61. お風呂上がりに
どことなく暗闇が深まった気配のする通路と階段を抜け、できるだけ音を立てずに客室の前までやってきた。携帯も持っていないので時間すらわからない。お隣の部屋に人が泊まっているのは知っているけれど、声も聞こえないからもう眠っているのかもしれない。
ゆっくりと、音を立てず古い引き戸を開け中に入る。外からかけるのと違って簡単な鍵を閉め、ひんやりとした板張りの床を踏む。小窓のように障子のついた襖からは明かりがこぼれ、戸の先には人の気配を感じる。まったく音がしないのを聞くに、テレビはつけていないらしい。
そろりと二つ目の引き戸を開けると、座椅子の場所を元に戻したのか机に向かう形で座っている郁弥さんの姿が見えた。眼鏡もせず、ぼんやりと携帯を眺めている。
音で気づいたのか、顔をあげてこちらを見る。目が合うと微笑んできた。
「おかえり」
「ただいま」
一言だけ。
言葉を交わして、布団を踏み越えて向かう。あたしの動きを察して、椅子を引き机から距離を取ってくれる。あたしたちの間に邪魔するものはなくなった。
ふわり、と。心を通わせる。
何も言わず、お互いの背に回した手に力を込める。暖かく、温かかった。恋人の首筋に顔を埋める。幸せだった。訪れる安心感に気が抜け、あふれる多幸感に力が抜ける。
落ち着くまで、もう少しだけこのままでいたい。そんな想いを理解してか、まだ濡れたままの髪を優しく撫でつけてくれる。今は彼の好意に、ただ甘えさせてもらいたかった。
何分経ったのか。お風呂から上がり旅館の部屋に戻って、すぐに恋人に抱きついて抱きしめて抱きしめられて。感情の波が収まるまで結構な時間がかかった。涙は出なかったけれど、郁弥さんというあたしの大好きな人をひたすらに感じていたかったから、思ったより時間がかかっちゃったような気がしなくもない。
気を取り直して、そっと身体を離す。顔を見ると穏やかな色を湛えた瞳が迎えてくれる。
「もういいの?」
「ん、平気。ありがと」
見つめ合ってお礼を告げた。じっとそのまま、時間が止まったかのようにただ恋人の瞳を見つめる。
「ふあぁぁ――あ」
「ふふ、もう」
とろりと甘い空気が漂いかけたところで、目前の人から大きなあくびが送られた。手はあたしの脇腹とか肩とかに伸ばされていたから口を覆う暇もなく、喉の奥まではっきり見えてしまった。大きなあくびが可愛らしくて、くすりと笑みがこぼれる。
「眠い?」
「う、うん。割と眠いかも」
ちょっぴり恥ずかしそうに、バツが悪そうにも見える。そんな表情で返事をしてきて、本当に、なんとも愛らしい人だった。
「そ。なら先お布団入ってていいわよ。あたしは化粧水とか塗りたいから」
伝えながら恋人の身体を離れ、自分の鞄に向かう。エコバッグから取り出して放置してあったお手入れ道具を手に取り、その場で塗っていく。化粧水と乳液と。ドライヤーもしっかりして、リップクリームも塗って。これで終わり。
以前は保湿クリームとか美容液とか使ってたりしたこともあるけど、最近の夜用化粧品は化粧水と乳液だけになっている。
たまにオールインワンジェルとかも使うけれど、それは本当に気分で使うので今日は持ってきていない。
ぱっぱと塗り終え、明日の準備だけ済ませておこうと思ったところで後ろから声がかかる。
「日結花ちゃん」
「なにー」
「さっき化粧品借りたよ」
「ん、りょーかい」
それだけだった。ごそごそと布団の音が聞こえるので、あたしの恋人さんは先にお布団に入っているらしい。なんなら寝ちゃってくれていても構わないわ。
鞄から取り出したのは白のハイネックなニットと灰茶色のスカート。スカートの丈はふくらはぎ真ん中くらいまで。グレーブラウンのスカートは大人っぽさ抜群なので、今日着ていたのとはまた雰囲気が違う。タイツも黒と、明るい可愛い系より落ち着いた大人感を重視させてもらった。まあどうせジャケット羽織るからあんまり関係ないかもだけど。
たたんだまま鞄の外に置き、すぐに着替えられるように準備をしておく。下着は今着ているのだし、明日の用意はこれで終わり。お化粧についてはまた明日の朝適当にやればいいので考えない。
立ったついでに忘れていたバスタオルとハンドタオルを干しておく。郁弥さんのタオルがかけてあった隣にかけて乾かす。一晩置けば十分に乾くでしょう。
携帯で時間を見ると、今はもう二十三時を過ぎていた。近くを見ると恋人の服も用意されている。やることをやったからお眠だったのかもしれない。
振り返ると、部屋入口に近い方のお布団に潜り込み、枕に顎を乗せて携帯をいじっている郁弥さんの姿があった。
「……ふむ」
部屋に入ってすぐ横並びにくっつけられたお布団二つ。押入れ側があたしで、その隣に郁弥さんと。枕は入口側となっているので、あたしの位置からは彼の後頭部がよく見えている。
恋人の上に倒れ込みたい欲がすごい。このまま近づいて覆いかぶさりたい。飛び乗るのはさすがに危ないので、ゆっくり重石みたいに体重をかけるだけ。最初は驚かせるつもりだけど。
よし、やろう。
「いーくやさーん」
「なに――ぐぅぬぃ」
どさりと、できるだけ勢いは削って倒れ込んだ。恋人さんの頭の横から顔を出す感じ。あたしにつぶされて変な声を漏らす。可愛い。
「お、おもい」
「あら、あたし、五十キロないのよ?」
まったく失礼しちゃう。女の子に向かって重いだなんて。あたしじゃなかったら怒られてるわよ?
「うう、五十キロなくても五十キロ近いでしょ。まともに人間一人乗っかられて僕が耐えられると思う?」
「耐えられないの?」
「と、時と場合によるかと」
ものすごい冷静な言葉ばかりが返ってくるので、吐息を一つ耳にプレゼントしてころりと転がる。右に回ってお布団に着地し、もぞもぞと布団の中に入っていった。横を見れば恋人さんと目が合う。
「ふふ、はろー郁弥さん?」
置き土産にドキドキでもしちゃったのか、顔が赤くなっている。かーわいい。
「くっ……はぁぁ。はろー日結花ちゃん」
「はろはろ。お風呂どうだった?」
「お風呂?よかったよ。熱かったけどね」
しっかり気持ちを抑え込んで切り替えてくれた。さすがは郁弥さん。さっきの眠気が飛んじゃっていそうなのは仕方ないって諦めてもらうしかない。
そっちはどうだった?と横向きに姿勢を変えながら聞いてくる。あたしも似たような、というより向きが反対なだけで同じ姿勢をしている。これが結構新鮮で、お泊まりするときにこんな風に向かい合って見つめ合いながらお話するなんてなかったから、ちょっぴりドキドキする。
胸の高鳴りを抑え、質問に答えようと口を開ける。
「熱かったわよ。お風呂はそこそこ広くて壁も天井も明るかった」
「へー、そうなんだ。こっちは基本石造りで堅い雰囲気だったよ」
「ふーん。人いた?」
「いや全然。僕以外いなかった」
「そう。こっちもあたし以外入ってこなかったわ」
どっちもいなかったらしい。フロントも閉まってる時間だったし、銀山温泉に来るだけで疲れたって人も多いのかも。でも上の貸切風呂は使われていたし、そこは人によるのかしらね。
「ふふ、郁弥さんもこっち来ればよかったのに」
「いやそれ捕まるから」
「んふふ、そうねー」
返事が異様に早かった恋人さんをにまにま見つめ、さらりと話題を切り替える。
「ところでダーリン」
「なんですか」
何を言われるのかと身構えている。
べつにそんな警戒しなくてもいいのにね。面倒な話でもないし、普通のお話よ。普通の。
「例えば、あたしが余命数か月だったとして」
「ええ……」
「なに?」
「いや、なんでも。続きいいよ」
「ん、例えばあたしが余命数か月ってお医者さんに言われたとして。最後の最後、もう終わりの間際になったとき、あたしがあなたに一緒に死んでってお願いしたら、一緒に死んでくれる?」
真っ直ぐと見つめる。困惑一色だった表情が移り変わって淡い笑顔になった。優しい瞳だった。
「うん。いいよ。死んであげる」
とてつもなく重い言葉にしては、声の調子が軽かった。視線にブレはなく、特に迷った様子も見えなかった。不思議なほどに、彼の言葉は普段と変わらず柔らかだった。




