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55. お話は続く

「えー、こほん。また郁弥さんが欲求不満になっちゃったので、仕切り直しです」

「その前口上いる!?」

「いる」

「……はい。続きをどうぞ」


 不満そうな声が真後ろから聞こえてくる。

 裸のまま正面で抱き合っていると色々あやうかったので、気持ちを落ち着かせるためにも体勢を変えさせてもらった。浴槽の壁際からは離れ、ちょうど真ん中辺り。相手に背を向けてぴとりとくっつけて、恋人の身体を背もたれ代わりにする。

 安定はしていないものの、これがなかなか悪くない。ちょっと力をかけると沈み込んで、ゆうらんと押し返してくれる。デリケートな部分が当たることもなく、リラックスした気持ちが強まった。欠点は好きな人の顔が見えないこと。


「あたしが郁弥さんの声好きーって話よね?」

「だね」

「ふんふん。そうねー」


 さっき抱き合っているときにたくさん囁いてもらったから、今はこれ以上彼に何かを求めることはない。たっぷりと声の余韻が残っているもの。

 郁弥さんの声って、高音か低音かで言えば低音に入るのよ。基本的にこの人怒ったりしないから、いつも声も平静というか冷静というか、激しい抑揚があるわけじゃないっていうか。冷静沈着な低音ボイスがいっつも優しく語りかけてくる、みたいな。うん、これが的確かも。


「あなたの声、耳に優しいのよね。落ち着きあって聞いててリラックスするの。純粋にお話するのも好きだし、囁かれるのも大好き。あと、耳が近いときの吐息とかも結構好き。ちょっぴりドキドキして恥ずかしいけど、そのドキドキがまたいいのよ。あたしが郁弥さんを好きになった理由三つ目、四つ目?がこれね。わかった?」

「わかった」

「あとは……んー、これくらい?」


 表情とか性格とか顔とか声とか。大雑把に分けて見た目と中身。身体に関しては――なしなし。考えたら顔熱くなってきた。ただでさえさっきから何度も裸のお付き合いしてるんだから、そんなこと言わなくていいの。言わなくたって――あぁ、でも。


「ねえ、郁弥さん」

「ん?なに?」

「あたし、あなたの身体も愛してるから」

「なっ。そ、それはお礼を言った方が、いい?」

「ふふ、どっちでも。ただあたしが伝えたかっただけだから」


 "言わなくたっていい"。

 そう思って後悔はしたくない。それだけのことだもん。


「それより、他にも聞きたいことあったんじゃないの?」

「え?どうして?」

「ん、なんとなく」


 顔が見えないから本当になんとなく。

 これだけ"ちゃんと"話をするのは久しぶり。これまでになかった部分も話して、あたしの方からも改めていっぱい聞いて、まだ聞きたいこともある。それなら郁弥さんにだって聞きたいことがあっても不思議じゃない。だからまあ、なんとなく。


「はは、お見通しってことか。それじゃあ、うん。聞くけど、日結花ちゃんってなんで僕のこと好きになったの?」

「――ん?」


 なんかすごく聞き覚えのある質問がきた。ていうか、ついさっき答えたばかりの質問な気がする。


「それ、今答えなかった?」

「うん?あぁ、ごめん。言い方が悪かった。日結花ちゃんが僕を好きになったのってさ、君がまだ十七とかの頃だったでしょ?気を悪くしたらごめんね。十七ってまだ思春期と言ってもいい年齢だし、一種の気の迷いだったんじゃないかな」

「……それで?」


 言いたいことをぐっと呑み込み、最後まで話を聞くことに徹する。


「その頃から、もう三年か。よくずっと好きなままでいられたね。僕のだめなところも、嫌なところも、情けないところも、いっぱい見て知っただろうに。どうして?どうしてそんな好きでいられたの?他になんにもなかった僕と違って、君にはいろんな人が、いろんな世界が見えていたでしょ?」


 どうして僕"なんか"を、と。そんな声にならない言葉が聞こえてきた。自分を卑下してしまうのはこの人によくあることなので、今さら何も言うことはない。むしろ言葉にしなくなっただけ進歩したとも言える。それにちゃんとあたしが"今も"郁弥さんのことを好きでいるってわかっているところも良い。過程はともかく、結果として自分への好意を受け止めている証拠だから。だから、だからこそ、複雑でもある。


「どうしてずっと好きだった、か――」


 呟き、頭を傾けて天井を見上げる。温かな光源が目に眩しく、吹き抜けていく風が頬を撫でていった。

 後ろの恋人に頭を預けている今、考えていることが全部そのまま流れて通じちゃえばいいのにと思う。そんな夢想から目を背け、光の眩しさに瞼を下ろした。


「あなたが言った通り、あたしがあなたを、郁弥さんを相談相手に選んだのは気の迷いだったかもしれないわね。……正直、誰でもよかったのよ。あたしの話を聞いてくれて、あたしに親身になってくれて、あたしを優先してくれる人。そんな"都合のいい誰か"を求めていたの」

「……そこにたまたま」

「あなたが現れた。たぶん、普通に思春期に悩みを持つ子にはそんな都合のいい相手は現れないのよね。友達とか、家族とか、中には学校の先生とか。そういった相手にそれとなくぼかして相談して、結局解決はしないで時間だけが過ぎていって、大人になってそんな悩みもあったなぁとか、過去を振り返ったりして。自然と解消するものなのよ」

「そうなのかな……」

「郁弥さんはどうだった?」

「僕は解決とかはなかったかな。それ以上にほら、十五とか十七のときは両親が死んじゃったから」

「あ……ご、ごめんなさい」

「ふふ、いいよ。もう昔のことだからね」


 気遣わせちゃった。これはあたしがちゃんとしないと。優しく笑って返してくれた郁弥さんに申し訳ない。


「ええと、それで。偶然あたしにはあなたがいた。……あなたはあたしの理想だったわ。優しくて、大人で、あったかくて、あたしに心の底から向き合ってくれて。そのあとはさっき話した通り。あたしが好きになっちゃうのも仕方ないでしょう?」

「それは、うん」


 預けていた背中を離して、ゆらゆらとお湯に揺られながら恋人さんの前まで回る。

 どんな顔をしているかと思ったら、予想通り難しそうな顔で眉間にしわを寄せていた。


「郁弥さんはさ」

「うん」


 呼びかけると、揺れていた瞳が定まってあたしに向けられる。真剣な眼差し。


「あたしとの出会いがあたしの気まぐれだったとして、当時――ううん、あの頃から今にかけて自分以上にあたし、咲澄日結花を思いやれる人が他にいると思う?」

「そんなのいるわけないでしょ」

「ふふ、そうでしょ?なら別に気まぐれでも気の迷いでもなんでもいいじゃない。あたしを満足させられるような人はあなたしかいなかったんだから」

「――そっか」


 ぽつりと呟く目の前の恋人に、ゆったりと身を寄せて抱きしめる。


「自信持ちなさい。あなた以上にあたしのことばかり考えてる変な人、他にいるわけないんだから」


 耳元で囁く。あなたが一番だって。

 あたしへの想いだけは誰にも負けないって以前言ってくれたこと、ちゃんと覚えてるから。


「ありがとう」

「ふふ、どういたしまして」


 抱きしめ返してくる恋人の腕を感じてほっと息を吐きつつ、身体を預けてそのままじっと静かに過ごす。一分か二分か。いい感じに身体も温まってきたところで再度の休憩を入れようと声をかけた。

 二人で立ち上がり、空の見える雪の入ってこないぎりぎりの場所に足を置く。お風呂のお湯が流れ出したばかりだったからか、床の冷たさは感じず温度差の驚きはなかった。

 見上げても空は暗闇ばかり。薄っすらと雪を降らせる灰色の雲が見えたような気がしないでもない。

 今はもう少しだけ、何も話さずこのまま手を繋いでいたかった。

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