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68.5. 就寝前の独想

本日は二話投稿しています。こちら一話目です。

 月光遮る分厚い雪雲に囲まれた街。かすかな灯りが障子を通して入ってくる部屋。真冬の夜、暖かな布団に包まれて、一組の男女が横になっていた。

 東北地方の、それも寒さ厳しい山奥の宿だからか、布団の保温性は十二分にあった。それでも外気に触れている男の肌は冷たく、肌着としている服も薄いため冬の寒さはよく感じる。さすが零下何度、というものだろう。


「………すぅ……」


 耳を澄まさずとも聞こえる小さな寝息。暗闇に慣れた目で前を見つめると、あどけない寝顔が闇夜に浮かび上がった。

 普段結んでいる髪は解かれ、重力に従って敷布団へと流れていく。顔にかかった髪を空いている右手で彼女の背に流すと、くすぐったそうに小さく声を漏らした。

 甘やかな声に頬を緩め、男は弱い眠気に逆らって彼女の――咲澄さきすみ日結花ひゆかの寝姿を見つめる。


「……本当に」


 言葉が漏れてしまって、すぐに口を引き結ぶ。寝ている恋人を起こすわけにはいかないからだ。


 ――本当に、不思議でしかない。

 

 胸中で改めて思う。今の今まで、この状況も含めてすべてが不思議でならなかった。

 男の名は藍崎あおさき郁弥いくやと言い、十二月も中頃を迎えた今日、恋人の日結花と二人で旅行に来ていた。時刻は深夜零時。雪降りしきる外界と比べ、旅館の一室は幾分か暖かかった。同じ布団で寝ているのだから、その暖かさは尚更である。

 彼の名前、郁弥、という漢字には"多くの物事を知り豊かにおおらかに育ってほしい"という意味が込められている。彼自身が両親から直に聞いたわけではないが、両親の死後、自分で調べて考え思ったことであった。

 郁弥の両親の願い通り、彼は教養のある優しい人間に育った。等しく誠実で、何事も文句を言うことなく受け入れ、笑って過ごす。他人たにんに対して嘘をつかない代わりに、自分は嘘の仮面を被って生きてきた。

 昔は、よくよく自殺を考えたものだと。男は一人胸の内で思う。このような名前をつけてもらっておいて申し訳ないことではあるが、今はもう自殺など考えていないから許してほしいとも思う。

 現状を思い、過去を振り返り、一つ一つ辿っていくとやはり思うことは多かった。空っぽな自分、無機質な世界、価値のない生活。何もない自分にお似合いの最後だと、そんな風に思いながら現世への未練を消化しようと動いていた。

 結果、救われた。


「……」


 無言で、眼前の少女を慈しむ。柔らかな頬を撫で、だらしなく下がった頬にくすりと笑う。

 まだ二十歳の、自分にとっては少女でしかない恋人。普段は"女性"として接していても、やはり日結花は郁弥にとって何よりも大切な守るべき対象でしかなかった。

 この少女に、彼は救われたのだ。

 春の風が男の暗雲を飛ばし、夏の日差しが凍った身体を溶かし、秋の香る空気が心を落ち着かせ、冬の澄んだ空が彼の世界を照らした。

 咲澄日結花という少女に、藍崎郁弥は救われた。

 彼の生きる世界の光、太陽そのものになって。男のすべてを照らしてみせた。

 弱い自分を、情けない自分を、無力な自分を。肯定して、抱擁して、慰めて、受け入れて。こんな自分でもいいと、こんな自分だからいいのだと。

 愛して、愛して、愛して愛して愛して。これ以上ないくらいに愛を与えてくれた。友愛も、親愛も、恋愛も、家族愛も。ありとあらゆる愛を郁弥は日結花から受け取った。

 もしも自分が幽霊だったら、もう成仏していてもおかしくないなと、そんなことを思ってかすかに笑う。


「―――」


 だから、この命、人生。尽きて終わるまで彼女の、日結花のために使おうと思うことは本気だった。

 本気で、本気で。そう思って過ごしていたら、いつの間にか住居から遠い東北の地で二人同じ布団で同衾することになっていた。

 もちろん嫌なわけではなく、外の寒さに対して人肌の温かさは手放したくないものがある。柔らかく、温かく。湯たんぽと抱き枕と手触りの良い毛布をミックスしたような心地だった。

 好意を抱いている異性と一緒にいて思うことがないわけでもない。ただ、郁弥には性欲があまりなかった。慢性的な性欲減退症状とも言え、ある意味での病気ではあった。それでも夢精はするので、大きな意味で病気とも言えない。日結花との直接的な接触でははっきりと欲も表に出たため、地味に安心していた男である。

 日結花と同じ布団に入っているからどうこうというわけはなく、ただただ、郁弥は彼女が安心して眠っていてくれることが嬉しかった。

 信頼してくれている、甘えてくれている。それだけで十分だった。恋人として、彼女のことを大好きな一人の人間として嬉しくて嬉しくて、たまらないほど嬉しくて――――幸せだった。


「ふふっ」


 小声で、それこそ寝ている日結花の耳にも届かない程度の声で笑って、男は目を閉じた。腕は目前の彼女同様、相手の身体に回して抱きしめ、その温かさを存分に享受する。

 幸福を嚙み締め、つい緩んでしまう頬をそのままにゆっくりと思考を散らしていく。微睡まどろみに身を任せ、男は深い眠りに落ちていく。

 彼は、藍崎郁弥は。

 咲澄日結花が思っているものの何倍も、何十倍も、何百倍も、何千倍も。それは言葉で表せられないほどに幸せなのであった。

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