50. 好きと、愛してる。
「僕が日結花ちゃんに出会ったのは、雪の降る日だった。そう、まるであの淡雪のようにしんしんと――」
「ねえ、誰に言ってるの?あなたの言う日結花ちゃんはここにいるんだけど」
「そういえばそうだったね」
からりと笑う恋人にむぅっと唇をとがらせる。
今はお風呂場で見つめ合って、ちょうどいい距離感で手を繋いだり離したりしていた。繋いでいるというよりかは手のひらを合わせたりする手遊びをしている感じだったので、ぴちゃぴちゃと指を弾いてお湯を飛ばした。狙いよく彼の顔に当たる。
「わ、濡れる。髪が濡れちゃうって」
「ふふ、もう濡れてるんだしいいじゃない。それよりお話の続き」
手で防ごうとするのを見ながら続きを催促する。それっぽい作り話も嫌いじゃないけれど、最初からそうだといつまで経っても話が終わらない。
「はいはい。ええと、僕が日結花ちゃんを知ったのは……なんでだったかな。確かネットラジオとかラジオのCMとかが始まりだったと思う」
「ふんふん。なんかそんなの聞いた覚えあるかも。CMの方じゃなかった?」
「そうだったかな。そうだったかも。内容は覚えてないけど、たぶんそのラジオコマーシャルで知ったんだよね。聞き覚えある声だなぁって」
遠い目をする恋人さんの両頬に手を添えて、強引にこちらを見てもらう。話の最中に感傷的になるのはこの人によくあることだから、その辺気を逸らしてあげないといけない。
過去に気持ちが行きすぎちゃっても、今を見てもらえれば大丈夫だから。そんな想いを込めて微笑んだら軽い苦笑が返ってきた。口の形だけでありがとうと示してくる。いったん手は離してまた手遊びに戻させてもらった。
「当時の僕は家族もいなければ友達もいない。親類縁者無しの天涯孤独の身だったからね。自暴自棄というか、破滅願望があったというか……。そんな僕の人生最後の未練が」
「あたしでしょ?」
「うん。そう、君だ。日結花ちゃん。ううん、咲澄日結花っていう一人の女の子だった」
遊ばせていた手が繋がって、指と指の隙間が埋まる。ぴたりと合わさった手の間には、お風呂のお湯一滴すら入らない。
「両親が死んだとき、運命みたいに僕の前に現れた女の子。僕の心を救ってくれた女の子。それが君だった。日結花ちゃんの名前を、姿を知ったときに僕がどう思ったかわかる?」
「んー」
どんな感じかしら。なんとなく想像はつくけど、やっぱり。
「"恩返し"?」
「あはは、うん。正解」
笑って、そりゃあわかるかと呟いた。当然、と返しながらも一瞬彼が垣間見せた寂し気な表情が脳裏に焼き付く。
「君に何度か会っていく中で思っていたのはずっと恩返しとかそんなことばかりで、でもそれ以上に"そう考えること"で何も考えないようにしていた、っていうのは伝えたよね」
「ん」
「あの頃は余裕がないからそこまで頭が回らなかったけど、今思えばなかなか本当に自分のことしか考えてなかったよ。ただ……」
「……ただ?」
止まった言葉を繰り返すと、水面に揺れていた瞳が上がって重なる。照れたように空いている手で頬をかき、優しく笑った。
「僕の自分勝手が君の助けになっていたと思ったら、やっぱり嬉しくてさ」
あんまり見せないような、あたしでもそう頻繫に見ないような、そんな笑み。温かくて柔らかくて、幸福を嚙み締めているような微笑にひっそりとはにかみ色が混じっている。
とても、目を惹かれる笑顔だった。こんな表情向けられたら一目惚れでもしちゃいそうな、この人のことが既に大好きなあたしでさえ言葉に詰まる、それくらい幸せに満ちた顔をしていた。
「自分のことばかりな僕だったけど、内心がどうあれ君の助けになったことは事実だったから。だから、それが嬉しかった。そうだね。たぶん、あの頃の僕の気持ちは――歪んではいたけれど、愛情だったんだと思う」
「あいじょう……」
たしかめるように単語を舌の上で転がす。じっと目の前の温かな瞳を見つめながら、胸の内で言葉を繰り返していく。
あいじょう、愛情。
単純な好意とは違う、恋愛的にはもっと上に位置しているもの。家族愛とか兄弟愛とか、いろんな形があるけれど、それを恋愛という枠に当てはめるとすごく高いものになる。それこそ、そう簡単に口に出さないくらいには。でも、この人が言ってるのはあたしの考える"愛情"とは別物なんだと思う。なんとなく、だけれど。
「日結花ちゃんはさ。愛情ってどんなものだと思う?」
「え?愛情について?」
「うん」
どんなものって言われても。
あんまり想像がつかなくて、困った顔そのままに恋人さんへ小首を傾げた。ゆらりと揺れて湯気を含んだ髪が頬に張り付く。
「ふふ、そう難しく考えなくていいよ。君にとっての愛情をそのまま教えてくれればいいだけだから」
「そ、そう?」
頬にくっついた髪を手でのけてくれながら言う。触れた手が熱く、ちょっぴりくすぐったい。
あたしにとってのでいいと言われたので、さっき考えたことを伝える。恋愛の究極系とかそんな感じの話。
「なるほど。割と多くの人が日結花ちゃんと同じ考え方かもしれないね。というより、恋から昇華した想いなら普通はそうなるのが当たり前かな。今の僕も同じようなものだし」
「ふ、ふーん。その、相手は……」
「もちろん日結花ちゃんだよ」
「え、えへへ。ありがと」
照れる。
添えられた手に自分のそれを重ねた。あったかくて、見つめ合った瞳から優しさを感じる。
「以前の僕が君に向けていた愛情はね。世の中で言う無償の愛だったんだ」
「……んぅ、そうなの?」
ふわふわと頬を撫でられて、言っていることがよくわからなくて戸惑いの声が漏れる。
"無償の愛"という言葉は知っている。意味も理解はしている、と思う。でもそれが彼の、郁弥さんがあたしに向けたものだったかどうかはよくわからない。
「たぶんだけどね。表面上だけ見れば、僕は君に何も望んでいなかったから。偶然話す機会があって、親しくなる時間もあって、相談を受けることもあって。だけど、僕は君に何も望んでいなかった。日結花ちゃんが幸せであればそれでよかった。僕自身の願いは、君が幸福で眩い太陽のまま健やかに生きていってほしいというものだったから。見返りなんていらない。ううん、日結花ちゃんが幸せであることが僕にとっての見返りだった。自己犠牲と無償の愛は繋がっていると言うけれど、当時の僕は自分なんてどうでもよかったから。依存できるものを探して、見つけたのが君で。歪で到底綺麗とは言えないけれど、それでも形としては無償の愛を表していたと思うんだ」
「……ん」
たしかに、彼が言っていることは間違っていない。
自分は二の次、まずは相手のこと。あたしに何も求めず、尽力してもお返しなんて何もいらないと微笑む。それはきっと、まさしく無償の愛そのもの。心の中で何を思っていようと、実際にそれでいいって満足しちゃうんだから、否定なんてできない。
でも、あたしは少し悲しい。
だって、そこに郁弥さんの幸福はないから。いくら心を誤魔化しても、いつかは限界がくるはず。あたしが幸せになって、幸福を嚙み締めて、生を謳歌していく中であなたはどうなるの?ねえ、郁弥さん。あたしから離れようとしたあなたは、どうなっちゃうの。
「――あなたは。郁弥さんはどうするつもりだったの?」
「それは、僕が君に尽くし続けたらってこと?」
「ううん。あなたがもしあのときあたしから離れていたら」
「――そっちか」
ふ、っと固まってあたしの頬に添えられていた手が落ちる。ぽちゃりと音を立てて湯に沈んでいく手が、まるで彼の内面を表しているようで胸が痛む。そっと、繋いでいた左手を解いて両手で彼の手を包み込んだ。
伏せていた目が上がり、かすかに瞳に光が差す。苦笑が見え、ごめんとありがとうの二つの言葉が小さく聞こえた。返事はしない。今のあたしにはこれだけしかできなかったから。
「どうなってたんだろうね。あれから日結花ちゃんも声者として人気が出て、ラジオとか雑誌とかテレビとか。もちろんインターネットも。何らかのメディア媒体で見る機会はあっただろうし、たまに見ることくらいはあったと思うよ」
「たまにだけ?」
「うん。恩返しに一区切りがついて満足したら……僕は抜け殻にでもなっていただろうから。逃げられない現実を前にして、どこか遠くへ行っていたかも。良い言い方をすれば自分探し。悪い言い方をすれば自暴自棄。海外にでも行って、ハリウッド映画さながらの犯罪に巻き込まれて運良く生き残ったり怪我したり。いつの間にか母なる海に還っていたんじゃないかな」
「……それって、死んじゃうってこと?」
「……そうなるね」
ちくりと、胸の奥が刺されたように痛む。ごく当たり前のように、それが本当に"あったかもしれない未来"だって彼が本気で思っているからこそ余計に心が痛い。
気まずそうに目が逸らされる。全部仮の話で、今じゃありえないってわかっていることなのに、それなのに、どうしてか我慢ができなかった。
ばしゃりと大きく音を立て、飛び込むように抱きついた。抱きついて抱き寄せて、目の前の恋人を離さず肌を合わせる。体温と鼓動と、こわばる身体と息遣いと。全身で郁弥さんというあたしの大事な恋人を感じる。
「ばか。ばかばか。勝手にいなくなっちゃやだから。ずっと傍にいてくれないとだめだから。一人で……一人で死んじゃうなんて許さないんだから」
どうしてか、本当に自分でもよくわからないのに視界が滲む。じくじくと胸が痛んで、声が震えた。
「うん。大丈夫だよ。今の僕は一人でいなくなったりしないから。君を置いてどこかに行ったりしないから。ちゃんとここにいるから、大丈夫。大丈夫」
ぐすりと鼻が鳴る。涙がこぼれそうで、ぎゅぅっと目をつむると目の端から雫がこぼれ落ちていく。抱きしめられて、頭を撫でられて、大丈夫と囁かれて。ひどくちぐはぐな心をゆっくり整理する。
「…………って」
「うん?なに?」
「……きって……言って」
「ごめん、もうちょっとだけ」
「好きって……言って」
「好き」
「…………もう一回」
「好き」
「……もっと」
「好き」
「もっと抱きしめて」
「好きだよ」
「もう、離さないで」
「離さない。好きだ。日結花ちゃんが好き」
何度も何度も、繰り返し言葉をねだる。
愛してるじゃない、好きの二文字。強く強く抱きしめてもらって、抱きしめ返して。自分のと彼の、二人分の鼓動を感じる。生きていることを、ちゃんとここにいてくれることを感じていないと安心できないから。また、気づかないうちに涙がこぼれてしまいそうだったから。
こんな"かもしれない"話で泣きそうになる自分の弱さに嫌気がさす。でも本当に、そんな"かもしれない"仮定が現実じゃなくてよかったって、心底ほっとした。




