44. 話したくなかった理由、話したくなった理由
「どうして、しなかったんだろう」
再度聞こえた声が、まるであたしに問いかけているかのようで。薄明かりに照らされる横顔を見上げた。視線が交わってふわりと微笑まれる。
「……あなたは、どうしてだと思う?」
気づいたら尋ねていた。外の街を見つめる瞳の先に何があるのか。ただ雪と光と街を眺めているだけじゃないことしか、今のあたしにはわからない。だから聞いた。聞かないとわからないこともいっぱいあるって、今のあたしはちゃんと知っているから。
「いくつか理由はあると思うよ」
ちらりとこちらに視線を投げて続ける。
「一つは、溺れないためかな」
これは僕の考えだけどね、と前置きして話をしていく。口を挟もうにも話しかけるタイミングがなく、少しの間聞きに徹することしかできなかった。
「なんというか、まあ日結花ちゃんが若かったからっていうのもあるんだけど……。僕ってさ、君に依存してるよね。それがどれだけかはわからないけど、一般的な恋人同士よりも圧倒的に精神的な面では依存してると思うんだよ。好きだし、大好きだし、日結花ちゃんのためならいくらだって命くらいかけられる。別に比喩表現じゃなくて、僕が僕自身の命に頓着してないから。というより、僕の価値より日結花ちゃんの価値の方が上というか。表現が難しいけど、そんな感じ」
「……ん」
「もう既に、僕は君に溺れているようなものなんだよ。精神的な面だけでこの有り様なんだから、肉体的にも交わったらどれだけ落ちちゃうことか。人の欲望に際限はないと言うから。一度経験しちゃうと、どこまでも求めちゃうんじゃないかと思って怖かった。あぁ、うん。そうだね。怖かったんだ」
すごく真面目な話をしている。怖がりなのは前から変わらないまま、優しくて臆病で後ろ向きな郁弥さん。そういうことをちゃんと話してくれるようになったのはいいけれど、そんな彼のアンニュイな顔を見てキュンキュンしてるあたしはだめかもしれない。
「同じような理由で、関係が変わるのが怖かったのもあると思う。今が幸せだから、何か間違えて壊れたりしないかがすごく怖い。ずっとそうだよ。ずっとずっと……。もう後戻りできないくらいに日結花ちゃんを好きになっちゃったから、その分だけ未来が怖いよ」
"こんな自分本位な僕が僕はあんまり好きじゃないんだ"と、そう付け足して儚げに笑った。
「――あたしは」
波に揺れる心をどうにか治めて、ようやくと言葉を紡ぐ。
「あたしは、あなたが好きよ」
どれだけ自分が好きじゃなくたって、そんなあなたを好きな人はいるのよ。好きで好きでどうしようもないくらい大好きな人が、ここにいるわ。
「ねえ」
「うん」
無言で視線を合わせてきた彼に呼びかける。
「あたしと恋人になったこと、後悔してる?」
「ううん。全然」
「そ。恋人になったから怖いの大きくなったのに?」
「うん。それでも後悔はしてない」
「ん、知ってた」
「そっか」
笑顔の色は変わらず、それでもそこだけははっきりと断言してきた。
後悔していないのに、ううん、後悔していないからこそ、よね。
「ねえ、郁弥さん」
「うん……ぁ」
名前を呼んで、そっと彼の頭を胸元に抱き寄せた。服を緩めて浴衣の内側、キャミソール越しに心臓の近くを押し当てる。
「聞こえる?」
とくりとくりと、自分でもわかるくらいに高鳴っている心臓の音。
「聞こえるよ」
くぐもった声が聞こえてくる。吐く息と声が肌に伝わってドキリと心臓が跳ねる。彼に全部伝わってることを頭の奥に追いやって声を出した。
「あたしが前に言ったこと、覚えてる?」
「……どんな話かな」
たくさんありすぎてわからないと言う恋人の声を聞いて、緩く笑う。それだけたくさんの話をしてきたと思うと、胸の奥が温かくなった。
「臆病でもいいのよって話」
「あぁ、うん。覚えてる」
抵抗せず身体を預けてくる郁弥さんを抱きしめながら、彼の頭に頬を預けて話を続ける。ふわふわとした髪が揺れてくすぐったい。
「臆病で怖がり屋なだめだめ郁弥さんでも、あたしは好きなの。あなただって、あたしが本当はすっごく嫉妬ばっかりで独占欲いっぱいでも嫌いにならないでしょ?」
「……うん。好きだよ」
「女の人と話したり会ったりしたときは全部全部話してほしいって思っちゃうこともあるのよ。これ聞いても、まだあたしのこと好き?」
「好きだよ」
「あたしも同じ。郁弥さんが上から下まで完璧だなんて思ったことないわ。かっこいいところも可愛いところも、だめなところも。ちょっぴり面倒くさいって思うところだって。全部ひっくるめて好きなのよ」
ぎゅっと強く抱きしめて、それから少し待って離す。顔をあげた恋人の顔には、いろんな色が見えた。
「それにね。あたしだって、怖いんだから」
左手は彼の手と繋いで、右手は彼の頬に当てて。触れた頬は燃えるように熱かった。
「日結花ちゃんも?」
驚いたように表情を変える恋人に、今まで伝えたようで伝えていなかったことを話していく。握り合った手が形を変えて、隙間を埋めるように指と指が絡まった。
「ん。臆病なのはあなただけじゃないわよ。あたしたち、恋人になってちょうど一年くらいでしょ?やりたいこといっぱいやって、たくさん甘えたしたくさん甘えられたし。ちょっと前に婚約して指輪もらっちゃったし……今はつけてないけど」
「そうだね。一年、だね……指輪はまあ、好きなときにつけてもらえればいいよ。旅行で無くしたら困るしさ」
「ふふ、ええ。そうさせてもらうわ。それ、で。ええと……あたしもね、郁弥さんと同じなの。嫌われたらどうしようとか、失敗しちゃったらどうしようとか、今でも十分幸せだからこのままでいたい、とか」
何か言おうとしてくる恋人を目で制して首を振った。この人はきっと、あたしを嫌いになることなんてないとか言おうとしてたんだと思う。そんなのわかってる。どれだけ郁弥さんがあたしのこと好きなのかは、好かれてるあたしが一番よくわかってる。でも、それでも。
「あなたが何を言っても、不安は消えないのよ。人の心は見えないし、人の心は聞けないじゃない」
あたしの言いたいことがわかったのか、瞳が伏せられる。寂しげな色を宿した瞳が遠く感じる。
「多かれ少なかれ、きっとこれはみんなが持っているものなんだと思う。それをどれくらい真剣に受け止めるかの違いだけで、あたしもあなたも、重く受け止めすぎちゃってるのよ」
「……そうかもしれないね」
諦め。あたしも彼も、これに関してはどうしようもない。今さら変えられないことだから。
「でも――」
顔をあげた恋人の表情は、やっぱり寂しげだった。そんな顔を変えたくて、繋いだ手を解いて、頬に当てた手も外して、身体を浮かしてふわりと飛び込むように抱きしめた。
「――でも、こうして、話すことはできるわ」
心の声は聞けないし、心の中は覗けない。だからって耳に触れる言葉が全部嘘なわけない。数え切れないくらいの本当の中に、もしかしたら小さな嘘があるかもしれない。それだって、言葉を重ねて、気持ちを連ねていけば笑い合えるくらいになれる。それが心を伝えることそのものだから。
「郁弥さん」
名前を呼ぶ。大好きな人の名前を。
「うん」
小さな頷きと共に、柔らかな声が返ってくる。大好きな人の声が。
「あなたはどうして、今日になって話そうと思ったの?」
最初とは逆の質問。話したくなかったじゃない、話したくなった理由。
「どうしてだろうね――」
同じような返事が聞こえた。抱擁を解いて顔を合わせる。ガス灯の明かりが瞳にきらめいて、どうしてか眩しく感じた。あたしの好きな、優しくて温かくて、ひだまりみたいな柔らかい笑顔。
「――やっぱり、日結花ちゃんが好きだからかな」
小難しい理由じゃない、真っ直ぐで飾り気のない綺麗な言葉。けれど、ううん。だからこそ、今のあたしにはそれだけで十分だった。




