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62. 彼と彼女の死生観

 彼は、郁弥さんは言葉を紡ぐ。彼にとっての当たり前を。彼にとっての人生を。


「日結花ちゃんが何も言わないならそのまま生きると思うよ。人生、何が起きるかわからないもんね。僕が君の死を乗り越えて幸せを見つけるか、それとも抱え込んだまま平穏に生きて死ぬか。死別がどれだけ傷跡として残るかはわかっているつもりだし、僕にそれが乗り越えられるとは到底思えないけど、未来はわからないから。僕に日結花ちゃんがいたように、未来の僕にも何かあるかもしれない。だから、君が何も言わないなら僕は生きる。普通に、他の人と同じようにね」


 一度区切り、つ、っと右手を伸ばしてあたしの頬に触れさせる。お布団の中にあったからか、人肌以上に温かい手だった。


「だけどね。もしも日結花ちゃんが一緒に死んでほしいって言うなら、僕は一緒に死んであげる。未来のことはわからないから希望だってあるんだとは思う。でも、少なくとも"今"の僕にとって日結花ちゃんは人生そのものだから。僕の光がいない世界で、君のいない世界で幸福なんて望めないよ。それに、彼女の最期のお願いくらい、聞いてあげなくっちゃね」


 そう言って、微笑んだ。

 想像はついていた。こう言われるだろうなとは思っていた。けれど、聞いてみるとそれなりに衝撃がある。価値観の相違とでも言えばいいのか。彼の人生におけるあたしの比重が大きすぎて、少し思うところがある。

 悲しみと、哀れみと、悔しさと、虚しさと。様々な暗い感情が胸中を巡り、そして、そして――それ以上の、仄暗ほのぐらい喜びがあふれる。

 この人はあたしを光と、太陽と言うけれど、実際は全然そんなことない。今だって、あたしのためにごく自然と生死を共にしてくれるって言ってくれて、悲しみより喜びが勝った。言葉じゃ言い尽くせないくらいに嬉しかった。

 郁弥さんはあたしのために生きている。あたしだけが幸せにできるし、もうあたしの存在無くして彼の人生は成り立たないって。そんな醜い独占欲にまみれていた。

 あたしがいなくても幸せになってほしいとか、そういった気持ちだって普通にあるにはある。だけど、それ以外に暗くてどろりとした狂おしい感情がたくさんある。

 もしかした、ていうかもしかしなくても、郁弥さんはこういうの全部わかったうえであたしを受け入れてくれているのかもしれないけれど、それはそれ、これはこれ。

 彼が理解しているいないにかかわらず、あたしが抱える感情があるって時点でよくない。……そう思っても、治せるものじゃないしどうしようもないんだけどね。


「そう。うん、そうね。もしもそんな日が来たらお願いするかもしれないわ。あなた以外に一緒に黄泉路よみじを歩いてくれる人なんていないもの」


 そんな日が来るとは思えないけれども、ね。おじいちゃんおばあちゃんになって病気とかしたときは、たぶん一緒にあの世に逝きましょうとか絶対言わないし。むしろ存分に生きなさいとか言うと思うし。こういうの思うのは、たぶん若い頃だけだから。


「ふふ、うん。任せて。あ、逆に聞くけどさ――」

「あなたは絶対あたしにそんなこと言わないでしょ」

「――よくお分かりで」


 思いついたように聞こうとしてきた恋人を遮って先に言わせてもらった。苦笑が目に映る。

 郁弥さんがそんなこと言うはずないのよ。自分のためにあたしに対して一緒に死んでなんて。天地がひっくり返ってもありえないわ。


「でもほら、例え話だから」

「んー、それならまあ、考えてあげる」


 例え話っていうか、この人の場合笑い話になっちゃうくらいだけど……。にしても、郁弥さんが余命宣告されて、かぁ。あたし、なんて答えるかな。


「……えっと、あたしたちの年齢による?」


 なかなか思いつかず、苦し紛れの答えがこれだった。


「そう来たか。ちなみに具体的には?」

「うん。まず今はだめかな。若い頃はごめんなさいだけどお見送りにすると思う」

「そっか」

「そ。それで、あたしすっごく有名になるの」

「有名に?」

「うん。有名になって、咲澄さきすみ日結花ひゆかって名前を世界中の人が知るくらいに有名になって、本を出すの」

「本?」

「そう、本。自伝とかよくあるでしょう?」

「あぁ、あるね。有名人が執筆したやつ。最近だとお年寄りだけじゃないような気もするけど」

「そうね。いつ書くかはわからないけど、十分に名前が知られるようになってから書くわ。どんなの書きたいかわかる?」

「え。どんなのだろう。もしかしてだけど、僕とのこと?」

「ふふ、正解。よくわかったわね」

「まあ、ね。流れ的にそうかなぁと」

「うふふ、そうね。あなたとの思い出をいっぱい詰めた本を出すの。あたしの人生には、こんなにも素敵な人が、一番に大切な人がいたんだって。藍崎あおさき郁弥いくやさんっていう名前の、もう亡くなっちゃってるけれど、ずっとずっと色褪せない思い出として残ってる人がいるんだって」

「……うん」

「あたしがどれだけあの人を愛していたか、あの人があたしをどれだけ愛してくれていたかって。いっぱいいっぱい詰め込んで、みんながあなたを知ってたくさんの人の思い出の一つにしてもらうのよ。そうすれば、ほんの少しでもあなたの生きた軌跡を残せるでしょう?」

「そう、かもしれないね」

「そうなの。だって、あなたが誰にも覚えてもらっていないなんて嫌じゃない。あたしの大好きな人がみんなに忘れ去られて、あたしが死んじゃったら誰もあなたのことなんて知らなくて。そんなの――そんなの寂しいじゃない」

「……ん」

「若くして病気で死んじゃうなんてよくあることだと思うわ。子供ですらあるんだから、郁弥さんくらいの年齢でならいっぱいあるとは思う。歴史に名前を残す人なんて一握りだし、本として名前が残るのだってそう多くないのは知ってる。だから、これはあたしの我儘。郁弥さんを、ほんのひとかけらでも誰かの記憶として、どこかの記録として残していきたいっていう我儘。だからね。あたしはあなたと一緒に死ねない。生きて生きて生き抜いて、あたしの人生を世界に刻み込んでやるの。郁弥さんっていう名前の早死にした男の人も一緒にね」


 彼の手に触れて指を絡ませる。瞳を潤ませる恋人さんを見て、やっぱり泣き虫だなぁと思い笑顔がこぼれる。


「そんなこと、考えてくれてたんだ」

「ええ、これくらいはね」


 笑ってみせれば、ふわりと柔らかな微笑みが目の前に浮かぶ。目尻に光った雫は見ないふりをして、続きを話させてもらう。


「あたしたちが若い頃はこんな感じね。お年寄りだったら、うん。仕方ないから一緒に死んであげる。あなたが八十歳だとしたら、あたしも七十三歳でしょ?それならもう、さすがにパパもママも死んじゃってると思うし、神様だってこれくらい許してくれるわよ」

「あはは。どうだろうね。これまで生きた分の二倍なんて想像もつかないや」

「ふふ、そうね。あたしも全然わかんない」


 二十年ですらこんなにいろんなことがあったんだから、あと五十年もなんて何が起こるか。案外平坦で、むしろこの数年があたしにとっての激動の時代だったりしてね。


「あとは、もう一つ。子供がいたときはまた変わるわね」

「あぁ、子供か」


 今はまだ、あたし自身が子供みたいなものだから頭の隅にも置いてないけれど、いつか子供をどうこうって思うようになるんだと思う。

 なんとも言えない顔で頷いた恋人さんに向けて、一つ問いかける。


「子供がいたら、あたしは少なくともちゃんとその子が大人になるまで死ねないと思うのよ。実感なんてあるわけないから想像でだけれど。もちろん一緒に死んでなんてあげられないし、たぶんあなたもそうなんじゃない?ていうか、郁弥さんって子供とかほしいって思ったりするの?」


 聞いてすぐ、これはまた大変そうだなと思った。

 だって郁弥さん、ものすっごく小難しい顔して眉間にしわ寄せて口もへの字になっちゃったんだもの。しおしおな表情も可愛くて好きだけどね。

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