

 離れて目を開けてみれば今の状況がわかってくる。まだ外は暗いままで、それでも少しばかりの明かりが障子戸を透過して部屋に入り込んできている。おかげで視界もよく利く。あたしが顔を押し付けていたのは恋人の首筋だった。

 身体は絡みつくようにぺったりとくっついて、恋人の身体を抱き枕のように扱っていた。脚の絡みようがずいぶん際どい。こっちはこっちで危ないし、向こうも向こうで危ない。浴衣もなかなかにまくれ上がって太ももまでばっちり見えちゃってる。それもお互いに。

 何がだめって、太もも同士が密着してるせいで肌感とか体温とかの感じやすさが段違いなこと。すりすりしてるとね、気持ちいいのよ。すべすべだしあったかいし柔らかだし。朝からなんてことしてるのって自分でも思うけど、べつにやらしいこと考えてないしいいわよね。ええ、いいの。


「んふふー」


 はぁ幸せぇ。もうずっとこのままでいたいわ。あーでも時間、時間見ないと。目覚まし鳴ってないし、六時前だとは思うのよ。昨日の夜、ていうか今日の朝か。十二時過ぎてたし、起きたら絶対眠いと思ったんだけど。案外眠くない。寝不足感はまったくないかも。むしろ気分良いくらい。恋人効果かしら。


「むむぅ……」


 動かなきゃ動きたくないと葛藤していたら、すぐ近くから可愛らしいうなり声が聞こえてきた。朝一に聞く好きな人の声は格別ね。相変わらずあたしが好きな声してる。

 そっと顔を確認しようとしたら、ちょうど瞼が上がるところだった。寝ぼけ眼でぽやんとあたしを見てくる。いつも以上にぽやぽやふわふわしていた。


「んんー、ひゆかちゃん?」

「ん。あなたの大好きな日結花ちゃんよ」


 あんまりろれつが回ってない声。とぉぉぉってもっ!可愛いっ!なんなのよ、この可愛いあたしの彼氏さんは。表情も瞼重そうにして眠そうで可愛いし、声も甘くて弱々しくて可愛いし。知的さもなければかっこよさもないけど、とんでもないくらいに可愛い。


「う、おは、ふぁぁはふぅぅ……」

「ふふ、おはよ」


 おっきなあくびをもらっちゃった。

 寝起きの口は臭いって言うけれど、それって口開けたまま寝てるからとか、寝てる間にかいた汗で水分不足だとか、色々と理由はあるらしい。なんにせよ、あたしの郁弥さんは言うほど臭いしないしそもそもそういうの含めて好きだから気にならない。はい証明完了。恋人の寝起きのあくびで変にドキドキしたりしてる変態なんかどこにもいないわ。


「う、ん。おはよぉ」


 まだまだぽわぽわな郁弥さん。むぎゅりとやんわり抱きしめてきた。あたしは優しいので抱きしめ返してあげる。幸福感があふれる。とてもいい気分。

 寝起きの郁弥さんというものは恋人歴が丸一年になるあたしでもあんまり見たことがないので、結構レアだったりする。


「ぅ、いま何時?」

「んふ、教えてあげてもいいけど、一度離れてもらわなきゃだめよ?」


 伝えるとただでさえ鈍かった動きが止まる。


「……」

「……」

「……ひゆかちゃん」

「ん」

「このままだとまた寝ちゃう」

「ふふっ」


 無言の時間が数十秒ほど続き、言われたことが可愛らしくてふふりと笑ってしまった。


「……よろしく」


 ぽしょりとした呟きに頷き、名残惜し気に離れていく身体から距離を取る。身体の位置を枕側に寄せて、うつ伏せで枕に顎を乗せた。薄暗闇の中、手を伸ばして携帯を掴む。ぱっと画面を表示させると時刻は朝の五時五十分過ぎだった。


「五時五十分だって。目覚まし消しとく?」

「……うん。さむい」

「うふふ、あたしの方が寒いわよー」


 二人分の目覚ましを消し、横でお布団を首元まで引き上げている恋人を見つめる。自然にこぼれた微笑みはそのまま、今からのことを一応と尋ねる。


「どうする?お風呂行く?それともやめる?」

「……行かねば」


 予想通りな答えで笑っちゃった。


「それじゃ、タオル、鍵、髪留め、あと携帯だけ持ってさっさと行くわよ――っと、さすがに寒いわね」


 いつまでも布団の中にいては時間がなくなっちゃうから、ぱっと立ち上がる。寒いかなぁとは思っていたけれど、予想以上の寒さにふるりと身体が震え、二の腕に鳥肌が立った。


「ひゆかちゃん」

「ふふ、なあに?」


 まだまだ声に張りがない恋人さんが可愛すぎて、こっちまで声が甘くなっちゃう。どうしてこう、あたしの恋人は定期的にあたしの琴線に触れることしてくれちゃうのかしら。


「さむい」


 しゃがみ込んで尋ねたら、あたしを見上げてさっきと同じことを言う。寒がりな恋人さんだった。


「ふふ。もう、仕方ない人なんだからぁ」


 にこにこと口角が上がっちゃうのをそのままに、彼のお布団をはぎ取ってあげた。


「ひぅ、さむいさむい。ねむい!」


 身体を丸めて縮こまる。可愛い。


「ほらほら、行きましょ?三数えたら起きるのよ?いーち」

「はやい。三十にしてよ」

「ふふ、にーい」

「くぅぅ」

「はい、さーんっ」

「……起きた」

「うふふー、おはよ」

「……おはよう」


 なんだかんだでちゃんと起きて立ち上がってくれた郁弥さんと改めて朝の挨拶を交わす。ぽやんとした表情は変わらず、それでも寒さのせいか少しは頭も回ってきているみたい。

 とぼとぼと歩いてバスタオルを、と布団を跨ぐ恋人に声をかける。


「郁弥さーん。あなたのバスタオルもこっちにあるわよ」

「あぁー、うん。……うん。ありがとう」


 反応の鈍さが今の彼の眠気度合いを物語っている。くすりと笑いながら、"お手洗いを"と声をかけてぱぱっと済ませた。お布団出て立ち上がったら行きたくなっちゃった。郁弥さんも同じだったみたいで、おトイレだけ行ってそれからお風呂に向かう。

 ゆっくり歩いて部屋を出て鍵を閉めて、そろりと手を繋ぎながら階段を上がっていく。今回に限ってはあたしが部屋の鍵を閉めさせてもらった。

 寝る前に暖房を切ったからか部屋の内と外で気温はそう変わらず、継続してずっと寒い。肌着のある部分はともかく、浴衣一枚はさすがに堪える冷たさだった。

 二人して寒がりながら進み、階段の上で少し驚く。


「わ、こっちのお風呂もう入ってる人いるのね」

「ん、みたいだねー」


 廊下や階段はしっかりと明かりがついていて暗さはない。それは三階も同じで、上がってお風呂の札を見たら驚いた。手前側、露天風呂じゃない方の貸切風呂は既に"貸切中"になっていた。

 おっとりとした返事に頷きながら、スリッパでぺたぺたと歩き奥側を覗く。"空いてます"の札にほっと息をついた。ちらりと横を見れば郁弥さんも同じ顔をしていて、二人で照れりと微笑む。空いててよかった。


「行こうか」

「えへへ、うん」


 がらがらと、そっとドアを開けてまた寒い部屋を抜けて脱衣所に入る。昨日のようにドアの前でイチャついたりせず、さっさとスリッパを脱いで入らせてもらった。

 あたしはどっちでもよかったんだけど、郁弥さんがまだちょっと眠そうだったからね。さっさとお風呂で目を覚ましてほしいわ。

 恋人の裸は昨日散々見たので、脱ぐのも脱がれるのもあまり気にせず衣服を脱衣かごに放り込んでいく。浴衣に下着にと入れ、髪留めと髪が濡れないようにまとめ、洗面台で顔を洗い軽く口をゆすいで終わり。ハンドタオルもいらないから、楽と言えば楽。ただやっぱり寒い。服がないだけで一段と寒さレベルが上がった気がする。あとお水めちゃくちゃ冷たかったし。


「先行くわよ?」

「うーん、うん」


 まだお着替え中でインナーに顔を隠していた恋人さんへ声をかけつつ、そそそーっとお風呂場に行く。お湯をかき混ぜるのは面倒くさいので風呂桶で軽くやってしまい、同時に自分の身体にもたっぷりのお湯をかける。


「はぁー、あっつ」


 お湯の熱さに声を漏らしながら、時間をかけてある程度慣らしてひのきの湯船にゆっくりと身体を沈めていった。


「ん……ふぅぅ……」


 気持ちよさに自然と声が漏れてしまった。肩だけ出して身体は沈め、正面を見ると真っ暗な景色が目に映る。湯口から湯面に流れ落ちるお湯の音だけが耳を揺らし、見えるのは浴槽と障子と暗闇だけ。部屋では外も明るくなってると思ったけど、実際はまだ全然暗かった。


「日結花ちゃん」

「郁弥さ――んん!!?な、なに?」


 ふ、っと浴室に入ってきて名前を呼んできた恋人を見たら、こう、びっくりした。や、お風呂なんだから全裸なのは当たり前なんだけど、視線の高さがちょっと。うん。慣れたっていっても直視すると割と、ていうかかなり恥ずかしい。ドキドキする。


「顔洗ったら目が覚めたから、その報告」

「そ、そう。挨拶は、いる?」

「あはは、うん。おはよう」

「ええ、おはよ」


 ドキドキするのはゆっくり落ち着けるとして、今のやり取りはいい感じにほっこりした。

 挨拶もそこそこに、郁弥さんはお湯を身体にかけて滑るように隣へ入ってくる。


「……ふぅ」


 とろりと息を一つ。さっきのあたしと同じようだった。

 二人で並んで背中を浴槽に預け、静かに外を眺める。浴室の支柱を越えて、竹の壁を越えて、真っ暗な場所をぼんやりと見つめる。

 そんな時間がどれほど過ぎたか。一、二分のような気もするし、五分以上経ったような気もする。降り込んでくる雪は変わらず、だけど少しずつ外の色が変わっていった。


「空、明るくなってきてるのかな」

「そうかも。もうちょっと見ていましょ?」

「うん」


 ぼつりと短い会話だけして、ちょっと寂しくなったので距離を詰めさせてもらった。肩を合わせると、一瞬あたしを見て薄っすら微笑んでくれる。そのままこちらの肩に手を回してきて、あたしは頭を預けてと、不思議なくらい穏やかな気持ちでぎゅっと近づくことになった。

 温かくて、暖かくて。心も身体もぽかぽかと、満たされてあったまっていく。

 そのままぴっとりと肌を合わせ、徐々に白んでいく外の景色を眺め続ける。高い湯温に火照りと暑さを感じるようになってきたくらいで、お隣に声をかけさせてもらった。


「ねえ、いったん身体冷まさない?」

「いいよ」


 立ち上がり、お湯をかき分けながら浴槽を出る。昨日と同じ場所に立って外を見る。床は雪が温泉で溶け、一歩進めば積もった雪に覆われている。正面には雪で埋まった急斜面がある。薄暗く、でも雪の白さがわかるくらいには明るくなってきていた。

 言葉なく手を繋ぎ、二人で空を見上げる。遠くの朝空に薄暗い灰色が広がっている。しんしんと降り注ぐ雪粒が今日の天気をよく表していた。今日もまた、雪の日だった。

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