終わり、そして始まり
もしも、一つだけ願いが叶うなら。
それが例え、現実では到底叶いそうもない現実離れした望みだとしても、もしも一つだけ、願いが叶うなら。
誰しもが必ず、一生に一度は夢見たことがあるのではないだろうか。
お金持ちになりたい、長生きしたい、外見を良くしたい、恋人が欲しい、かしこくなりたい、成功したい、別の誰かになりたい、空を飛べるようになりたい──。
願いこそ多種多様であっても、そのフレーズを頭の中で思い浮かべた事がある人は決して少なくはないはず。
そして、その例に漏れず、桑井あゆみもその内の一人であった。
齢三十を過ぎた頃から、幼少期に戻って人生をやりなおしたい、そう考えることが増えた。
人には絶対に言えない、自分でもバカバカしいと思えるような願いだったが、割と願望というものは、ああしたい、こうしたいと簡単に口に出すものよりも、滅多に吹聴しないような根っこの部分の方が真理に近いものだったりする。
だからこそ願掛けは人に話すと叶わない、などと言う迷信が生まれるのだろう。
そもそも、何故彼女が幼少期に戻りたいと願うようになったのか。
正確に言えば、幼少期のまだいくらでも進路修正が出来る時期から自分をプロデュースし、心から満足した!と言えるような、より良い理想の人生に作り替えたいという願いである。
それは単に現状に満足していない。そして、過ぎ去った十代、二十代の日々に大きな悔いが残っているからであった。
来月、めでたくも無く三十四歳を迎える彼女は、安いアパートに一人で住んでおり、看護師としての収入はそこそこではあったものの、苦い過去の産物である複数のローンのせいで貯蓄は無く、また、幾度となく挑戦してきた減量も生来の忍耐力の無さから尽く失敗に終わり、身長160cmに対し体重90kgと一般的な標準体型からはかけ離れた体型の女性であった。
しかし、元々の顔のベースはそんなに悪い方ではなかった模様で、それは、幼い頃から現在に至るまで度々「痩せれば可愛いのにね」と、受け取る側としては幾分か複雑な心境になるような感想を言われてきた程度には、多少は恵まれていたようだった。
だが、相手がどんな意味合いで言ったにせよ、数々のダイエットに失敗してきた彼女にとっては、もはやその言葉は褒め言葉ではなく、ある意味呪いの言葉となって、時に彼女を傷つけていた。
それだけではなく、日常生活に置いても、彼女の満足度は著しく低かった。
その容姿のせいもあり、出会いはもっぱら出合い系やSNSなどのインターネット中心で、今付き合っている男性も、会ったことすらない所謂『ネット彼氏』というものだった。
だが、いくらネット恋愛とは言っても、外見抜きに彼氏彼女という関係性にはなり難く、そんな時は相手に求められた場合にのみ、スマートフォンのアプリケーションで加工した自撮り写真を送り、休日は外に出かけるでもなく、日がなパソコンの前に鎮座しては、ネットゲームや動画を観ながら、ネット彼氏とネット通話をして過ごす、そんな毎日だった。
それが、容姿にコンプレックスを抱えるあゆみの日常なのだ。
これを充実しているかと問われれば、些か答えに詰まってしまう現状に、あゆみはここ数年虚しさを感じていた。
そして、その日もそれは変わることなく。
いつもと同じ休日を過ごし、夜十時過ぎには早々とベッドに潜り込み、両耳にスマートフォンから延びたイヤホンマイクをはめ込んで、通話の向こうの付き合って三週間になるネット彼氏の寝息に、聴き耳をたてながら目を閉じていた。
大型の台風20号が接近中との事で、轟々と強い風が休む間もなく安アパートを殴りつけ、その度に雨戸がガタガタと鳴っている。
あゆみは妙に寝付けなくて、ぼんやりと明日の仕事の段取りを考えていた。
その時、ふと、あの言葉が頭を過ぎった。
そして、その言葉はするりと口から漏れた。
「小学二年生からやりなおしたいなぁ・・・」
本当に無意識にでた言葉だった。
いつものように何か嫌なことがあってとか、しょうもない現状に嫌気がさしてとか、自分自身が情けなくてとかではなく。
まるでそれは、口に含んでいた飴玉が、何かのはずみでポロっと飛び出したみたいな感覚で。
あゆみの声に反応したのか、寝ていたネット彼氏の軽いうめき声がイヤホンから聴こえ、はっと我に返る。
その時初めて、自分が何を言ったのかを認識した。
その瞬間、身体が大きく揺れた。
アパートが一際大きな暴風に煽られ、ミシミシと不穏な音がしたかと思った次の瞬間、天井が落ちてきた。
それは、ストップモーションアニメの様にも見えたし、スローモーションの様にも見えた。
降ってくる木片や、この間ペンキを塗り替えたばかりのルームライトの笠が飛んでいく様が、はっきりと目で追えたし、
──あ、もしかしてこれが走馬燈ってやつ?
そんな呑気な考えが浮かぶくらい、目の前の光景は非日常的で安易には受け入れ難いものだった。
しかし、それも束の間で、自分の身体に降りかかる瓦礫に思わず目を閉じ、次にくるであろう衝撃に身構えた。
・・・が、いくら待っても何も落ちてこないし痛みも感じない。
おかしいなと思いつつ恐る恐る目を開け──
ようとしたが、あまりの眩しさに目が開けられない。
更には、今の今までベッドに横たわっていたはずなのに、何故か今は身体に何も触れてないような気持ちの悪い浮遊感を感じている。
手足の感覚がなく、自分が上を向いているのか、はたまた下を向いているのか、どんな態勢なのかも分からず、一瞬身体が無くなった錯覚に襲われ、本来ならば胃がある筈の所からグググッと何かが込み上げそうになった。
だが、意識以外の自由が効かないせいでと言うか、お陰と言うべきか、特別嘔吐したりはしなかった。
ただただ、言いようのない不安に襲われ大声で叫びたかったが、発声器官まで消滅したみたいに何も発することが出来ない。
「────────。」
ふと、何か聴こえた気がした。
聴覚は逝ってなかったと安堵したのも束の間、その声は突如、あゆみの意識の中に響いた。
「もしも、一つだけ願いが叶うなら、何を願う?」
高くも低くもなくて、高くも低くもある声。
はっきりと、言葉が浸透する。
──もしも、一つだけ願いが叶うなら、何を願う?
──そ ん な も の 決 ま っ て る 。
「記憶は今のまま、小学二年生から人生やりなおしたい」
言った後に自分でも驚くほどその言葉はするりと出た。
問われた瞬間、まるで初めから決まっていて示し合わせた合言葉のように自然と出てきたのだ。
一瞬前は叫ぶことすら出来なかったのに。
気づけば、ついさっきまでどうしようもなく叫びたいくらいに自分を蝕んでいた不安が、一切合切全て掻き消えていて、むしろぬるま湯に使ってるような心地よさを感じていた。
「やりなおし、でいいんだね?」
不思議な声が聞いた。
「やりなおしたい、でも記憶は無くさないで」
あゆみはきっぱりと答えた。
──これまで何度も願ってきたのは、この日の為の練習だったんだ。
そう思ったのを最後に、あゆみの意識は完全に途絶えた。