64. 子供と今と見果てぬ未来
「日結花ちゃん」
「はーい」
「子供の話だけど」
「あ、うん。なになに?」
話も一段落つき手のひらを合わせたり指だけ絡めたりとのお遊びをしていたら、答えを聞きそびれていたお話が帰ってきた。視線を合わせて話を聞く体勢を取る。
「あー、えっと。あっち向いてもらえる?」
「え、な、なんで?」
困った顔で変なことを言われた。向かい合ったままでもお話はできると思うのだけど、もしかして言いづらいことなのかな。
「ちょっとその、話しにくくてさ」
やっぱりだった。苦笑いがちくりと胸に刺さる。
「ん、それならわかった。あっち向くわね」
「うん。ありがとう」
ごそごそと身体を動かして恋人に背を向ける。押入れの和風扉が目に優しく、寂しかった。
「あと……そっち入ってもいい?」
「え、え?お、お布団のこと?」
「うん」
「そ、そう。べつに、いいわよ。うん。好きにして?」
振り返りたい欲求を抑え、大きな動揺も抑え、急に速くなった鼓動に身を固くする。いきなりすぎて緊張すればいいのか喜べばいいのかよくわからない。
「ごめんね、ありがとう」
お礼なんていらないと、伝えようとして言葉を吞み込んだ。声が聞こえてすぐに、ざわりと布ずれの音が耳に届いたから。次いで人の体温が背中全体に広がる。郁弥さんはぴったりとあたしの背にくっついたらしい。
「あと、さ。ちょっとだけ頭上げてもらえる?」
「え?う、うん」
言われるがままに頭を持ち上げて枕から離す。するとすぐに、あたしの首の下をゆるりと腕が通った。続けて脇腹からおへそ上にかけても腕がかけられる。
「もう大丈夫だよ、ありがとう」
「んんぅ、わ、わかった」
ほんとはよくわかってない。
とりあえず言われるままにしたら、後ろから抱きしめられちゃった。包まれてくるまれて、髪の後ろに吐息がかかる。
「……ん、髪の毛、乾いてるね」
「だ、だって乾かしたもん」
「そっか。ふわふわだ」
声が遠く感じるのは、きっと彼が後ろにいるからだけじゃない。郁弥さんの声が小さいから、だからきっと遠く聞こえるんだと思う。
「変な匂いとか、しない?」
「しないよ。銀泉花のシャンプーの香り。それと、日結花ちゃんの匂いも少しだけ」
「そ。嫌じゃないならいいわ」
「嫌じゃないよ。優しくてどこか甘くて、すごく落ち着く」
徐々に身体に回された腕から力が抜けていく。肩の方も、お腹の方も。
そっと、お腹に当てられた手の上に自分のものを重ねる。腕と腕が広く触れ合って、それだけ温かさを感じる。ぽつりと、短いお礼が聞こえた。返事はせず、ただ恋人からの言葉を待った。
「――子供の話、だったね」
恋人さんの手をやんわりと撫でながら待つこと少し。一分は経たなかった程度の時間で、後ろから重みを含んだ声が流れてきた。
「ええ」
頷き、小さく言葉を返す。
「僕は、子供が嫌いじゃないよ」
「そうなの?」
「うん。先があるし、希望があるから。それに、単純に可愛いから」
「それはそうね」
「でも……それが自分の子供となると違う」
声が固くなった。言葉が途切れ、軽く深呼吸する動きが伝わってくる。
「僕は怖いんだ」
「……ん」
「自分の子供が僕みたいになったらどうしようって。僕は日結花ちゃんに出会えたからいいよ。結果として今幸せだ。でも、僕の子供はどうだろう。こんな奇跡みたいな、ううん、奇跡そのものが僕の子供に起きるなんて期待が過ぎる」
「そうね」
「僕の手の中は、自分自身と日結花ちゃんと。二人分でいっぱいなんだ。頑張って腕を広げて、それでもう限界なんだよ。これ以上誰かを受け入れて責任を持てたりなんかしない。小さい小さい、とっても小さな器でしかないんだ」
きゅ、っと。少し痛いくらいに強く抱きしめてくる。
郁弥さんは、いっぱい変わった。あたしに出会って、あたし以外の人にも出会って、昔の知り合いとだってまた話すようになった。郁弥さんが変わったことは紛れもない事実で、あたしが、咲澄日結花が影響を与えたっていうのは自信をもって断言できる。
けれど。変わったところがたくさんあっても、変わっていないところだっていっぱいある。優しいところも、穏やかなところも、泣き虫なところも。そして、怖がりなところも。
この人はずっとそうだった。ずっとずっと、いろんなものに怯えていた。人との付き合いもそうだし、自分の未来にも過去にも怖がってたし、なにより失うことを恐れてた。
あたしが郁弥さんと今の関係になるまで、すごく時間がかかった。たった一人、あたしというたった一人を心に受け入れただけでもう限界だって、郁弥さんはそう言う。今までを振り返れば、彼の生い立ちや性格、心情を知ればそれにも納得がいく。
子供ができたとき、その子を幸せにできるか不安なんだと思う。自分が苦しんだのと同じように、もしも子供が苦しむようになったらって。子供を不幸にしちゃうかもしれないことが怖くて、生まれた子供を取りこぼして失うことが怖くて、未来に震えてる。
「郁弥さん」
「うん」
「子供、怖い?」
「怖いよ」
「自信ない?」
「ないよ」
「不安?」
「うん」
「あたしのこと、好き?」
「好き」
「ちゃんと、幸せにできる?」
「頑張る」
「ふふ、そう。頑張るのね」
「うん。頑張って幸せにする」
「もう幸せなのよ?」
「知ってる。ずっと幸せでいてほしいんだ」
「そ。じゃあ頑張ってね」
「頑張るよ」
「あたしもあなたを幸せにしてあげるから」
「もう、幸せだよ?」
「ずっとずっと、ずーっと先まで幸せにしてあげる」
「そっか。ありがとう。よろしくね」
「ええ、任せて。――ね、郁弥さん」
「うん」
「あたしたちの子供、可愛いと思う?」
「思うよ」
「男の子でも女の子でも?」
「うん。日結花ちゃんが可愛いから」
「ふふ、ありがと」
「どういたしまして」
抱きしめてくる腕を解き、身体を反転させる。すっぽりと恋人の腕の中に納まり、少しだけ視線を上げれば一対の瞳があった。驚きの色が瞳に宿っていて、口元は苦笑の形を作っている。なんとなく、郁弥さんはこうなることを予想していたのかもしれない。
腕を持ち上げて彼の頬に手を添える。
「郁弥さん」
「……うん」
「あなたは両親のこと、恨んでる?」
はっと目を見開き、瞼を下ろすように伏せる。
「恨んでない」
「じゃあ、あたしたちの子供があたしたちを恨むと思う?」
「……わからないよ」
「そうね。恨むかもしれないし、恨まないかもしれない」
撫でさすり、そのまま続ける。
「でもね。一つだけ言えることがあるわ」
視線が上がり、目と目が合う。柔らかく微笑んで見せた。
「あたしたちの子供が、あたしと郁弥さんの子供が幸せになれないわけないじゃない」
あなただけの子供じゃない。あたしとあなたの子供なの。
「どこからそんな自信があふれてくるんだ…」
苦笑いを一つ。若干の呆れと羨ましさが表情に混じっていた。
「だってあたしたちの子供だもん。どんなに辛い目にあったって諦めないわよ。たぶん」
「たぶん?」
「ん、たぶん」
「そっか」
「そそ」
諦めたような、でもどこか気が抜けたような声音になる。ちょっとは"らしい"雰囲気になった。
「それにね。両親からもらう幸せと、他の誰かからもらう幸せって別物でしょう?」
「――あぁ、そうだね。うん、そうだ」
寂しそうに、だけど優しい笑顔で頷く。
「だから、子供のためにそんなに思い悩まなくてもいいのよ。もしも子供が生まれて、あたしたちがいなくなった後の世界でその子が一人きりになっちゃったとしても、いつの間にかそこそこ幸せになってるわよ。だって――」
「僕たちの子供だから?」
「――ふふ、そ。あたしたちの子供だから」
根拠なんてない。ただあたしと郁弥さんの子供ってだけ。それだけで十分。奇跡は起こらなくても、未来なら自分で掴み取ってくれると思う。身勝手なことだけれどね。
「郁弥さんが本気で幸せにしなくちゃいけない相手はあたしだけ。子供ができたとしても、その子に与えるのは愛情なのよ。幸せって名前の愛情なの。生まれてきてよかったって、そう思ってもらえるように愛情を注ぐのよ」
「……難しいね」
「そうね。でも、あなたらしく、あたしらしく。あたしたちらしく考えながら目一杯の愛情をあげればいいだけでしょう?難しいけど、二人で話し合いながらのことなんだからそこまで思い悩むことでもないわ。どうしてかわかる?」
「僕と君だから、かな」
「ふふ、ええ、そう。あたしたちほど二人で悩んで考えて話し合ってるカップル他にいないわよ」
「それは、うん。そうかもしれないね」
こくりと頷く恋人に微笑みかける。
今のは自信を持って言える。こんなにもお互いを信頼して心の中全部見せ合ってる恋人同士そういないと思う。これが普通だったらちょっとびっくりよ。
「それにね?未来の子供にはあたしたち二人で愛情をあげればいいけれど、今のあなたがあたしに渡さなきゃいけないのは愛情だけじゃないわ。愛情も含めた人生すべてをかけた幸福でしょ?」
「うん」
「子供を幸せにするなんて、親には最初から難しいことなのよ。郁弥さんは子供のこと重く見過ぎ。もっと適当に、もっとふわっとした風に考えなさい」
「……うん。ちょっとは軽くなったよ。本当にちょっとだけど」
「ん、それでいいわ。あと、郁弥さん」
「なに?」
もう一つ、伝えたいことがあった。色々と話してまとまったところで、あたしが改めて言いたくなったこと。
「子供のこと考える前に、ずーとずーっと、あたしのこと愛して大事にして幸せにすること考えなくちゃ、だめなんだからね?」
じっと目を見て伝えれば、眩しいくらいに軽やかに笑って"まかせて!"、なんて返してくる。たった四文字の言葉なのに、笑顔と相まって心の奥まで想いが染み渡っていった。
触れるだけの口づけを交わし、今度は二人で笑顔を浮かべる。少なくとも今、あたしたちは文句のつけようがないくらいに幸せだった。




