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57. 生きてくれてありがとう。

 お湯に浸かり、両の手を器にして掬った小さな湯面を眺める。ほのかに映る自分の顔が生真面目に見つめ返してきて、子供っぽく変に集中していたことを気づかされた。

 そろーりと顔を動かして隣を見たら、にこにこと微笑ましいものを見る目であたしを見つめる人がいた。かぁっと頬が熱くなる。


「日結花ちゃんはさ、優しいよね」


 目が合って突然、そんなことを言われた。

 こっちがおかしな羞恥に襲われているというのに、いきなり何を言ってくるのかしら。あたしが優しいって。


「あなたの方が優しいでしょ」


 どう考えてもね。


「そうかな。僕が優しいのは君に嫌われたくないからだよ」

「ふーん?」


 また小難しいことを。

 いいわ。その面倒くさいお話、付き合ってあげる。


「そんなの普通でしょ。好きだから優しくする。嫌われたくないから優しくする。同じことよ。過剰に優しくするのはその人を特別視してるからだって、さっきあなたが言ったことじゃないの」

「あ、そういえばそんなこと言ったかも」

「でしょう?」

「確かにその理屈だとそうなるな。え?あれ、もしかして僕って普通に優しい人?」

「そ。すっごく優しい人。他の人にどうかは知らないけど、少なくともあたしには必要以上に優しいわよ」

「そっかぁ。僕、優しい人だったんだ」


 なんかよくわかんないけど納得してくれたみたい。今回は割とあっさりしてる。ほっとした顔してるし、気にしてたのかな。気にしてたのなら、ちゃんとわかってくれて嬉しい。


「そんな優しい郁弥さんに、あたしがプレゼントをあげましょう」


 今思いついた。思い立ったが吉日って言うものね。すぐやるわよすぐ。


「プレゼント?」

「甘やかしのお時間をプレゼント!」

「あまやかし――甘やかしか」

「たぶんそのニュアンスであってる。甘えるの甘やかしだから」


 ふむふむと頷き、微妙に困った顔を見せてくる。眉が下がっていて可愛い。


「あ、その前に、郁弥さんって甘えるのと甘えられるのどっちが好き?」

「む」


 ついでにと聞かせてもらった。あたしはどっちも好きだし、今までお話してきた感じ、この人もどっちも好きだと思うのよね。基本あたしが甘やかされてばかりだけど、郁弥さんってだめだめな弱虫さんだから。弱ってるときとかそういう話してるときとか、抱きしめてあげるときゅぅってしがみついてくるのよ。優しくされると弱いタイプだわ。


「うーん」


 珍しく長々と考えてる。そんなに悩む?悩むのか。男の人って今みたいな質問だと結構悩むのかな。あたしだったらすぐ答えちゃうかも。どっちも好きだもん。

 考え込んでいる恋人さんをじーっと見つめていたら、視線が合わさってうがかいがちに唇が動いた。


「えっと、引かない?」

「え?うん。別にどっちでも引かないけど」

「そ、そっか。うん。実は、甘える方が好きなんだよね」


 照れくさそうに、思ったよりはっきりと伝えてくれた。


「ふーん、へー、ほー。ふふー」

「な、なにかな。その笑顔は」


 ふふふーん。そっかそっかー。郁弥さん。甘える方が好きだったんだー。

 引きつってる顔もかーわいいっ!


「ふふふー、ねえねえ郁弥さん」

「な、なんだい」


 あぁもう可愛いなぁ。あたしの郁弥さんが甘えられるより甘える方が好きだったなんてねー。そんなこと一言も言わなかったのに。もうもう、もーっと早く教えてくれればいっぱいいーっぱい甘やかしてあげたのにっ!――っと。それじゃあ、うん。せっかくだし、ちょうどいいし。甘えたいって言ってくれたし………ん、ちょっとお話でもしようかな。


「ちょこーっと、目閉じてもらえる?」

「それくらいなら、まあ」


 ゆっくりと目を閉じる恋人を横に見ながら、なるべく音を立てないように腰を上げて彼の前に回る。中腰、というか膝立ちで近づくと位置関係が良い具合になった。


「ぎゅー」

「むぐっ!?」


 むぎゅりと、苦しくないように抱きしめて抱き寄せた。郁弥さんの頭を抱えるように胸元に押し付ける。


「――ありがとうね」

「ん……?」


 驚きで石のように固まっていた彼の口から疑問の声がこぼれる。同時に身体に入っていた力も抜け、されるがままに身体を預けてくれた。信頼の心が嬉しく、再度の感謝が募る。


「あたしのために、生きてくれてありがとう」


 これじゃあご褒美じゃなくて、あたしの気持ちを伝えるだけの時間になっちゃうかもしれないけれど、でも、こうでもしないと言えないかもしれないから。顔を見てなんて恥ずかしくて照れくさくて、絶対に言えないと思うから。


「辛いこと、いっぱいあったものね。聞いてきただけで、あなたがとっても大変だったっていうのはわかるわ。あたしの想像以上に辛くて、苦しくて、生きにくかったんでしょう?」


 返事はない。ただ、自分の身体に彼の頬が押し付けられたのだけはわかった。息のしづらさからか、それとも人の温もりを感じたかったからか。なんでもいい。今は話を聞いてくれるだけでいい。


「あたしは思ったことないけど、何度も何度も――――死んじゃいたいって思ったんでしょう?」


 わざと避けて触れてこなかった言葉。今日になって初めて明確に言葉にした。自分で言うだけでもきゅぅっと胸が締め付けられるような思いになる。

 だけどもう、避けなくてもいいくらいに心が通じているから。心の痛みさえ許容し合えるくらいになったから。もう、逃げる必要はなくなった。


「たくさんの痛みを抑えて、我慢して、ずーっと生きてきたのよね。あなたはさっき、あなたの言葉があたしにとっての救いになれて嬉しかったって言ったでしょう?」


 こくりと、小さく頷く感触が伝わってくる。


「あたしも同じなの。あたしの言葉が、あなたにとっての救いになってくれて嬉しかった。依存でも、生きがいでも、人生でも。あたしがあなたを繋ぎ止める鎖になれてよかった。一番辛いとき、あなたは一人だったのよね」


 もう一度、短く押し当てられた頬が縦に動く。


「一人で全部心の中に押し込めて、よく頑張ったわね。そのときのあなたの気持ちは、あたしにだってわからないわ。言われたってわかんないと思う。でも、これだけは言ってあげたいの。ひとりぼっちでずっとずーっと頑張ってきてくれて、ありがとう。それと――――お疲れ様」


 ぐ、っと何かを嚙み締めるように抱きしめた身体に力が入る。


「頑張ったあなたがいたから、頑張ってくれたあなたがいたから。今こうして、あたしはあなたを抱きしめてあげられる。傍にいられる。好きって言える。気持ちを、伝えられる。だから――頑張ってくれて、踏ん張ってくれて、生き抜いてくれてありがとう。あたしを見つけてくれて、ありがとうね」


 熱い雫が胸元を伝う。ぐすりと、遠くで鼻を鳴らす音が聞こえた。


「上手くいかないことばかりで、たぶん神様にお祈りとかもしたのかな。それも叶わなくて、全部投げ出したくなっちゃった頃もあったと思う。あなたは、なんにも悪いことしてなかったものね。それなのにひどいことばっかりで、周りはみんな当たり前に過ごしているから余計に苦しくなっちゃったって、少しだけ前にこぼしてたの、ちゃんと覚えてるから」

「っ」


 押し殺した声が、しゃくりあげる声が聞こえる。撫で触れた髪がぴくりと震えた。


「頼れる人もいない中でずーっと一人で耐えて、ちゃんとあたしのところまで来てくれたんだから。えらいわ」


 自分がそうだったらなんて、考えたくもない。そんな時間を過ごしてきたんだもん。そりゃ話したくなんてないわよ。でも――うん。だから。


「だから、あたしだけは言ってあげる。昔のあなたには言ってあげられないけれど、他の誰も言ってはくれないかもしれないけれど。全部を知ってる、あなたの全部を預けられる今のあたしは言ってあげる」


 ぎゅっと押し付けられた頬からは燃えるような、とめどなくあふれるものが流れていくのを感じた。


「――お疲れ様。大変だったわね。もう、頑張らなくても大丈夫。ひとりぼっちの時間は終わり。あたしがいるから、あたしがついていてあげるから。安心しなさい。あなたを大好きで、あなたの大好きなあたしが一緒にいるからね。休んじゃって大丈夫。少しくらい足を止めたって大丈夫よ。ゆっくり、おやすみなさい」


 しがみついてくる恋人を優しく撫で語りかけながら、濡れた髪に唇を落とす。

 甘えん坊で泣き虫で、怖がりでひとりぼっちな恋人さん。大事な、大切な人を胸に抱きながら、しばしの間どこか穏やかな夜風を背に浴びるままでいた。

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