56. あなたが好き
冬の薄闇を眺めていると、空気の冷たさも相まって、それだけで身体の芯が凍えていくような錯覚に陥る。そうした暗闇でも雪の白色を差し色として入れれば景色が変わり、心の寒さではなく純粋な身体の寒さだけを感じるようになる。空気も変わらず、風も変わらず、変わったのは景色だけ。それだけでも十分に感じ方は変わる。燃える炎の橙色を見ているだけで安心するって人が多いのと同じ理屈だとか、そんな話を聞いた覚えがある。どこで聞いたかは忘れた。
また別の話だけれど、恋人と手を繋いでいると寒さも薄れるのよね。人肌の温かさだけじゃなくて、精神的な部分でもすごくあったかくなるの。真理だわ。
「それじゃあ、さっきのお話の続きでもしましょ?」
「うん。よろしく」
こてりと首を傾けて聞けば、ふわりとした微笑が返ってきた。背後の湯けむりに混じる穏やかな笑みに目を奪われる。すぐさま意識を取り戻して、熱くなる頬を無視して言葉を続けた。
「どうしてあたしがあなたのことずっと好きでい続けたかよね。たしかにあなたの言った通り、だめなところも悪いところも面倒なところもたくさん知ったわ。人によっては"なっさけないわね!それでも男なの!?玉ついてんの!?!?"とか言いそうな」
「ちょっと待った」
「ん?」
きゅ、っと肩を掴まれて身体の向きを強引に変えさせられる。二人で並んで外向いてたのに、くるりと半回転からの真正面。
優しいのもいいけど、ちょっぴり強引なのも悪くないかも。
「いやなんていうか、僕の彼女が可愛い声で山賊の女頭みたいなセリフ言うから。いくら演技でも日結花ちゃんの口から言ってほしくない」
「そ、そう?えと、じゃあもうしないわね。だから、は、離してくれてもいいわよ?」
「うん。ならいいや。話続けてもらえる?」
「え、ええ……」
はぁぁ。情けないのはどっちって話。女頭領とか姐御がどうとかはどうでもいいわ。あたしも進んで言いたい言葉じゃないし、郁弥さんが嫌なら言う意味ないし。そんなことより、せっかく強引に抱き寄せられて――厳密には肩に手を置かれた程度だけど――もうちょっと頑張ればキスくらいいけそうな雰囲気だったのに。一言かければっ。くぅ、悔やまれる。
「はぁ……。ええと、これは簡単な話なんだけど、あたしがあなたを好きだったとして、嫌なところ見て嫌いになったりすると思う?」
「え?どうだろう。僕は日結花ちゃんを嫌いになることはないからわからないな」
「ええそうよね。知ってた。あなたはそうよね。あたしも似たようなものよ。そもそも嫌いになることないけれど――すごく嫌なところ知っちゃったとして、今まで、それまでに見てきたあなたに対してあたしが積み重ねて抱いてきた想いは噓にならないでしょう?そう簡単に嫌いになれるほど、あたしの好きは安くないわよ」
どんなだめなことか嫌なことかは知らないけどね。それで嫌いになるならこんな好きになったりしていないわ。こんなに愛したりしないもん。家族のだめなところ知って嫌いになったりしないでしょ?それと同じようなものよ。まったくもう。
「ていうか、そういうお互いの嫌なところの限界を見つけるために恋人許容選手権しよーって話になったんじゃなかった?脱線し続けて完全に忘れちゃってたけど」
「あー、そういえばそんなのあったね。僕も忘れてた。でもその話は同棲したとき云々じゃなかったっけ?」
「あれ、そうだったかしら。そうだったかも?」
何が原因でそんな話になったのか忘れちゃってたし、もうわかんない。
お風呂でふわふわしたせいで記憶飛んじゃった。正直そこまで大事じゃなかったから。同棲のお話がどうとかなんてこれからもたくさん出てくるでしょうし、今話さなくてもねって。
「それはそれとして。納得した?」
話を戻しましょうね。
恋人の正面に回ろうして、雪を踏みそうになって諦めた。さっきやられたように彼の肩を掴んでくるりとこちらを向かせる。驚いた顔の恋人さんが可愛い。すぐに返事がきた。
「よく納得できたよ、ありがとう。恋人許容選手権は後でやろう。ただもう一つだけ。三年間で僕以外に好きな人できなかったのかだけ聞きたいな」
「あぁ、それ伝えてなかったわね」
そういえばそんなこと聞いてきてた。
いろんな世界見ていろんな人知って、それでも郁弥さんが好きだったのはどうしてとかなんとか。後の部分だけ考えて前半を省いちゃってたわ。ちゃちゃっと話しておきましょうか。
「たしかに、そうね。いろんな人がいたわ。学校卒業して本気でお仕事に向き合うようになってから人とのかかわり方も変わったし、お仕事の幅も変わっていろんな人と話すようになった」
真面目に話を聞いている恋人さんの頬に手を添えて、温かな色を宿した瞳を見つめる。いつだってあたしのことを考えてくれている、お風呂みたいに、お布団みたいにあったかくて安心させてくれる人。
「顔が良い人はいたわよ。声が素敵な人もいたわ。実際はわからないけど、表面上性格もよくて人気もあって顔もスタイルも良い完璧超人みたいな人もいた。そんな人の中であたしのファンって人もいたし、冗談か知らないけれど知り合いからあたしに気があるって人教えてもらったこともあるわね」
ぷにぷにと目の前の愛おしい人の頬を弄びながら思い返す。
いろんな人がいた。印象に残っているのはやっぱり優しい雰囲気な人ばかりで、後輩の世話焼きで頼られてる人だったり、お仕事一直線なのに人望はある知宵みたいな人だったり、人として尊敬できる人もいれば単純に生き方がかっこいい人もいた。
「たくさんの人を知っていく中で、いっつもあたしが思ってたことがあるの」
ぱちくりと瞬きして、なんだろう?とかぽやっと考えていそうな恋人に微笑みかける。
照れくさそうに目を逸らす恋人、藍崎郁弥さん。あたしの大事な、大切な人。
「あなたよ」
「僕?」
戸惑った様子で自分の胸に手を当てる。その手を取って、空いている手にも彼の頬から下ろした手を伸ばして両の手を合わせる。指を絡め、しっかりと繋ぐ。
「そう、あなた。あたしの恋人、藍崎郁弥さん」
いつだってあなたは一緒にいてくれた。あなたは知らないんでしょうけど、わかっていないんでしょうけれど。どんなときでも、あなたはあたしの心に陽だまりを作ってくれていたんだから。
「どんな男の人と会っても、すぐにあなたの笑顔が頭に浮かぶの。郁弥さんと比べてこの人はどうなのかなって。そうすると、もうだめ。だって、あなた以上に好きと思える人なんていなかったんだから。あたしの心はね。郁弥さんっていう、あたしの大好きな一人の男の人でもういっぱいだったのよ」
「―――」
言葉を失う彼に、そっと口づけをする。
「好き。大好きよ。他の誰も比べものにならないくらい、郁弥さんが好き。あなた以上の人なんていないんだもの。他に好きな人なんてできるわけないじゃない」
瞳を潤ませる泣き虫な恋人と、もう一度触れるだけの口づけを交わす。
彼の口からこぼれた二文字の言葉は、湯口から注がれるお湯の音に紛れて流れていく。それでもしっかりとあたしの耳には届いていて、いじらしい恋人の愛言葉にほんのりと頬を緩めた。




