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59. 湯上りとまた別のお風呂

「ふと思ったんだけど、郁弥さんの胸も綺麗な色してるわよね」

「その情報誰も欲しがらないよね!?」

「残念。あたしが欲しがるから」

「そうですか」

「そうなのです」


 えっへんと胸を張った。白のキャミソールに包まれた薄胸がささやかに膨らむ。

 お風呂を出て、場所は脱衣所。冷静に考えるとひどい話だけれど、さっきまでこんな変な話を延々続けていたのだから今さらと言える。それよりもあたしは時間が気になる。

 湯冷めするのも嫌なので、さっさと下着から浴衣まで着てしまった。見せびらかすのは散々やったので、もうする必要がないっていうのもある。もし郁弥さんが見たいって言うなら見せるのもやぶさかではない、かも。


「ちらり」

「ん?」


 目配せと声をお届け。


「ちらりん」

「?」


 あたしと同じく着替え終えて、しっかりとこちらを見てくる。まったく何もわかっていない顔に気がしぼんでいった。


「なに?浴衣褒めてほしかった?」

「違う。それもしてほしいけど違うわ」

「可愛いよ。似合ってる」

「あ、ありがと」


 照れる。ちょっぴり頬が熱い。笑顔があったかい。嬉しい。

 なんか、うん。もういいかな。浴衣はだけてるわけでもなかったし、わかんなくても仕方ないわよ。ていうかわかる方がおかしい。察しの良さが異常よね、それ。


「どういたしまして。日結花ちゃん。今二十二時十分だって」

「え?あら、そう。やっぱり一時間以上経ってたのね」

「だね。結構な長湯だった」


 そりゃ疲れるか、と続ける。

 お風呂に入って一時間と少し、結構な時間を過ごしてしまった。久しぶりにこんな長湯をしたと思う。


「郁弥さん、湯疲れした?」

「うん。した。日結花ちゃんは?」

「あたしもした。割と疲れたかも」


 ぽつぽつと話し、なんとなくの思いで手を繋ぐ。握り返される感触が心地よく、恋人の顔を見ると薄い微笑みが浮かんでいた。あたし自身かなり疲れてはいるけれど、ずいぶんと優しい疲労感だった。

 脱衣かごを見て忘れ物だけ確認し、ゆったりとした歩みで脱衣所を出る。冷たいすのこの部屋を抜け、ドアを開け閉めしながら客室へと戻っていく。お風呂前の札をひっくり返し、"貸切中"から"空いてます"に戻しておいた。下り階段の手前でもう一つの貸切風呂を見ると、そちらはまだ"貸切中"のままで障子戸が閉まっていた。

 あたしたちが入る前からいた人がまだいるのか、それとも交代して別の人が入っているのか、区別はつかない。ただ、この時間でもまだお風呂に入る人はいるんだと思うと不思議な親近感が生まれた。

 少し名残惜しくて、立ち止まっていると軽く腕を引かれる。繋いだ手が解かれ、柔い抱擁を受けた。何も言わず気遣ってくれた恋人を抱きしめ返して数秒。淡い感情は吞み込んで三階を後にする。

 鍵を開け、ようやくとばかりに暖かな部屋へ帰ってきた。


「うにゃあーつかれたぁー」


 ぽふりと。部屋のお布団に倒れ込む。エコバッグは恋人さんに押し付けてしまったので、タオルのなんやらかんやらはお任せしてしまった。

 羽毛布団に伏せていた顔をあげると、棚を開けてハンガーにバスタオルをかけてくれている郁弥さんの姿が見える。二枚分をかけて、戸は開けたまま。ハンドタオルは使わなかったので入れたままで、あたしの鞄の側にエコバッグを置いて携帯を手に拾い上げるのが見えた。

 二つの携帯を持って、自分のは充電器へ。あたしのは――と思ったら、こっちを見て"どうする?"と軽く手を持ち上げて聞いてきた。ふるふる首を振り、いらないと伝える。そうしたら自分のと同じく充電器に繋いでくれた。ついでにしっかりお風呂から持ち帰ってきた眼鏡をケースにしまっていく。

 至れり尽くせりな光景に身体の力が抜けていく。なんとも幸せな気分だった。


「日結花ちゃん」

「なにー」


 またお布団に突っ伏して、ぼけーっとしてたら声が聞こえた。ざわりと隣に座った音もする。お布団がずれて腰辺りが微妙に動く。結構近い場所に座ったのかもしれない。


「髪、濡れてない?」

「んぅ、わかんない。たしかめてー」


 そういえば髪留めそのままで放置してた。前髪もあんまり濡れてないし、そんなでもないとは思うんだけど。

 なんて思っていたら、ふわりと頭に手が乗せられる。髪をくように撫でつけられ、後ろの髪を毛先まで触れられるのがよく伝わってくる。横の髪も同じように触られ、さらりと頬も撫でられる。

 気持ちよさとくすぐったさの混じった確認だった。


「うん、これならドライヤーいらないかな。それにすぐお風呂入るもんね」

「えー」


 くすりと笑って言う恋人に抗議の声が漏れる。これはドライヤーをしないの"えー"じゃなくて、お風呂に入るの"えー"。だってめんどくさいし。


「ふふ、ほら、身体洗わないといけないでしょ?」


 彼の言う通りではあるんだけど、動きたくない。


「うー、郁弥さん起こして―」

「いいよ。ふふ、だらけたお姫様だなぁ」


 軽やかに笑いながら、あたしの身体に手を当てる。お尻と肩甲骨と。


「もー、えっちぃ」

「はいはい。ひっくり返すよー」


 雑なやり取りは流され、のっそりとひっくり返された。暗闇が開け、視界には天井に吊り下げられた明かりと傍に座る恋人の姿が映る。ふわふわと柔らかく微笑んでいた。


「いーくやさーん」

「なに?」

「しゅき」

「ありがとう。僕も好きだよ。舌っ足らずなのはわざと?」

「んふふー、ひみつー」


 ちょっぴり照れくさくて顔を横に向ける。


「よし、じゃあちょっと失礼して」

「え?な、なにするの?」


 何をするのかと思ってすぐ顔を戻したら、ちょうど恋人さんがあたしの身体を跨いで膝をつくところだった。太ももの横に両膝をついて、徐々に身体を倒してくる。


「なにって言われても――っと」

「きゃっ――ん、え?」


 ゆるりと背中と頭を支えられ、くいっと起こされた。起き上がってからは郁弥さんが上手く位置を調整したのか、彼の肩にあたしが顔を乗せるような形になる。言っちゃえばいつも通りのハグ。座ったままで彼の脚があたしの上になっているって部分が珍しいくらい。


「これで大丈夫だね。後はもういい?」

「え、っと。うん。大丈夫。平気」


 要はあたし、抱き起こされたってことよね。変に動揺して期待して……はぁ。損した。

 軽く頭を押さえ邪念を振り払う。今はちょっと郁弥さんの顔が見られない。恥ずかしすぎる。顔から火が出そう。

 恋人をチラ見して、一瞬目が合ってすぐに逸らした。急いでお風呂の準備に入る。持ち物はエコバッグだけ。あとはさっき干したばかりのバスタオル。


「あ、それ右が僕使ったやつね」

「わかったわ」


 返事をして左側のを取る。右側のを取るか迷ったけど、さすがに自重した。

 他人ひとのバスタオルを使うのはよくないわよね。それが恋人とか好きな人だとしても、よくないものはよくない。品位が問われるわ。それに、このバスタオルは硫黄の匂いしかしないからあんまり楽しいものでもないもの。


「郁弥さん。準備は――って、大丈夫そうね」

「うん。ばっちり」


 部屋入口の戸を開けて振り返ると、眼鏡にバスタオルにと準備を終えた恋人さんがいた。結局五分くらいしか部屋にいなかったし、これならそのままお風呂に行ってもよかったかもしれない。


「じゃあ行きましょ」

「うん」


 特に待つこともなく、ささっと部屋を出て恒例となった鍵閉めを行う。もちろん郁弥さんが。靴下を履いていないので少し足元が寒い。それでもさっきまで温まっていたおかげか、思ったほどの冷たさは感じない。

 鍵も閉まり、ぺたぺたと二人スリッパで階段を下りていく。部屋を出る前に見た時間は二十二時二十分だった。


「あー、フロントもう閉まっちゃってるんだったね」

「そういえばそんな話聞いたかも」


 下りる途中で、下の階の暗さに気づいた彼氏さんからの小声。二十二時に閉まっちゃうとか、そんな話を聞いた覚えがある。お風呂は入れますよーって話だったはず。

 すごいどうでもいいんだけど、郁弥さんの小声っていいわよね。割とキュンってする。囁かれるのに似たものがある。変に耳が熱くなってきた。考えるのやめましょ。


「まあ、うん。たぶん日結花ちゃんの方が後になるから鍵は僕が持っておくね」

「そうね。お願い」


 着替えとかじゃなくて、髪の毛洗ったりであたしの方が時間かかるから。お互い長風呂じゃないし、妥当よ妥当。


「またあとで」

「ん、あとでね」


 階段下で言い合って、ちょっとのお別れ。

 それなのに、あたしも彼も動こうとしない。だって……なんでだろう。あぁ、うん。寂しいからか。離れたくないんだ、あたし。


「いくやさ――ぁ」


 ふわりと、優しく抱きしめてくれる。一秒、二秒、三秒と。十秒近くそのままいて、ゆっくりと離れていく。


「また、後でね」

「う、うんっ。ありがと」


 同じ気持ちでいてくれたことが嬉しくて、伝えてくれた想いがあったかくて。ほのかに残る温もりをタオルごと抱え込み、足取り軽く大浴場に向かった。小さな寂しさは、今はもう胸のどこにもいなくなっていた。

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