49. お風呂休憩とお話
ぼんやりとお湯が流れる音を聞きながら、お風呂の熱さと左半身から伝わってくる熱とを感じるままいる。まだきっと五分も経っていない。もっとこのままでいたいという気持ちはあっても、お風呂の温度には勝てない。くらりくらりふらふらと。熱に浮かされたような、ふわふわとしてくるような、のぼせる一歩手前な感覚。
「うぅーきゅうけいー」
「うん。少し出る?」
「んぅー」
こくりと頷いて、隣に座っていた恋人の首に腕をひっかける。むぎゅむぎゅと抱っこしてもらうようにひっついて、彼が立ち上がるのに合わせてコアラのように抱きついた。
すごい変な声が聞こえたような気もするけど、今はそれどころじゃないので無言で恋人の首に顔を埋めた。
息を吸うと硫黄の香りが鼻をくすぐる。人肌の温かさにじっとしていると、触れた肌から相手の心臓の音がこちらまで届いてきた。とくとくとくと、鼓動が早いのはお風呂に入っていたからか、いきなり寒風を浴びているからか、それとも……。
目を閉じていたけれど、ぽすりという振動で彼が椅子に座ったことはわかった。あたしに離れてとも言わず、ただ背を優しく撫でてくれている。
「――どかなくていいの?」
少しの間を置いて、ぼんやりした頭が落ち着いてきたところで聞いた。今は彼の太ももに腰かけているので、たぶん男の人からしたら思うところが色々あると思う。あたしは頭の中ふわふわしているし、わかっていても特に気にはならない。思っても郁弥さんあったかいなぁくらい。あったかくて、いっぱいドキドキしてて、それでも何も言わないでいてくれたから。だから一応、このままでいいか聞いておいた。
「僕はこのままでもいいよ」
「すっごくドキドキしてるのに?」
「……うん。してるのに」
「なら、あたしもこのままでいい」
「……そっか」
「ん」
それだけ聞いて、なんとなく話をする気分でもなくなったので目を閉じた。
ぎゅぅっと、これまで以上に強く抱きしめて、同じように返ってくる抱擁に口元を緩めて、恋人の首筋に顔を伏せた。徐々に穏やかになっていく心臓の音が手に取るようにわかる。手も足も、胸もお腹も。生まれたままの姿で抱き合っていると、相手が生きていることがはっきりと伝わってきて気持ちが落ち着く。安心する。
もっと恥ずかしいものかと思っていたけれど、何も考えないで体温とか鼓動とかだけを感じていればそう動揺したりしなかった。服を着ているときと同じ、ううん。それ以上に心があったかくなる。
そのまま数分むぎゅむぎゅとしていたら、徐々に背中が冷たくなってきた。考えてみれば当然で、お湯で濡れてそのまま拭かずに冬の外気で冷やされたら寒くもなる。雪だらけの冬風が冷たくないわけない。時間的にもう夜だし、そうでなくたって雪が降ってるだけで体感温度がマイナスいっていてもおかしくない。そこに来て裸となれば、言うまでもなく。
「うー、郁弥さんさむいー」
「ええ……。僕はまだ全然平気なんだけど」
「それはあなたがあたしを湯たんぽ代わりに抱っこしてるからでしょ?」
あたしだって身体の前側なら十分あったかいもん。
ぐいっと手に力を込めて密着していた身体を離す。恋人の肩に両手を置き、正面から向き合う形を取った。いつもと違って、少しだけ視線が高い。恋人を見下ろすような視界も悪くないと思う。いつもこんな風にあたしのこと見てるんだと思うと、ちょっとした満足感が出てきた。
「そう、かも。日結花ちゃんあったかいし」
「そうでしょ?だからほら、お風呂連れてってちょうだい」
「このまま?」
「うん、このまま」
「仕方ないお姫様だなぁ」
「えへへー、あたし、あなたのお姫様でよかったわ」
それは光栄だよ、なんて言いながら立ち上がってお風呂に連れていってくれた。
ゆっくりとお風呂に沈んでいくと、冷えた背中が心地よさに震える。馴染むまで数十秒そのままの体勢でいて、ようやくとばかりに恋人さんの身体からどいた。
「ねー郁弥さーん」
「なんだい」
「郁弥さんってさ」
「うん」
「性欲あるの?」
「んぐ……けほ……う、喉に空気が詰まった。いきなり何を言うのさ」
「なにって、だってさっきあれだけ裸で抱き合ってたのにまったく反応しなかったし。あ、でも洗いっこしたときはちゃんとしてたわね」
「いや……うん。なんていうか、言ってることは間違ってないんだけど、話が直球過ぎて困る。ノーコメントは――」
「だめ」
「――そうだよねぇ」
脱力してふにゃりと姿勢が崩れる。こちらに寄りかかってきたせいで一瞬沈みそうになった。あぶない。髪の毛びしょびしょになっちゃうところだった。
体勢を整えて、お隣さんが続きを話すのを待つ。
「答えとしては、そうだなぁ。日結花ちゃんふわふわしてたし、元気になってほしいなぁって思ってたからかな。えっちなこと考えないように意識してたのもあるかもね」
「ふーん……。あたしとはちょっと違うのね」
「そうなんだ。日結花ちゃんは何考えてたの?」
「あたしは郁弥さんあったかいなーとか郁弥さん生きてるんだなーとか。ここにいてくれて嬉しいなーって、そんな感じのこと考えてた」
「あはは、嬉しいこと言ってくれるね。僕はちゃんと一緒にいるからね。安心して」
「ん、さっきはそれですっごく安心してた。寒くなかったら眠っちゃってたかもしれないくらい」
一緒にいて安心できるって、異性として大事な要素だとか聞いたことがある。その点、この人は完璧。ドキドキはさせられたりはするけど、それ以上に気持ちが落ち着くし安心するから。
「さすがに寝られたら困っちゃうな。ええと、ところで日結花ちゃん」
「なにー?」
「さっき、これまでなんでえっちな話してこなかったのかについて色々話したでしょ?」
「うん」
「言い忘れてたことが一個あって、それを言おうかと」
「へー、いいわよ。聞いてあげる」
恋人になってからも自然と避けてきた話題。
理由は相手に溺れないためとか変化が怖かったとかそういうものだった。色々話して解決っぽい解決はしたけれど、これでまた重い理由だったらちょっと面倒くさいかも。まあ、その面倒くさいところも郁弥さんらしいし、広い心で受け止めて抱き留めて抱きしめて離れないようにしてあげましょうか。
特に姿勢は変えず、横並びのままお風呂のお湯を指でちゃぷちゃぷしながら耳を傾ける。
「別に大した理由じゃなくて、ただ普通に日結花ちゃんのこと大事にしたいからってだけではあるんだけど……」
ぴっと指が止まった。
たしかに、言われたことは大したものじゃない。複雑でもないし難しくもない。ごく当たり前で、それこそ定番とも言ってしまえそうな理由。"大事にしたいから"。わかりやすく単純な理由。そんな理由ではあるけれど――そんな理由だからこそ、きっと、今こんなにもあたしは嬉しくてたまらないんだと思う。
「――ありがとう」
ぐっと気持ちを抑えて伝えたのは一言だけ。いつもの緩いお礼とは違って、今は深く気持ちを込めてお礼を言った。それだけ、それだけ嬉しかったから。
わかっていたし、知っていた。大事にされているって、大切にされているって、彼の言葉一つ、表情一つ、行動一つで気持ちが伝わってくるから、ちゃんと身に染みてわかってはいた。それでも、やっぱり直接口にして伝えてもらうと違う。わかっていても、知っていても、嬉しくて嬉しくて――愛おしさで胸がいっぱいになる。
「え、なんで?」
「ふふ、なんでも」
するりと手を動かして、お湯の中に沈んでいた手を掴む。身じろぎする恋人の手に指を絡め、ぎゅっと結んだ。
顔は見ないし答えもあげない。この気持ちは大事に大切にしていくから。少しずつ、少しずつ同じ気持ちを持ってもらえるように伝えていこうと思う。大事にされる分、大事にしてあげなくっちゃ。
「それより郁弥さん」
「うん?うん、なに?」
あたしのお礼の意味でも考えていたのか茫洋とした声が届く。それでもすぐに切り替えたのか、二言目には声に張りがあった。
「郁弥さんって、なんでそんなあたしのこと好きになったの?」
何回か尋ねてはいるけれど、なんとなくまた聞きたくなった。大事にしたいだなんて言われちゃったからかもしれない。
「え?うーん。前にも話したと思うけど、最初は別に好きじゃなかったよ?」
「ええ、そう――ん?あれ、そ、そうだったの?」
「うん」
"うん"じゃないから。気軽に頷かれてしまって、すぐに彼の隣から正面に回る。伸ばした足を開いてもらって、その間に座った。姿勢はさすがにちょっと際どいので足を伸ばしたりせず、ぺたりと女の子座り。
どうでもいいけど、この座り方って骨盤の形がどうとかで男の人はできない人多いらしいわね。
「す、好きじゃなかったの?」
「うん」
「なんで普通に頷くのよー!」
「いひゃい、ひっはらないへ!」
「ふん」
「痛いです」
「お湯につければいいんじゃない?」
「あ、そうする」
ぱしゃぱしゃと両手で掬ったお湯を頬につけていく。何回か繰り返して満足したのか、微妙に赤くなった顔で笑顔を見せてきた。
頬をつまんだ力は強くなかったし、これ、熱いお湯であったまって顔赤くなったってことよね。ほんとにすぐ赤くなっちゃうんだから。可愛い人。
「それで?好きじゃなかったなら尚更なんであたしのことこんな大事にしてくれるの?」
「うん?……あぁ、なるほど」
「な、なに?」
「ふふ、どうしていきなり聞いてきたのかなと思ったんだけど、それが気になってたんだね」
「にゃっ!?」
なんかよくわかんないけど突然ばれた!うぐぐ、笑顔が、笑顔が眩しい。湯気に紛れて見えなく――なるよりむしろ鮮明に見えちゃう。そんな意識してなかったせいか、無意識だったからか、言い当てられたのが無性に恥ずかしい。照れる。
「うん、そうだね。どうせなら久しぶりに最初から順を追って話そうか」
「え、ええ。おねがい」
動揺をどうにか抑えるあたしとは対照的に、にこやかに微笑んで話を始めようとする。
「あ、その前に日結花ちゃん。ゆだったりしてない?」
「ん、うん。それは平気」
「よかった。じゃあまず、僕が日結花ちゃんを別に好きじゃなかったときのことから」
「待って」
「え、うん。なに?」
「別にそれが本当だったとしても、あたしのこと好きじゃなかったとか言わないで。……その、寂しくなるから」
ふいっとそっぽを向いて伝えた。事実だとしても、直接大好きな人の口からそう言われると胸がきゅぅってなっちゃう。あぁもう、頬が熱い。
「――まったく」
「なに?あたしはひゃぅっ」
きゅ、急に抱きしめられたっ。今はだめ、意識しちゃってるから。すっごく郁弥さんのこと意識しちゃってるからぁ!!
「僕の恋人は本当に可愛いなぁ。どれだけ人を惚れさせれば気が済むんだ。だからもっと大事にしたくなっちゃうんだよ……」
「そ、そんなことあたしに言われたって」
「うん。これからその話をしよう。よし満足した」
「あっ……」
……人って、難儀な生き物よね。急に抱きしめられたら驚いて恥ずかしくて嬉しくていろんな気持ちがない交ぜになるのに、離れたら離れたで寂しくて名残惜しくなっちゃうんだから。業が深いものよ。
「……えい!」
「わぷ。か、顔にお湯かけるのは卑怯じゃない!?」
「あなたが乙女心を弄んだから悪いのよ?」
「なるほど。それは僕のせいかもしれない」
「……そこで納得しちゃうのもおかしいと思うけれど、もういいわ。軽くハグしてくれたら許してあげる」
「任せて」
そんなわけで、いつものように意味不明なやり取りを経てぎゅうーってしてもらった。抱きしめ返せば幸福度も上がって他のことなんてどうでもよくなる。あたしも満足した!
「それじゃあ、何から話そう」
言葉を止めて思考を巡らせる恋人を見ながら、そっと天井を仰ぎ見る。
ふとした瞬間に冷たい風が吹き付けてきて、徐々に熱くなる身体を冷やしていく。
なかなか本題が進まないあたしたちの会話はいつも通りで、これからまだまだ続きそうだなーと、そんなことを思う。熱いお風呂に入ったり出たりを何度も繰り返して毎回抱き上げられるのを想像したら、笑いそうになった。
一時間くらいはお風呂を占拠してしまいそうな予感がして、他のお客さんにちょっとだけ申し訳なさを感じる。
でもまあ、お風呂はずっと空いているわけだし、これくらいのわがままは許してもらえるわよね。一時間なら他の人だって入ったりしてる人いるわよ。
考え事をまとめたところで改めて恋人に目を移す。にこりと微笑んできたので、微笑み返した。ついでに手を伸ばして手のひらを合わせて二人で手遊びをする。
とりあえず今は、二人っきりの時間を目一杯楽しむことにした。




