back to the hell
自宅に着いた私はシャワーを浴びてベッドに横たわり、今日の出来事を振り返りながら物思いに耽った。
人生やり直し…か。
やり直してどうするの?
またあの地獄に戻るの?
あの地獄のような日々に。
戻ってどうするの?
生まれる環境は変わらないのに。
何がしたい?
何の為に私は戻るの?
あの人に逢いたいから…?
もしやり直したらあの人に逢える?
逢ってどうするの?
結局何も出来ない。
分かってる。
でも逢いたい。
理屈じゃないの。
この気持ちは。
ただあの人に逢いたい。
これまでの人生どんな男の人を見ても何も感じられなかった。
"好き"
とか
"嫌い"
とかそう言う感情など一切湧かない。
いつもあの人の事が脳裏に浮かぶ。
実らないと分かってても変えられない。
あの人の事以外何も思い描けないの。
だから
私はまた地獄に戻っても、地獄を越えてあなたに逢いに行く。
急に胸が熱くなった。
輪廻の意志が強い光を放ってる。
なんでここに?
私は確かに上着のポケットに石をしまった筈なのに。
輪廻の意志は私の体内から強く光っている。
意志は私の中から現れたものだったのだろうか。
輪廻の意志の渦に思わず引き込まれそうになるほど石の模様が勢いよく動いている。
輪廻の意志が更に強く光りだした。
眩しい…。
思わず私は目を閉じた。
熱い空気に包まれるような感覚がする。
最初は熱く、だけど今は生温かい人肌の温もりのような感覚だ。
赤ん坊が母胎にいる時の感覚って分からないけど、きっとこんな感じなんだろうなと思った。
"ガシャーン"
何かが割れるような大きな物音に驚き私はハッと目を覚ました。
「俺を馬鹿にしてやがんのか!?キサマ!!」
マル暴かと思ってしまうようなガラの悪い大きな罵声が聞こえる。
ふと顔を上げると正面には頭から血を流しながら
「痛い…。もうやめて…お願い…」
とすすり泣く女。
よく見ると見覚えのある部屋と見覚えのある女。
毒母が若返っている!?
そして女に暴力を振るいながら怒鳴り声を発しているのが毒父だ。
「よくもこの俺に不味い飯なんか食わせやがって!!ふざけてやがんのか!?キサマ!!」
近くには黒電話が無造作に投げられている。
毒母はおそらくこれで殴られたのだろう。
覚えている、この光景。
これは30年前の我が家とも呼びたくない我が家の光景だ。
私は子供の頃毒父によってDVを受けていた。
ある時は"お前の顔がムカつくから"
ある時は"姉の態度が悪くてムカついたけど口実つけられて逃げられたから今たまたまそこにいるお前を代わりに殴ってやる"と。
ある時は"パチンコや競馬で擦ってイライラしたから"
ある時は"周りの人間に働け働けと説教された事にイラついたから"
などなど理不尽な理由にて事あるごとに因縁をつけられて私は暴力を振るわれていた。
毒父は初めは毒母に暴力を振っていた。
いつしか私や姉が成長すると毒母の代わりに私や姉が暴力を振るわれる対象になっていった。
毒母は止めなかった。
止めても無駄で、止めようとした自分までもが暴力を振るわれると分かっていたからだろう。
慣れは怖い。
止めないどころか、毒母は私達が暴力を振るわれている光景を見ながら淡々と酒を飲むだけであった。
まるで三国志の登場人物に出てくる董卓のように。
もう二度と思い出したくもない私の暗い過去。
記憶の奥底にしまって思い出さぬようにしていた。
だけど、私は戻って来てしまった。
地獄に。
28年後には毒父はとある疾患にて亡くなっている。
だが毒父はいなくなっても私の心のトラウマは決して消えない。
恨んでも恨みきれない。
あの当時どれだけ"今すぐに消えて欲しい"と願ったか分からない。
毒父が亡くなって、もう暴力を振るう人間がいなくなっても、
毒父の足音のような激しく大きい粗雑な足音やガラスが割れる音が聞こえたりすると、私はこの当時の記憶がフラッシュバックする。
"痛い!!!"
どうやら床に手をついた拍子に散らばってるガラスの破片で手を切ってしまったようだ。
赤ちゃんのような小さな手が血に塗れている。
…お!?
これは私の身体なの!?
近くには割れる前は手鏡だったであろう残骸が落ちている。
これの破片らしい。
鏡の破片を何気なく覗くと幼い子供の顔が映っていた。
勿論見覚えのある顔で、昔見た私の幼少期の頃の写真に写っていた顔だった。
まさか本当に過去に戻って来たの!?
これが夢でない事は手の傷が痛む事が何より実証してくれている。
"ガッシャーン"
今度は灰皿が飛んできた。
怖い…。
震えて体が動かない。
怖くて声も出せない。
怖い…。
死にたくない。
なのにどうして戻って来た?
それでも逢いたいから…?
私は…再び地獄を見てもあなたに逢いたい。
死んでも…いいよ…
それが叶うなら。
だけど体が震えて動かない。
誰も助けなど来ないの分かってる。
未来を知っている私の記憶の中に助けに来てくれた人物など存在しない筈。
だけど…誰か助けて…。
"ピンポーン"
え!?
誰!?
誰か来た!!
"ピンポーン"
"コンコンコンコン…"
外にいる人がドアをノックする音が聞こえる。
「誰だ?おい、お前ちょっと覗き穴から見て来い」
毒父が毒母に命令する。
毒母は命令に従う。
"ピンポーン"
「すいません!警察です。ちょっとよろしいですか?」
"コンコンコンコン"
警察!?
そういえばこんな光景があったと言う姉の後日談をやっと今思い出した。
うちで繰り広げられているDVによって出される凄い物音は隣にまで丸聞こえらしく、あまりにも酷い物音に隣の住民が心配して警察を呼んでくれた事があったのだった。
毒父は台所から包丁を取り出し、毒母の背中に押し付けた。
「オイ、何も無いと言えよ!?いいか!?言う通りにしないとこうだからな!?」
毒父は手に持っている包丁で刺す仕草をして毒母を脅しつけた。
「はい…」
毒母は震えながら怯えた表情でそう答えた。
恐ろしすぎて出ていた涙も止まった様子だった。
「いいか?
ただの夫婦喧嘩ですって言えよ!?
分かってんだろうな!?」
「はい」
まるで鳥が頸を絞められているかのようなか細い声で毒母は返事をする。
そう…。
あの当時はこうしてむざむざ警察を追い返してしまったのだ。
何故世の中にこんな人が存在するのだろうか?
こんな人世の中の害悪にしかならないのだから消えてしまえばいいのに。
…消えてしまえば…?
今こそ千載一遇のチャンスではないだろうか?
今なら警察がいる。
しかも今なら刃物を手にしているのだから現行犯で捕まえられる。
消えてもらう事ができるのではないだろうか?
だけど毒母はあの様子じゃただ警察を追い払ってしまって終わりだろう。
このチャンスを何とかモノにできないだろうか?
どうすれば気付いてもらえる?
大きな声で泣いて知らせる…と言うのは逆効果だろう。
警察は令状が無ければ部屋には入れない。
だから子供が泣いていたって部屋に様子を見に来ることは出来ない。
"たまたま子供が泣いているだけだ。何もない"
と言われれば警察も引き退らない訳にはいかないだろう。
そしてその上"自分の立場を危うくした"と言う理由で警察が帰った後私が殺されかけるだけである。
どうすれば目立てる?
警察が調べざるを得ない状況を作らなくては!!
うぅ〜目の前がクラクラして来た。
場の雰囲気への恐怖の方が傷の痛みよりも優っていたせいで手を怪我していた事をすっかり忘れていた。
よし…!
この血液を顔と服に塗ろう!!
それが一番今すぐ手軽に目立てる方法だ!
それを何とかして警察の人に見えるところまで行くんだ!
何とか玄関先へと出てしまえば…。
"ガチャ"
ドアが開く音がする。
不味い!
早く何とかしなきゃ!!
「すいません、警察ですが夜分遅くにすみません。
近隣の住民の方から凄い物音がするとの通報がありましてお伺いしたんですけども…」
「あの…ただの夫婦喧嘩で何もありません。大丈夫です」
"待って!警察!!お願い!助けて!!行かないで!"
狭い玄関だけど上手く親の足の隙間をくぐって私は警察の前に出、警察のズボンの裾を引っ張った。
身体が小さい事が幸いしたようだ。
警察が足元の私に気づいて驚愕の表情をみせる。
そりゃあそうだろう。
伺った先の住宅から血塗られた子供が飛び出して来たら相手が警察でなくても誰だって驚くであろう。
「あっ!コイツ!!」
般若のような表情で毒父は私を今にも殺さんとばかりの勢いで見てる。
いかにも
"ポリ公が帰ったら後で覚えておけよ"
と言う表情だった。
今警察が何とかしてくれなきゃ私はこの後命が無いかもしれない。
だからお願い!
助けて!!
死ぬのは怖い…。
「子供が酷い怪我をされているようですが…?
ちょっと2〜3お聞きしたいことがあるんですがよろしいですかね?」
「今忙しいし、明日も仕事で朝早いので帰ってくれませんか?
オイ、お前早くガキをこっちに連れてこい」
毒父が警察を無視して毒母に命令する。
「いえ、でも凄い怪我ですよ?
普通では考えられない状態ですよね?
少しお話を聞かせてもらえませんか?」
「…」
警察を無視し、毒母が私を抱き上げようと屈んだ瞬間、
「あ、アンタ何やってんだ!?」
「……!!!」
毒父が毒母の背中で包丁を構えていたのが丸見えになった。
予想外の展開だけど、毒父が馬鹿で本当に良かった!!
警察は毒父の腕を捻り上げた。
毒父はその衝撃で手に持っていた包丁を床に落とす。
まさか刑事ドラマのワンシーンのような光景を実際に目の当たりにする瞬間が来ようとは。
呆気なかった。
毒父は弱い者にはひたすら強いが、強い者にはひたすら弱いクズだったからだ。
「現行犯で捕まえます!
ちょっと署まで来て頂きます。
パトカーに乗って下さい」
警察はそう言った後、停めてある車に待機している仲間へトランシーバーのような者で連絡を取り合ってる。
「ちょっと一人現行犯で同行するから」
「了解!」
終わった…。
これで幸せに暮らせる…?
ゔ…頭がクラクラする。
血を流しすぎたみたい。
目の前が暗くなった。
目が覚めたら病院のベッドにいて私は点滴を打たれていた。
生きている…の?
おそらく血を流しすぎたせいで気を失っていたようだ。
病院にいると言うことは輸血をしてもらえたのだろう。
そういえばあの後の記憶がない。
どうなったのだろうか?
病室には今誰もいない。
…と言うか私は普通に喋ったら不味いだろうな。
今が何年か分からないが、今私は推定2歳頃だと考えられる。
記憶の時間軸がズレてなければ。
せめてどこかに新聞でもあれば明確に分かるのに…。
…ん?
誰か入ってきた。
ナースか?
それとも誰か親族か?
毒母と毒母の母、つまり私から見たら母方の婆さんと言う事になる。
「おめ、このまんまだったらいつか子供もみんなあの男に殺されるべ。
どうすんだか?」
「警察の話だとこの程度の事件で実刑下るのは難しいって…。
離婚したいけど離婚したって子供育てていくのお金も無いし無理だわ」
な…何!?
はっ!!
考えてみたらDV防止法は平成半ばになってからようやく出来た法律で、今は昭和の末期、西暦で言えば80年代頃だ…。
この時代にはDV防止法が存在しない…。
私は絶望感に駆られた。
恐らく警察が言うように毒父に実刑が下るのは難しいだろう。
例えば…だ、毒父は刃物を持ち出してはいたが、実際にその刃物で怪我をした者は存在するか?
いない…。
あくまでも怪我をした要因は包丁によるものではなく別の要因によるもの。
その上、毒父に
"殺意はあったのか"
と言う所で考えるとあくまでも突発的なものであって
"計画的ではない"
と言う所から
"殺人未遂"
を立証するのは不可能だ。
現に
"刺されそう"
にはなっていたものの、実際に
"刺された"
訳ではない。
そして毒父はおそらく常套手段の逃げ口上で
"酒を飲んで酔っていたから覚えていない"
などと述べるだろう。
それによって
"事件は突発的なものであり、殺意は無かったもの"
と判断される可能性が高い。
毒父が実際に行った事項は、
"相手に怪我を負わせた事と恫喝した事"
だがこれも
"酒に酔っていて覚えていない"
のように
"正常な判断を下せる精神状態に無かった"
とされ、
"反省している"
とでも本人が言えば
"悪質性の無い中程度の障害事件だった"
と言う流れになりやすく、執行猶予付きで直ぐに署を出てくる可能性が高いのだ。
なんて不条理な世の中なのだろうか…?
この時代はDVに関して余りにも認識が甘く、無頓着すぎる。
それはきっと男尊女卑の時代真っ只中であるからであろう。
この時代はまだ男が女を虐げる時代なのだ。
男だって女から生まれた癖に…!!
なのに何故そんな差別が存在するのだろうか?
私はそれら全ての事に憤りを感じている。
毒父は直ぐに戻ってくる。
私はきっと殺される…。
食事も喉を通らない。
私は殺されるんだ。
私は怯えながら数日間過ごした。
数日後、私の予感は全て的中した。
毒父は戻ってきた。
私は押入れの中で息を殺し過ごしている。
おそらく直ぐに見つかってしまうだろう。
だが人間、死の予感がすると必然的に無駄だと分かっていても隠れたり身を守ろうとする自己防衛の本能が働くのだろう。
ズカズカと激しく足音を立てながら
「アイツ、どこ行きやがった!?」
おそらく私を探しているに違いない。
「オイ、アイツどこ行ったのよ!?
隠しやがったら分かってんだろうなぁ?」
毒母を脅しつけ私を探させる。
「確かに部屋にいたはずなのに…」
「そしたら押入れしかねぇだろうが!!探せ!」
やはりこんな狭い2部屋しかない部屋だとバレるのは早かった。
「こんなところにいやがった!!
コイツまさか全部分かっててやってんじゃねぇだろうなぁ、オイ!!」
"痛い!!"
背中を掴まれて床に投げつけられた。
私は今日死ぬんだな…。
「全部コイツのせいで俺がこんな目にあったんだ。
よくもポリ公にバラしやがって!!
あん時はポリ公にしょっ引かれたから見逃してやったけど、それで済まされると思うなよ!?キサマ!!」
怒鳴り声と共に腹を蹴られて私は吹っ飛んで壁に叩きつけられた。
鼻から血が出て来たようでその血は服にポタリと落ちた。
またか…。
私の人生は血塗られた人生…。
万に一つでも助かる見込みは無いのだろうか?
「よくもこの俺をサツ送りにしやがって!!
ぶっ殺してやる!!
死ね!!!」
頭を鷲掴みにされ、壁に何度も頭を打ち付けられてから私は記憶がない。