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32. 夕食前のお部屋話

 恋人と一緒に温泉に入り、脱衣所からお部屋まで戻ってきて気づいたことがある。そう、温泉に入っておきながら、あたしたちは泉質についてまったくと言っていいほどお話していなかった。

 会話の中身なんてあってなかったようなもので、あたし個人としては全裸なことを意識しすぎて温泉のお湯がどうとか完全に忘れてしまっていた。もちろんお風呂が気持ちよかったことは覚えている。熱かったけど。


「ねえ郁弥さん。なんかお話してー」

「来たね」

「え、なにが?」

「そのうち言われるかなぁと思っていたんだよ」

「ふーん、そ。お話して?」


 彼氏さんの言葉は流させてもらった。何か言いたそうな雰囲気が伝わってくるけれど、それも無視させてもらう。代わりにぐりぐりと恋人の首筋に頭を押し当てておく。

 場所は旅館、銀泉花ぎんせんかさんの純和風客室の一つ。部屋内で机を前にして座椅子に座っているあたしたち。並びは当然のごとく横で、半分以上は身体の力を抜いてお隣さんに預けていた。後ろの障子戸は閉めてしまっているので外は見えない。テレビもつけておらず、ただくっついてお喋りしているだけ。あと五分もすれば旅館の人がお夕食を持ってくれるから、それまでの時間つぶしとも言える。


「うーん、そうだねぇ」


 むーんとうなりながら髪をさわさわ撫でてくる。部屋のドライヤーで乾かした髪はお団子から下ろしてストレートになっている。いつもの簡単サイドダウンヘアスタイルにしようかとも思ったけれど、今は気分的に下ろしたままにしておいた。

 何気ないやり取りが嬉しかったのでぎゅーっと抱きつかせてもらった。


「時間も微妙だし、軽く話そうか」

「うん」

「手袋の話でもしよう」

「手袋?」

「そう、手袋」


 空いている手をひらひらと振り、"手袋してきたけど、僕ら朝しかしてないよね?"と続けた。

 たしかに。まったく気にしていなかったけれど、あたしは朝手袋をしてきたんだった。郁弥さんもしてきたって言うし、外を歩き回っているにしては一回も手袋してないのはおかしい。……なんでしてないのかの答えは出てるけど。


「どうしてずっとしてなかったのかを聞きたいんでしょ?」

「うん、まあ」

「あたしはもう答え出てるけど……その顔はあなたも?」


 ふんわり微笑んでいる恋人と目を合わせて、じーっと見つめる。髪の毛をさらさら撫でてくるせいで自然と頬が緩んでしまった。


「えへへー」

「ふふ」


 こそばゆくて、むぎゅっと恋人の胸に顔を埋めた。お風呂に入ったあとのボディーソープ、石鹼の香りが鼻をくすぐる。伝わる体温が心地よくて、ずっとこのままでいたくなる。


「手、繋ごうか」

「ん」


 降ってきた声に頷きを返して、手探りで彼の手を探す。肩から腕と伝って、たどり着いた手と手のひらをくっつける。指の間を埋めれば、なんとも言えない気恥ずかしさと嬉しさで胸がいっぱいになった。


「日結花ちゃん。顔あげてよ」

「やだ」

「そっかー。悲しいな」

「んぅ、その言い方はずるい」

「ふふ、ごめんね、ありがとう」

「もう……ばか」


 声色が楽しげだから冗談だっていうのはわかってる。それでも悲しいとか言われたら無視なんてできない。好きなんだもん。ずるいわ。


「顔、赤いね」

「……あなたは普通なのね」

「うん。今はなんか、すごく気持ちが穏やかなんだ。たぶんこの気持ち、幸せって言うんだと思う」

「哲学的?」

「どうだろう。そうかも」

「……ん、手、もっと力込めて」

「うん」


 繋いだ手に力を込めて、空気の入る余地がないくらいに密着させる。あたしも郁弥さんも、"これ"をしていたかったからずっと手袋をしていなかった。外気が冷たくても、それ以上に肌を合わせて体温を感じていたかったから手袋をしていなかった。とってもわかりやすい理由。

 並んで座って、手を繋いで半分くらい向き合うようにして。じっと見つめ合いながら話をする。恋人同士の距離感が少しだけ恥ずかしく、それでも好きな人を見ているだけで楽しいからやめようとは思わない。


「日結花ちゃんってお化粧してなくても可愛いよね」

「むー、ほっぺた引っ張らないでよ」


 空いている手で頬をつままれた。むにーっと優しく引っ張ってくる。


「ふふ、ごめんね。痛かった?」

「痛くはなかった。赤くなってる?」

「ん?ううん、なってないよ」

「そ。ならいいわ。でももうちょっと撫でたままにして?」

「うん」


 むにむにと頬をつまんだ後、一度離した手をもう一度くっつけて撫でてくる。頭を撫でられるのも好きだし、頬を撫でられるのも好き。今は手を繋いでいるから、なんだか郁弥さんに甘やかされてるみたいで頭がふわふわしてきちゃう。より甘えたくなる。


「肌もすべすべだし、お化粧要らずだね」

「にゃぅ、お化粧はした方が可愛くなるでしょ?」

「うーん、うん。可愛いのに綺麗が重なる感じかな」

「お化粧してない方が好き?」

「そう、だね。日結花ちゃんが輝いてるのはお化粧してるときだけどーー」


 そこで一度言葉を区切って、あたしの頬を撫でていた手が止まる。頬に手を添えたまま、にっこりと微笑んで続けた。


「こうやって近い距離にいるときは、今の方が好きかな」


 あぁ、まったく。この人はまったくもう。あたしが喜ぶ言葉ばかり選んでるんじゃないかって思っちゃう。あたしも、直接触れるならお化粧ない方がいいかなって思ったりしたけど、だからって同じこと思わなくてもいいじゃない。もう、好き。


「あたしも、あなたに触れてもらえるの好きだから」


 触ってもらうたびに、優しく繊細に大切にしようって気持ちがたくさん伝わってくるから。言葉でも表情でもわかるけど、手の動き、指先一つでもわかっちゃうくらい気持ちが伝わってくるんだもの。そんなの、好きになるしかないでしょう?


「そっか。嬉しいな」


 微笑む恋人と手を繋いだまま、そっと身体を預ける。寄りかかるように身体を軽く倒して、ちょうど鎖骨辺りで頭を受け止めてもらった。

 少し目線が下がったからか、テーブルの下が視界に映る。あたしは正座から崩して彼の座る側とは反対側に足を置いているけれど、彼は足を伸ばしているので浴衣に包まれた足が先まで見えた。


「あ、日結花ちゃん」

「郁弥さん」


 聞きたいこと、というより言いたいことがあったので名前を呼んだら同じことをされた。こんな些細な重なりでも、ほんのり頬が緩むくらいには嬉しい。


「先いいわよ」

「そう?ありがとう。ええと……」

「ん……?」


 言葉に詰まったのか何も言ってこないので、くらりと首を動かして恋人の顔を見ようとする。

 体勢が際どいというか、完全に身体の力を抜いちゃってるせいで動きにくい。手も繋いでるし、これは結構不便かも。それ以上に幸せ満載だからいいけど。


「……僕は日結花ちゃんが好きだ」

「ん、ありが、と?あたしもあなたが好きよ」


 良い具合に身体を動かして、横顔を彼の左胸に押し付ける形になった。心臓の音が聞こえそうで聞こえない。見上げればぎりぎり表情が視界に入るくらいで、それでも困り顔がよく見えた。

 "好き"と伝えたら"好き"と言い返す。いつの間にかそんな二人の間での通じ合いみたいなのができていた。別にルールとかじゃないし絶対にやらなきゃいけないわけでもない。好きって言われたら嬉しいから、好きって言ってあげたくなる。同じ気持ちを共有してほしいから、好きって言い返す。そんな優しさと温かさを詰め込んだやり取りなだけ。

 いつも通り好きと言い返したのはいいんだけど、あたし、わかっちゃうのよね。郁弥さんのこと大好きだからちょっとでも"あ、この雰囲気は……"って思ってわかっちゃう。それに加えて前後のやり取りと表情まで見ちゃったらもう、全部まるっとお見通しってやつよ。


「ねえ郁弥さん」

「……へぃ」

「んふふ、なにそれ。時代劇の人みたい」

「ちょっと意識してた。よくわかったね」

「恋人ですから。あなたの大好きな日結花ちゃんだもの」

「そっか。日結花ちゃんが恋人で嬉しいなぁ」

「でしょー?ね、それよりあなた、さっき何言おうとしてたか忘れたでしょ?」

「……うぬぅ」

「そんな可愛くうなってもだめよ」

「はい、忘れました。というか、よく考えたら何も言いたいことなかったんだ」

「そうなの?」

「うん。肌つやつやで綺麗だねって言ったし、今も普段も可愛いねって言ったし、そこからお肌のために化粧水何使ってるの?って聞こうと思ったんだけど……」

「あー、なるほど。あたしたち同じの使ってるわね」

「驚き、そうだったんです」

「ふふ、別に驚きはしないでしょ」

「冗談だよ。とにかく、そんな感じ」


 会話をしながらもぞもぞと身体を動かして、体勢を元に戻す。彼の首元に頭の後ろを預けて、繋いだ手も一度解いて、できるだけ楽な形を取っていく。彼の左手はあたしを軽く抱き寄せるように背中を通してぎゅっとしてもらい、右手はこちらの右手に重ねてもらう。手の甲の上に手のひらが重ねられるというのも、ちょっとだけ面映ゆい。

 指を広げれば収まるように隙間が埋まって、密着した手のひらから体温が伝わってくる。


「ところで日結花ちゃんの――」


 ――コンコン


 何か言おうとした恋人さんの声が途切れ、ドアをノックする音が聞こえた。続けて。

 

「すみません。お夕食をお持ちしました」


 と、旅館の人のくぐもった声が届く。

 あたしも郁弥さんも特に焦るようなことはなく、体勢も変えずそのまま。


「続きはまた後でだね」

「ん」

「わかりましたー!」


 そっと囁いてきて、ドアの外に向けて少しだけ声を張って返事をした。

 お夕食を持ってきてくれたにしてもドアが閉まっていると大変だと思うので、二人で立ち上がって襖と玄関扉を開けに行く。

 離れるとき、ほんの少しだけ名残惜しかったのは内緒。


「日結花ちゃん」

「なに……あ」

「ちょっと寂しかったから」

「……ん、あたしも」


 振り返って声をかけて、きゅ、っと手を繋いでくる。それだけで、もう十分なくらいに幸せで満たされた。

 二人揃って照れながら銀泉花ぎんせんかさんの人に会って、不思議そうな顔をされたのも良い思い出になったかも、なんて思ったり。それからすぐ繋いだ手を見て納得がいったのか、笑顔で"幸せそうですね"とか言われてもっと恥ずかしくなったのも、また良い思い出になった。絶対誰にも言わないけどね!恥ずかしいもん!

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