54. 好きの理由を伝えること2
ざぶざぶとお風呂に分け入り、壁際まで寄ったところで沈み込むようにゆっくりと腰を下ろす。
いつまでも正面で抱きついていると郁弥さんが大変そうだったので、さすがにどいてあげた。お風呂の中、横に並んで座る。熱いお湯が寒風でほどよく冷えた身体に心地いい。
露骨にほっとした様子を見せる恋人さんには後でまた同じことをしてあげたいと思う。何か感じ取ったのか、ふるりと震えてこちらを見てくる。にっこり笑顔をあげた。
「はぁ。ええと日結花ちゃん」
「なぁに」
「さっきの話の続き。君が僕を捨てようとする場合についての話を」
「ちょっと!人聞きの悪いこと言わないで。あたしがあなたを捨てるとか、なんかすごいあたしが傲慢な人みたいじゃない」
彼の言葉を遮って口早に伝えた。
「言葉の綾だよ。言葉の綾」
苦笑してさわさわと髪を撫でてくる。言い募ろうと思っても次第に気力がなくなっていった。頭がふわふわしてくる。
「んぅ、もういい。いいから続き話して」
「うん」
人間、時には諦めが肝心ってよく言うわよね。あたしも諦めちゃった。気持ちいいしあったかいし。
「どうするかなーと思ってさ。真面目に話を聞いて、第三者を交えてでもいいからまずはちゃんと話を聞くかなって」
「ん」
「理由を聞いて、僕に直せるところがあるなら直して、できることがあるならやって、全部全部やって、たくさん話して引き留めて。みっともなく泣くかもしれないな」
「……そ」
天井を見上げて、眩しそうに目を細めながら言ってくる。もしもの未来を考えて、自分がそこにいたらって、そんなことを考えているのだと思う。遠くを見据える横顔を見ていると、あたしにもこの人の気持ちがわかる気がした。
きっと、本当にそうなったときはあたしも同じことをするから。
「それでも止められないなら、泣きながら笑ってお別れするよ」
「あなたに、できるの?」
「どうかな」
わからないと首を振り、ゆらりと軽く身体を預けてきた。人としての体温と重みを感じる。
「でも、やるよ。人間、いつかは別れる時がくるんだ。それが離別か死別かの違いなだけで。執着して追いかけて、いつまでもみっともなく縋りついていたら相手を――君を不幸にしちゃう。それだけは許されない。ううん、許せないから。だから、泣きながら別れるんだ。日結花ちゃんの幸福を願って、未来を想って、君に幸あれ、なんて言ってね」
優しく、寂しく、そして弱弱しく。儚い笑顔だった。
「――世の中のカップルは、みんなあなたみたいに考えて過ごしているのかな」
ふとした疑問が口を衝いて出た。
あたしも彼と同じように、最後の最後まで泣きついてお別れすると思ったから。追いかけ回す云々は冗談半分だったし、相手が本気なら、もう仕方ないもん。諦めたくなくてもどうしようもないことって、世界にはいっぱいあるから。
あたしのお仕事、声者だってそう。生まれ持った資質がすべてで、それがなければなりたくてもなれない。こういうことは、きっとあたしが思っているよりもありふれているものなんだと思う。寂しいこと、だけれどね。
「どうだろうね。たった一人の人にこんなにも入れ込む人はそう多くはないと思うよ」
「ん、そうかも」
「相手に入れ込んだ上で、ちゃんと人として相手の幸福を願える人は案外少ないのかもね。みんなどこかで自分の心にセーブをかけて、別れても傷つかないように身を守っているのかもしれないよ」
「――人って、臆病な生き物だもん」
「ふふ、そうだね」
僕も、君も。と、形にしない想いが柔らかな笑みから伝わってくる。
手を繋ぎ、二人で天を仰ぎ見る。人工的な照明が温かくも眩しかった。
「日結花ちゃんさ」
「郁弥さんさー」
「お」
「あ」
しんみりした空気で一分くらいか過ごして、頭をお隣さんの肩に預けながら天井を見上げていたら思いついた。というよりかまだ質問があった。だから名前を呼んだのだけど、久しぶりにタイミングが被った気がする。
先を譲るか譲るまいか。毎回"そっちが先、こっちが先で"とかなんとかやるのも飽きたし、悩む。
「「……」」
無言で話を待っていたら同じことをされた。
どうしていつもこう、この人はあたしと同じことをしてくるのよ。
「はぁ」
「……なんかすごく理不尽なことを考えてない?」
「べっつにー。なんであたしと一緒になって喋らなくなるのよーとか考えてないし」
「言ってる。全部言葉にしちゃってるから」
「いい?郁弥さん。話の譲り合いもちゃんと相手の気配を読み取って考えないといけないんだからね?」
「へぃ」
「それで?あたしに何か用?」
面倒なやり取りはばっさり全部カットして、恋人にゆらゆら身体を揺らしてぶつけながら話を促した。
「あー、うん。最初の話なんだけどさ。日結花ちゃん聞いてきたじゃない?なんであたしのことすきなのー?って」
「ええ。聞いたわね」
とても嬉しい言葉をもらっちゃったやつね。
「それでさ。なんで君は僕のこと好きになったの?って聞きたくて」
「え?」
すごい今さらなことを聞かれた気がする。前にも話したけど、さっきの流れだと結構具体的に聞きたい、ってことかしら。
「最初から話した方がいいやつ?」
「うん」
「そ。わかったわ」
案の定。なら話しちゃいましょうか。そうは言っても、どこから話そうかな。
「えっと、最初にあたしが好きになったのは、あなたの表情だったと思う」
「表情?」
ふわりと浴槽の床を手で押して身体を動かす。軽く浮かんだまま緩くカーブを描くようにして恋人さんの前に座った。今回は対策していたのか、足は伸ばさず胡坐を作って座っていた。太ももの上に座ろうと思ったのに、ちょっぴり残念。
気を取り直して恋人の疑問に答えていく。
「そう、表情。あたしのことキラキラした目で見てきて、言葉一つ、お話少しでくるくる表情を変えるんだもの。しかもそれが演技とかじゃなくて、本気の本気で楽しそうに嬉しそうにしてるのがわかっちゃうから、そりゃあたしだって喋ってて楽しくなっちゃうわよ」
「あ、あはは。その節はご迷惑を」
「うふふ、いいのいいの。そのおかげで今があるんだから。迷惑だなんて思わないで?」
照れて目を伏せる恋人さんの頬が薄く色づいている。
そろそろと腕を伸ばして、遊ばせていた手を捕まえた。両手で指を組ませて絡ませて、ぎゅーっと恋人繋ぎを作る。一瞬動揺を見せるお相手に微笑むと、くすぐったそうにはにかんだ。可愛い。
「次は態度ね」
「態度って」
「性格とも言い換えられるかしら」
「性格、ねぇ」
なんとも胡散臭い目であたしを見てくる。心外な。自分の性格がどれほどおかしいかわかってないの?わかってないのよね、ええ、知ってるわ。
「郁弥さん、あたしに優しいでしょ?」
「え?うん。当たり前じゃないか。はは」
そういう意味じゃないってわかってはいるんだけど、乾いた笑いを聞かされると無性にイラッと来る。"何を言っているんだこの子は"みたいな、そのセリフ、そっくりそのまま返したい。
「あのね、普通は自分以上に他人を優先して優しくしたりなんかしないのよ?」
「そうだろうねー。でも日結花ちゃんは」
「特別、でしょ?」
「う、うん。よくご存知で」
先に言わせてもらった。
この人の何が悪いって、"普通"をちゃんとわかったうえであたしだけ特別扱いしてくるところ。何も知らずに優しさ向けてくるよりよっぽど質が悪い。泥沼みたいに引き込まれて抜け出せなくなっちゃうのよ。事実、今のあたしがその甘い毒の沼にどっぷり浸かっちゃってるわけだし。
「よく、優しい人は友達止まりとか、優しさが取柄の人は他に何もないとか聞くじゃない?」
「あー、うん。聞くね」
「そういうの一理あるとは思うけど、違うのよ」
「何が?」
「あたしが思うに、まず前提として"優しさ"があるのよ」
「……うん?」
あんまりよくわかってない顔。眉尻を下げて困ったさんな顔をする彼はとっても可愛い。好き。
話を進めましょう。
「人に優しくできるって素敵なことでしょう?」
「そうだね」
「優しくしていく中で、誰か好きな人ができたとしましょう。例えばあたし」
「うん」
「郁弥さん」
「はい」
「あたしのこと好きになったら、他の人と態度変わる?」
「変わるよ。とびっきりに優しくする」
「それよ」
「うん?」
即答に笑顔を返す。思った通りの言葉をありがとう。さすがあたしの恋人。わかってくれてる。まあ、だから好きになったっていうのもあるんだけど、それはそれとして。
「優しいのが悪いわけじゃないの。優しいのは素敵なことよ?よくないのは、優しいだけなこと」
「あぁ、そういう」
「わかった?」
「わかった」
こくこくと頷いている。ちゃんとわかってくれた様子。よかった、伝わって。
別に優しさが悪いわけじゃないのよね。優しいことが取柄だっていいのよ。でも、その優しさにだって幅がないとだめ。誰にでも優しいのは美徳だけれど、誰か一人に対しての優しさも持ち合わせておかないと、友達止まりとか優しいだけの人とか言われちゃう。
優しさが取柄なら、全力で優しくしなくちゃ。優しくして優しくして、どこまでも優しくして。もうこれ以上ないくらい極限まで優しくしちゃっていいのよ。ひたすら甘やかして、どろっどろの甘い沼にはまって抜け出せないくらいにしちゃえばいいの。この典型的な例が郁弥さんね。
あたしを特別に優しく甘やかして、他の人に対しても優しさは忘れず。
人によっては優しさに甘えて怠惰に腑抜けちゃうかもしれないけど、それは個人の問題だからなんとも言えない。見限るか、奮起させるか。
でも、よく考えたらひたすら甘やかしておいていきなり突き放すってすっごくひどい人みたいね。甘えきりだらけきりになった側が悪いのはわかっているんだけど、なんとなくね。
「郁弥さんのとびきり甘い優しさにメロメロの日結花ちゃんでしたー。はいこれ好きになった点二個目ね」
「う、ん。なんか言葉にされるとすごい恥ずかしいな。日結花ちゃんメロメロなの?」
「メロメロよー?ほらほらー」
「ちょっ、すり寄って来ないで。せっかくいい感じの距離感だったのにぃぃぃい!」
「ぎゅー!」
なにやらうろたえている恋人を無視して正面から抱きついた。
お風呂の熱で火照った身体から熱が移ってくるよう。密着した胸にドキドキと心音が伝わってきて、鼓動の速さがよくわかる。郁弥さん、かなりドキドキしてるみたい。
「ふふ、このドキドキはお風呂のせい?それともあたしのせい?」
「ど、どっちもかなー、なんて」
「んふ、まあいいけどね。性格の次に好きになったのはどこだったかなー」
彼の肩に顎を乗せ、ぐりぐりと頬を首筋に押し付けながら考える。
表情の豊かさに惹かれ、内面の温かさに惹かれ、それから――。
「声と顔?」
「おっと、そう来る?」
「うん。匂いとか手とかもあるんだけど、それって長く付き合うようになってから思ったことだと思うし、昔のあたしだったらその二つかなーって」
「声と顔かぁ。僕、そんな顔立ち整ってないよね?声も普通じゃない?」
身体の距離を離してお互いの顔が見える位置まで下がる。肩に手をかければちょうどよくバランスが取れた。
自己評価の低い恋人の顔をじーっと見つめ、頷きながら口を開く。
「顔はたしかにそうかもしれないわね。小顔じゃないし丸いし。あとごついし」
「岩男と呼んでくれ」
「やだ。ていうか岩男なのにお肌つるつるじゃないの。ぷにぷにつるつるって、岩じゃなくて土でしょ」
「ぬ、なら土男と呼んでくれ」
「はいはい。顔立ち整ってなくても、あたしは好きになったのよ。愛嬌あって笑顔可愛くて、ちょこっと目尻垂れてるところとか、えくぼできるところとか。見ていて飽きない表情とかもね。テレビで見る顔の良いかっこいい人よりも、目の前にいるおおらかなオーラ全開の顔してる人の方がいいの。うん、やっぱり郁弥さんかっこいいわよ」
「そ、それはありがとう」
「ふふ、あと声ね。声は――少し喋ってもらえる?」
正面で向かい合って座っていると、背の高さの違いであたしが少し見上げる形になる。
恋人の肩に置いていた手を滑らせて、左手は二の腕へ、右手はつつーっと下ろして手を繋いだ。ぎゅっと目をつむってなにやら耐えていた郁弥さんが可愛かった。
「……こほん、ひゆかちゃーん?」
「なぁに?」
「ん?」
「んぅ?」
恋人感多めに甘く呼びかけられた。結構キュンとくる。好き。抱きつきたい。
「あー、日結花ちゃん?」
「なになに?」
困った顔も可愛いのね。ちゅーでもしてほしいのかしら。お願いしてくれればいつでもしてあげるわよ?
「いや、喋ってーって言われたから名前呼んだんだけど」
「あっ」
「……忘れてた?」
「わ、忘れてたっ」
「今の一瞬で?」
「だ、だってあたしの名前呼ぶから……」
すごい夢心地になって完全に忘れちゃってた。自分のことながら恥ずかしい。
「ふふ、そっかー。可愛いなぁ」
「あ……えへへ」
「日結花ちゃんあったかいね」
「郁弥さんも、あったかい」
ふわりと柔らかく抱きしめられて、熱いくらいの体温が肌を通して直接伝わってくる。考え事とかまた全部なくなっちゃうような心地よさに全身の力が抜けていく。
お話とかもうどうでもいいから、あとはずっとこのままでいたいな。




