60. 旅先で一人、思うこと。
石造りのお風呂に入る。大浴場としてはそこまで広くもない、旅館の大きさに見合ったお風呂。それでも洗い場が四つは並んでいて、浴槽も貸切風呂よりうんと大きい。なにより、浴室がとっても暖かい。
時間も時間だからか、あたし以外に人はおらずのんびりと身体を洗っていく。今回は髪もしっかりシャンプーリンスとするため、お湯で流したときより時間がかかる。それに、洗ってくれる人もいないので結構な手間になる。これが普通ではあるのだけど、恋人と一緒のときとは楽しさが違う。どうしても数時間前との比較をしてしまって、物寂しさを感じる。
「……ふぅ」
いくら考えても仕方ないので、さっさと洗っていく。シャワーは流したまま、先にシャンプーを済ませ次いでリンスを塗り込む。ハンドタオルにボディソープを付けて身体を洗い、一部は素手も使って綺麗に洗った。
リンスを流して髪の毛をまとめたら、とりあえずの洗髪と洗体は終わり。
風呂桶でさっと身体を慣らし、正方形に近い浴槽へ足を入れると、相変わらずの熱いお湯が待っていた。木でできた浴槽の枠に手をつき、じりじりと沈めていく。透明な湯に肩まで沈めた。
ふっと息を吐き、入口に目を向けるも人が来る気配はない。
浴槽の壁に背を預け、黄色いタイルの壁を伝い天井を見上げて目を閉じる。
なんだか、こうして一人になるのはずいぶんと久しぶりな気がする。一日中、本当に一日中、郁弥さんと一緒だったから。
一人になったからか、長く一緒にいて離れたからか、ふわふわと彼との思い出がシャボン玉のように頭に浮かんでくる。
あの頃は、あたしが誰かを好きになるなんて思ってもみなかった。生まれて育って、人並みに勉強して遊んで友達も作って。大人びてはいても普通の学生らしく生きてたと思う。中学生ぐらいまで、だけどね。
声者のお仕事をしっかりやるようになってからは、あたしの世界が学生生活中心からお仕事中心に変わった。そうは言っても学生にできる範囲でのお仕事だけれど。それでもやっぱり、たくさんの人とかかわって、たくさんの人の前に立って話すのは学校での出来事とは全然違って。このままずーっとこのお仕事するのかなぁって、他の声者を見たり聞いたりしながら思ったりもして。
普通の学生に話を合わせるのが大変、って当時は思ってたけど、今思えばあたしが固く考えすぎてただけだった。もっと適当に、人に合わせすぎたりしなくたってよかった。好きに話して好きに過ごしていれば、もしかしたら学校にも親友みたいな付き合いのできる人ができて、今も親しくしていたかもしれない。
「ふ、ばかみたい」
呟いて、伸ばしていた手を下ろす。ぽちゃりと湯に落ちた手が沈んでいくのを感じる。霞のような夢はお風呂に溶けて霧散した。
実際にお仕事はしていても、まだあの頃のあたしは大人っ"ぽい"だけだった。子供らしく悩んで、下手したら同年代の子よりいっそう子供らしかった。うじうじとずーっと抱えて悩んで、見ず知らずの……。ううん、たぶん心の奥底では覚えてた。だからあんな簡単に心を開けたし、なんでも話せた。
藍崎郁弥さん。今となっては二人で旅行をするほどまでになった人。
郁弥さんに出会ったばかりのあたしは、ひどく迷っていた。小さな世界、狭い視界の中をぐるぐると彷徨って、自分の見えるものだけがすべてだと思い込んでいた。それでいて他人には理解できないと決めつけて、結局はそう――人を見下してた。
持って生まれたものに優越感を覚えて、同年代の子を心の奥底では馬鹿にしていた。抱えた悩みは本物だったにしても、みんなはこんなこと思いもしないんでしょうね、って。そんなことを思っていたから、誰にも話そうと思わなかったし誰にも頼れなかった。あの人、郁弥さん以外には。
彼に、郁弥さんに出会ってからは奇跡の連続だった。
世の中にはこんな人がいるんだって。こんなにも、赤の他人でしかない人間に対してこれほどまでに温かな想いを向けられるんだって。自分を見つめる瞳の優しさがくすぐったくて、自分に向けられる笑顔が眩しくて、言葉の節々にあたしへの、あたしのためだけに綴った想いがあふれていた。
あたしが"力"を持っているから感じたのか、ただ純粋な人の好意があたしにそう思わせただけなのか、今でもわからない。だけど、そのとき咲澄日結花という個人の世界が広がったことだけはあたし自身がよく覚えている。
自分だけで手一杯だったあたしを支えてくれた。導いてくれたわけじゃない。教えてくれたわけでもない。ただ支えてくれた。ほんの少し背中を支えて押してくれただけ。彼はきっと、それがあたしにとって一番良いってわかってたから。
自分の手を必要としないことを見据えてだなんて、自分だって心の中めちゃくちゃでぼろぼろに疲れちゃってたはずなのにね。本当、ばかな人。――でも、そんなあの人だったからこそ、あたしは素直に受け入れられたのかもしれないわ。
"無償の愛"、なんてね。
神様に縋って助けてもらえなかったあなたが神様の真似事って、どれだけあたしのことばかり、あたしのことだけ考えていたのよ。
「―――」
口にせず、形だけで二文字の言葉を作った。誰にも聞こえず、誰にも伝わらない。だけどあたしは知っているから、これでいい。この言葉は昔のあの人に向けた、感謝と否定の言葉だから。
そんな郁弥さんだったからこそ、少しずつ少しずつ惹かれていって、同時にあたしの周りへの見方も変わった。
人それぞれみんな違う生き方をしていて、誰もが違った悩みを抱えていて、それが深刻かどうかは本人にしかわからない。解決することもあればしないこともある。どんなに願ったって上手くいかないこともたくさんある。それは郁弥さんを見て聞いて知って心の底から痛感させられた。
真剣に生きて、真剣に悩んで。世の中の人全員がそうとは言えないけれど、少なくともあたしの周り、声者というお仕事にかかわる人たちはみんなそうだった。自分がどれだけ恵まれていて、どれだけ勝手だったかもよくわかった。
いろんな人に目を向けて笑顔や優しさで応えていくと、それだけで世界が変わっていった。もちろん、むっと来ることも気分の悪くなることもある。でも、みんながそれを吞み込んで生きていると思うと、不思議と気が楽になれた。あたしにとっての郁弥さんがそれで、誰かにとっての声者としてのあたしがそれで。
丸くなったとか、優しくなったとか、雰囲気が柔らかくなったとか。言われると照れくさいけど、やっぱり嬉しくて。気づいてよかったって、そう思うことも多い。
人として成長していきながら、郁弥さんに惹かれて、好きになって、親しくなって。去年から今年にかけての丸二年間は、あの人のことばかり考えていた。
仮の恋人なんていう、今思えば本気なのか遊びなのかよくわからない関係になって。当時のあたしはもちろん本気も本気だったし、郁弥さんだって大真面目に応えてくれていた。ただ、振り返るとよくもまあそんな変な関係で過ごしていたなって改めて思う。
曖昧な関係を終わらせたのがちょうど一年前。
あたしもすぐに二十歳を迎えて、広がった視野に少しは年齢が追い付いた気もした。恋人になって、思ったより大きく距離感は変わらなくて、それでも心の距離だけは近づいているって実感できたからそれ以上は求めなかった。あたしたちらしく、触れそうで触れない、でも少しは触れる。そんなようなこそばゆい関係。それがあたしと郁弥さんにとっての恋人って関係性だった。
彼に伝えた通り、いろんな人に会ってその度に恋人の顔を思い出して、自分の気持ちを強く自覚したりもして。
二人で過ごす時間が大切で、特別で、幸せで。自分で言うのもなんだけど、この一年ほどきらきらと宝石みたいに輝いている時間はなかったと思う。
知らないことも、知りたいことも、伝えてないことも、伝えたかったことも。
日々を過ごしていく中、ふとした瞬間に気づいたり教えられたりした。婚約指輪までもらっちゃって、あの日あのとき、あたしは一生この人に恋し続けるんだろうなぁって本気で思っちゃった。
そして、今日。
たくさん話して、いろんな気持ちを渡して受け取って、また一歩二人で道を飛び越えた。
言ってしまえばただの旅行。ただの旅行だけど、その最中に得られたものは普通に毎日を過ごしているだけじゃ絶対に得られなかった。
恋とか愛とか。
好きと愛してるの違いは複雑で、今だって詳しく説明なんてできたりしない。けれど、あたしが郁弥さんに向けている気持ちと郁弥さんがあたしに向けている気持ちと、この二つは昔と今で大きく変わっている。言葉とそれ以外で、これ以上の手段はないってくらいに思う存分気持ちを伝え合ったから。
好きな人と――好きな人と、心を通わせられるってこんなにも幸せなことなのね。
「んんー……ふぅ」
お湯から上がり、シャワーで身体をさっと流す。額に滲んだ汗も髪ごと綺麗に濡らして、水気だけ払ってお風呂の扉を開けた。
冷えた空気が火照った身体に心地いい。思ったよりも長湯をしてしまった。ただまあ、気分は悪くない。
ふと、ぽやっとした顔でお布団の上に座って待っている恋人の姿が目に浮かぶ。自然と頬が緩む。
なんだかとても、無性に郁弥さんに会いたい気分だった。




