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26. お風呂前の攻防

 十七時前。時刻は十六時四十分を過ぎたところ。

 銀山温泉のガス灯点灯時刻を観光案内所で聞いて、その時刻に旅館の窓を開けて点灯する瞬間を録画した。カメラの後ろでお喋りしているのは録画というより録音している気分だった。

 仕事柄、歌ったり喋ったりする機会は多いので録音にも慣れている。そのせいで、なんだか旅行に来ているのに妙にお仕事をしているような気持ちになった。話し相手が同業者じゃなくて恋人だという点だけは大きく違う。それでも声を録るとなると身構えてしまうのは、いわゆる職業病というやつなのかもしれない。


「さて、と。日結花ちゃん」

「んー、なにー?」


 上から降ってきた声に返事をする。

 旅館、銀泉花ぎんせんかさんの部屋に戻ってきて少し。郁弥さんが部屋の真ん中にある長机の座椅子に座ったので、あたしは彼の膝に頭を乗せた。このために椅子を引き、机の脚にあたしがぶつからないようにしてくれた。恋人の配慮が嬉しい。

 膝枕。全世界男女問わず恋人にしてもらいたいことの一つだと思う。それを今やってもらっている。恋人の太ももに頭を乗せて、お腹側に顔を向けて、優しい手つきで頭を撫でてもらって。

 さっきまで窓を開けていたので部屋がちょっと寒いのは問題かもだけど、それ以上に心は温かいので問題なし。天国とはまさにここにあった。


「このまま二人でまったりしているのもいいんだけど、十八時にご飯じゃない?」

「んー、うん」

「その前に一回お風呂入ろうかなーと思って」


 ぴしり、と動きが止まる。

 お風呂、今この人お風呂と言ったわよね。


「お風呂三つあるし、今一つ入ってご飯食べた後に外出て写真とか撮ってきてからもう一個の方に入って、最後寝る前にまた入ろうかなぁと。寝る前は洗い場ある内湯にしようと思ってたんだけど」


 返事をせずに固まっている間も、郁弥さんはどんどん話をしていく。あたしの頭を撫でる手が止まらないのがまたやらしい。緊張が解れてリラックスしてくる。これを見越して……というのは邪推しすぎにもほどがあるけど、普通に気持ちが落ち着くのは本当にずるい。

 それにしても、お風呂か。

 今聞いた流れだと、一個目二個目はともかく三個目のお風呂はその通りにしたい。寝る前にちゃんと身体洗うというのはいいと思うし、そもそも貸切温泉のうち一か所は洗い場ないって言うし。お外出ること考えたら、郁弥さんの言った通りの流れが理想的だとは思う。問題があるとすれば。


「……ね、ねえ」

「うん?」


 問題があるとすれば、それは覚悟の問題。


「一緒に入る、のよね?」

「そのつもりで今聞いてたところだよ」


 頭を撫でる手が止まって、そっと視線を上に移せば目が合う。すぐさま顔ごと逸らされて、彼が何を考えているのかわかって安心した。だって、郁弥さんの顔赤くなってたし。


「よいっしょ、っと」


 起き上がり、恋人の膝に座る。


「郁弥さん」

「う、うん」

「お風呂行きましょ」

「……そうだね」


 顔を見るのも照れくさくて、もそもそとバスタオルや浴衣の――あ。


「ねえねえ、浴衣ってもう着るの?」

「え?うーん……」


 振り返って花柄桃色テイストの浴衣を広げて見せれば、つい数瞬前の羞恥心はどこへ行ったのやら、綺麗に広がった浴衣を見て真剣な顔で頭を悩ませていた。

 あたしも人のことは言えないけど、これは大事なことなのでさっきまでの覚悟的な何かはいったん捨て去らせてもらった。


「なんていうか、男女で浴衣違うんだね」

「そこ?」


 思っていなかった言葉に聞き返すも、彼の持つ浴衣を見てなるほどと思った。

 郁弥さんの浴衣、つまり男性用の浴衣は白と紺を縞模様にしたもの。割と旅館で見たことありがちなもので、帯は細い紺色とこれもまたシンプル。丹前たんぜんは灰色に鈍い緑色と、全体的に落ち着いた色合いをしている。

 対してあたし、女性用の浴衣。浴衣の色は広げて見せた通りピンク花柄と、淡い色はしているものの明るく華やいでいる。紺色な幅広帯に、丹前は金色とまではいかない程度の明るい橙色をしている。男物と比べてずいぶん明るい。


「えっと、浴衣の違いはいいのよ。そうじゃなくて、この後のお風呂は軽く身体流すくらいにするんでしょ?……ん、あれ?」

「?どうかした?」

「え、ええ。えっと、待ってね?このあと、お風呂で髪の毛とか洗うの?」


 今さらながら、この辺の話をしていなかった。寝る前に大浴場でしっかり髪も身体も洗うのは当然として、今から入る予定のお風呂は洗い場ある方だし、ちゃんと洗うのかどうか決めてなかった。


「あー、そういえば話してなかったね。日結花ちゃんはどうしたい?」

「あたしは……どうせなら軽くでいいからちゃんと洗いたいかな」


 少しだけ考えて伝えた。ここまで電車を乗り継いでやってきたけれど、まったく汗をかかなかったと言うと嘘になる。

 浴衣の下に肌着を入れるとはいえ、その肌着がもう寝る用なのだからできるだけ綺麗な状態で着たい。今着ている服をお風呂から出てまた着るつもりはないし、やっぱり浴衣は着るしかないから……うん。


「そっか。おーけー。そうだね、軽くでいいからちゃんと洗おう。あと浴衣の話だけど、もちろんお風呂出たら着るつもりだよ」

「ん、わかった」


 話の早い恋人さんのおかげで、持っていくものはばっちり決まった。浴衣と下着と丹前とタオルとバスタオルと、それらを入れる袋と。


「……ねえ日結花ちゃん」

「んー?なにー?」


 鞄を漁って下着を取り出し、ミニエコバッグに詰めながら雑に返事をした。適当になってしまったのは荷物が色々ごちゃごちゃしていて整理もしながらなので許してほしい。


「服を入れる袋がビニール袋しかないんだけど、今度から何か持ってきた方がいいのかな」

「ん?」


 何を言われたのかと思って振り向いた。そこには準備万端で所在なさげに立っている恋人さんの姿がある。視線は床に置いてあるあたしのエコバッグ。彼が手に持っているのはビニール袋なので、どうやらそのことを気にしているらしい。とんでもない可愛さを発揮してくれた。


「ふふ、もう。そんなの気にしなくてもいいのに。本当、あなたって人は――」


 服の準備もちょうど終えたので、立ち上がって彼に向けて歩いていく。ほんの数歩を終えて、ぎゅぅっと抱きしめた。背中に腕を回し、恋人の耳元に唇を寄せる。


「――おばかさん、なんだから」


 囁き。


「っ――」


 ぴくりと震えた郁弥さんからすぐに距離を取った。この愛おしい恋人さんが囁きに弱いのは前々からわかっていたことなので、今もはっきりと頬が赤くなっているのが見て取れた。可愛い。


「うぅ……な、なんて女の子だ。恋人の男心をもてあそんでそんなに楽しいのか。このえっち!」

「なっ!え、えっちって何よ!それはひどい言い草じゃないかしら!?」


 えっちじゃないし。全然普通だもん。ええ、まったく。これっぽっちもそんな考えは持っていなかったわ!


「まあ、落ち着いてよ。日結花ちゃんがえっちなのは僕も君もよく知っていることじゃないか」

「それもそう――え?今なんかすごいこと言わなかった?」


 なぜか納得しそうになったけど、微塵も納得しちゃいけない言葉が聞こえた気がする。

 問いかけてじーっと見つめていたら見つめ返してきた。そのまま十秒か二十秒か。いつの間にか距離を詰められて軽くキスをされていた。ちゅーされた!


「にゃ、なにをしてっ!」

「ふふ、なんでだろう。ちょっとしたくなったんだ」


 そんなことを言いながら微笑んできた。照れ混じりの笑顔が気恥ずかしくて見ていられない。不意打ちのキスには、本当にいつまでたっても慣れない。


「も、もう。お風呂行くわよ!」

「はは、りょうかい」


 荷物を拾って、色々と誤魔化しながら急いで部屋を出る。鍵は恋人が持っているのでドアは閉めてもらう。

 スリッパを履いて出た部屋の外は予想より幾分か寒かった。


「――ふむ」


 神妙な声が聞こえて、つっと振り返る。

 なんとなく何が起こっているのか予想がついていたけれど、それは起きていてほしくなかった。


「……ねえ、またドア閉められないの?」


 祈りは届かず、振り返った先にはごく自然にドアの前でまごついている恋人がいた。


「まあ、うん。こう、建付けがね?上手く扉がはまってくれなくて」


 言葉を濁しながら指で木造のドアと柱を示す。

 表情は後ろ姿なので見えないけれど、たぶん困った顔をしているんだろうなぁと思う。そう考えたら自然と口元がほころんでいた。


「まったく、しょうがないわねー。手伝ってあげる」

「あはは、ありがとうね」

「ん、さっさと閉めるわよー」


 ちょっぴり恥ずかしさを見せながら笑う恋人と一緒に、どうにかこうにかドアの位置を調整して鍵をかけた。

 二人でやったにもかかわらず、結局一分くらいは時間がかかってしまった。ただ、そのおかげで部屋であった出来事は頭の中から半分くらい追い出せたのでよかったと思う。不幸中の幸いってやつね。

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