33. 名字について
温泉旅館で食べるお夕食がとっても美味しく感じるのは不思議なことだと思う。旅行を終えて帰って振り返ると、何を食べたのかそこまで詳しく覚えていない。むしろ温泉街で歩きながら食べたお饅頭とか、ちょっとした名物の揚げ物とかの方が記憶に残っているくらい。
あたしが思うに、それはたぶんご飯の量が多くて種類が多いからかなと。一番美味しかったのは印象に残ってるとか言うじゃない?地元の海鮮だったりお肉だったり。ね。
「ね?」
「いや、ねって言われても……」
「それは横に置いておいて」
横に座る恋人の瞳を見つめて話を進める。まったく口に出していないので郁弥さんが困惑するのもわかる。だから話は流させてもらった。困り顔が見られただけであたしは満足したからもういいの。
「どれから食べる?」
どうでもいい話はなかったことにして本題に入った。
お部屋の中で座椅子に並んで座って、机の上に準備されたお料理を眺める。普通は向かい合うようにして食べるところだけど、あたしたちは恋人なので机は横長に向きを変えて座らせてもらった。
お料理をお盆に載せて持ってきてくれた仲居さんには"たまにおられますねぇ"って言われたし、やっぱりカップルならこれくらいやるのよ。絶対お隣にいてくれた方が楽しいし嬉しいもん。
「はい、その前に写真を撮りたいです」
「あら、お腹空いて忘れちゃってた。いいわよ、撮りましょ」
もう仲居さんは戻っちゃったので、今は二人っきり。たぶんすぐ次のお料理持ってきてくれると思うけど、それにも間はあるはずだからささっと写真を撮っていく。
今回はカメラを使わず携帯でぱぱっと数枚。お盆全体と、一人ずつを上から見下ろす感じで撮って、あと二人でくっついて撮って。そこまでして思った。
「日結花ちゃん」
「なに?」
「カメラ、使おうか」
「あたしも今それ言おうと思ってた」
くすくすと二人で笑い合って、それから急いで準備をしていく。とはいっても、三脚にくっついてるカメラを立ててタイマーをセットするだけ。手持ち無沙汰なあたしは"郁弥さーん"と名前を呼んで振り向いたところを写真に収めたくらい。恋人フォルダに保存しておいた。
撮影タイムはすぐに終わり、いよいよご飯に手を付けようと思ったところで白い紙が目に入る。肌触り的に和紙で作られたお品書き。読んでも知らない単語があってちょっぴり難しかった。でも、それより驚いたことがある。
「ね、ね。郁弥さん郁弥さん」
「うん、うん。聞いてるよ。なに?」
ぐいぐい浴衣の袖を引いたら、ふわふわ振り子みたいに揺らめていて可愛かった。ううん、今はそれを気にしてる場合じゃない。
「このお品書き、名前が書いてあるわよ」
「え?」
「見てみなさい。あなたの」
あたしに言われてすぐ、お手拭きの横に置いてあった紙を手に取る恋人さん。隣から覗き込みつつ自分の持っているものも並べて見てみれば、そこには同じ名前が書かれてあった。
「あれ、日結花ちゃんの"咲澄"じゃないんだね」
「だってあたしの名前伝えてないじゃない」
「あ、そっか。僕が予約したんだった」
「ふふ、おばかさん。なんていうか……夫婦みたいねっ」
「あはは、新婚さんかな?」
軽い冗談なのに、ちょっぴり照れくさくて頬が熱くなる。お品書きには"藍崎"様と書かれていて、あるのは名字だけ。この展開は、たぶん結婚したりしたらなくなると思う。だって。
「まあ、僕が結婚したら名字は"咲澄"にするつもりだから今だけかもね」
そ。郁弥さんの言った通りになるかもだから。
「でも、別にいいのよ?別姓制度ちょっと前にできたみたいだし、結婚したってあなたが名前大事にしてるの知ってるから変えたくないならむぐぐ……」
「君はおばかさんだなぁ」
指で唇押さえられて喋れなくなった。あと、"おばかさん"って言うのあたしの専売特許だからね。郁弥さんだから許してあげるけど、あたし以外に使ったら怒るから。
「むぅぅ」
「おっと、何言ってるかわからないけどなんとなく言いたいことはわかるよ。日結花ちゃん以外には言わないから安心して」
「ん……?」
「どうしてわかったって?」
にこりと微笑んで聞いてくる恋人さんにこくこくと頷いて返した。
「ふふ、これだけ一緒にいるんだから少しは、ね」
くすっと笑ってぱちりとウインクをしてきた。きゅんときた。こう、胸の奥がきゅーんって感じになって、心臓がドキドキとうるさい。また好きポイントが上がっちゃったわ……。
「それより、名前の話」
「んぅ?」
話が戻ったので雑念を振り払って目を合わせる。優しい瞳が待っていてくれた。好き。
「君が言ったように、もう夫婦同姓じゃなくてもよくなった。でもね、僕は思うんだよ。好きだから一緒にするんだって。結婚って、一つの節目じゃない?プロポーズをするのも、結婚式をするのも、婚姻届を出すのも、全部相手が好きだから、一つ一つ歩み寄って二人の思い出を作っていきたいからやるものなんだよ」
一度言葉を止めて、そっとあたしの唇に当てていた指を離す。でもまだ、あたしは彼の言葉を待つ。続きがあるから何も言わない。結構すごいじーんと来てるからちゃんとお話聞きたいの。
「昔は女の人が男の人に合わせていたけど、別に逆でもいいよね。どちらかに事情があるならお互いに思い合って合わせられる方が合わせればいいんだ。女の人が男の人に合わせるのも、男の人が女の人に合わせるのも、どちらでも変わらない。さすがに両方が名家だと色々難しいけど、それは例外としてね」
恋人の持論を聞きながら、あたしはあたしでふんふん頷いていた。だって同じ意見なんだもん。名字なんて正直どっちでもいいし、好きな方を選べばいいじゃないの。なんの縛りもないなら、あたしは響きが良い方を選んじゃうわね。
そんなことを考えていたら、優しい瞳が揺れて恥ずかしそうに逸らされた。可愛い。可愛いけど、なにかしら?
「ええと、つまりね」
言いにくそう。たぶんあれね。まとめね。ここからが彼が一番言いたかったこと。結構恥ずかしいこと言うから郁弥さんもそわそわしてるの。あたし、わかっちゃうのよね。なんといっても恋人だから。
「ん、つまり?」
「うん。僕は日結花ちゃんが大好きだから名前も一緒になれたら嬉しいなーって、こと」
「うふふ、はーい、あたしも嬉しいー!」
「あ、ありがとう。やっぱりそうだよね。結婚したら名字変わって、二人で"咲澄さん"なんて呼ばれちゃって。誰かに呼ばれたときとかに、日結花ちゃんと結婚したんだなーって思ったりするんだ。家族になったことを、なんかすごく実感しそうで……」
「わかるわ。自分たちだけなら結婚指輪とか一緒に暮らしている中で結婚したーってわかるとは思うのよ。外に出たり共通の知り合いと話すときに、名字一緒だとすっごく"結婚したんだ"って改めて実感できそうで……」
夢が眩しい。咲澄さん、なんて呼ばれて二人で返事しちゃって。顔見合わせて照れちゃったりもして。それを茶化されてまた恥ずかしくなるの。でも、そういうの全部嬉しくて手を繋いで幸せいっぱいになるのよ。
「「ふぅぅ……」」
「……郁弥さんって、結構夢見がちなところあるわよね」
「……日結花ちゃんこそ」
「……」
「……」
「……手、繋ごうか」
「……うん」
似た者同士で安心した。それと、手を繋いであったかくてさっきの夢みたいでもっと安心した。
結局、郁弥さんが言いたかったのは"結婚するくらい好きなら相手の人のために名字変えるのなんて何一つ迷う理由ないよね"ってことだった。かなり照れることだけど、あたし、それくらい彼に……ううん、それ以上好かれてるってことになるのよね。ほんと、郁弥さんと出会えてよかったわ。




