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「これ以上、ここに留まってもしかたがない」
それが、ライナスがくだした結論だった。
偵察から戻った隊員たちから話を聞けば、山麓の主な登山道付近にはエカルド兵と思われる者たちが目を光らせているという。襲われた村の近くにもやはり兵が数名戻ってきていたとの報告もきている。
兵たちに諦める様子がないとなれば、いつまでも身を隠していたところできりがない。
幸い確認できるかぎりでは、エカルド兵は一個小隊ほどの数しかいないようだ。とあらば、今のうちに多少の危険は冒しても山を越えるべきだ、とライナスは考えた。
どういう編隊で動いているのは不明だが、下手に時間をおけば増員され山狩りという事態にならないともかぎらないのだ。
もう一つ、ライナスが決めたのは「とりあえず、アレクを村へ連れていく」ということだった。
接する感触からすれば、アレクはこの場所を――村を離れたがってはいない。だからといって、近隣に預けることも、麓の町に連れていくことも今は無理だ。狙われているのを承知で、ここに置いていくなど論外だった。
村の様子やアレクを見て、自分たちと重ねあわせたのは、オーレンだけではなかったということだ。
「もし、アレクが頼りにできるような身内がエカルドにいるのなら、ことがおちついたあとで送ってやればいい。今はともかくエカルドを抜けることが肝要だ」
翌朝、出発前に告げられたそれに、異を唱える者もいなかった。
アレクにもその旨がやんわりと伝えられたが、あからさまな反発はなかった。ただ、耐えるよう唇を噛み締めていただけだ。
その様にライナスは、オーレンとリディオへ耳打ちをしてよこした。
「アレクは、今は憎悪と恐怖が拮抗している状態だろう。エカルド兵を見かけたら、どういう行動をとるかわからない。怒りに任せてむかっていくか、恐れが勝って闇雲に逃げだすか……どっちも危険なことはわかるな?」
目を離すんじゃないぞ。
一人にはするな、と受けた命令に、二人は無言で顎をひいた。
そうして出発した一行は山道をはずれ、木々にまぎれるように進んでいた。素直に道をいけば、当然発見されやすいからだ。
だが、大きくはずれすぎれば進むべき方向まで見失いかねない。
鬱蒼とした森の中、ところによって上り下りが逆転する起伏に富んだ地形は、方向感覚を狂わせるに十分だ。感覚を失ってロウハンの奥へと迷いこめば、生きて抜けられる可能性は低い。
慣れた土地の者でも注意が必要なのである。はじめてではないが、よく知っているとはいえない一隊はそのあたりも含め、用心深く足を運んだ。
行程はアレクの村を迂回する形でとられていた。ただリディオが言ったとおり、この山を越えるにはあそこから完全に離れた進路はとれない。
オーレンたちが最初にたどった道筋よりも時間がかかってはいたが、確実に近づいているその場所に、緊張感が高まっていた。
リディオが前をいき、間にアレクを挟む形で続いていたオーレンも例外ではなかった。
エカルド兵に遭遇するとすれば、その周辺が一番確立は高い。
考えるほどに、口の中が乾いていくのがわかる。
だれしもがそれが杞憂に終わればと、願っていた。
だが、そううまくことが運ぶはずもなかったのである。
「――どうした?」
俯きがちに前を進んでいたアレクが、唐突に頭をあげ、その足を止めた。うしろをついていたオーレンは遮られる形で立ち止まり、小さな背に声をかけた。
だが、アレクは答えを返してこない。いや、返さないのではなく耳にはいっていないのかもしれない。おちつかなげにあたりを見回している。
アレク、と不審さに名を呼ぼうとしたオーレンの肩に「おい」と手がかかった。オーレンの目線の先をのぞくように、軽く肩がひかれ、うしろの隊員が顔をよせてくる。
「どうした? なんで進まない?」
「ミラー、いや…アレクが」
事情を説明しようとしたオーレンの耳が、なにかを捉えた。
かさり、とかすかではあるが、茂みをかきわけるような音がしたのだ。
はっと息を呑むとともに、一瞬、隊のだれかのものかと思う。
しかし、それは前後ではなく、自分の右手方向から聞こえてきた。現に、オーレンの横にあるミラーの顔も、そちらへと捻られている。自身の聞き間違えや錯覚などではないのだ。
思いいたった事柄に、オーレンの表情がさっと強張った。
右側には、オーレンたちが避けてとおろうとしている、アレクの村がある。
気づけば、先を進んでいたはずの隊員たちまでが戻ってきていた。
オーレンの視界を遮るよう――アレクを庇う形で、ライナスが数名の隊員とともに立ち並ぶ。視界の端で、自分たちの背後にも隊員が回りこむのがわかった。
いつの間にか、オーレンの肩に置かれた手は消え、ミラーもまたオーレンたちを背にしている。
もはや、物音どころではなく、なにかが近づいてくる気配は明確だった。
それも一つではない。ざっと感じとれるだけで、二・三十の数はある。むこうもすでにこちらに悟られているのを気づいているのか、今となっては気配を消そうともしていなかった。
ここまであからさまに接近してくるからには、森に棲む獣などではない。確実にこちらを狙う目的を持った、人間だ。
一同が注視する中、木々のむこうに現れたのはやはりと言うべきか、エカルド兵たちの姿だった。
獲物の見つかった喜びか、さんざん探し回らされたいらだちか、彼らが遠目にもぎらついた双眸を宿しているのがわかる。今にも跳びかからんとする体で、一歩また一歩とこちらを囲いこむ形で列を組みながら、その距離を縮めてくる。
オーレンの視線の先でライナスは、撤退の合図をだすことも、剣の柄に手をかけることもなく、彼らに相対していた。
エカルド兵の描く半円がせばまるにつけ、場を包む緊張感が高まっていく。
双方は一言も発せず互いの距離を測りあっていた。
やがて、むこうが動きを止めた。
エカルドの軍服を纏った中から、一人の男がゆっくりとした歩調で前へとでてくる。長い前髪から覗く暗い目が、こちらを粘着質に睨めつけた。
「見慣れねぇやつらがうろうろしてるって話しがあったが、それがあんたらみたいだな。――ふん、思ったとおりだぜ」
「ぁ……」
オーレンの横で、アレクが小さく声を漏らしたのがわかった。ちらりと横目で見下ろせば、その目は居並ぶ隊員たちの隙間から垣間見える男を食いいるように見つめている。
オーレンは改めて男へ視線を戻した。
男は兵とともにあって、一人軍服とは異なる格好をしていた。とはいえ、村人たちよりはよほど立派で質のいいものだ。一見すると比較的裕福な商人かなにかのように映る。
だが、その顔には卑しさが滲んでいた。卑屈に光る双眸はこちらを完全に見下ろす様相で、口元には歪んだ笑みを浮べている。自分のものではない力で、相手の優位に立とうとする人間にありがちな雰囲気を纏っていた。
ライナスを中心とした隊員たちを、絶対的な優勢を疑わない目つきで眺め回す。なんの動きも見せない一同に、莫迦にしたように鼻を鳴らし、男は口を開いた。
「そのガキ、渡してもらおうか。もともとそいつは俺たちの獲物だ」
下卑た居丈高な声が、耳に障る。さらには『獲物』という言葉に、オーレンは片方の眉をぴくりとあげた。
それはライナスたちも同じだったらしい。背にしたアレクを男から隠すように、足を動かし身をよせる。そうすることで、アレクを渡す気などない意思を無言で示した。
「――こども相手に、随分と物騒なことだ」
自分たちをわずかとはいえ上回る数の兵を相手に、ライナスが泰然と口を開いた。ただ、いつもより固く聞こえるのは、おそらく怒りを秘めているからだろう。
「おまえたちが、あの村をやったのか?」
「へっ、そうだっつたらなんなんだ? つべこべ言ってねぇで、その赤毛のガキを渡せばいいんだよ」
余計な怪我したくねぇだろうがよ。
歯を剥きだしにして罵詈を並べたてる男に、オーレンの不快感が募っていく。とともに、隣にあるアレクの様子の変化に警戒を強くした。
男が目前に現れた時、アレクは青い顔をして彼に見入っていた。瞬きを忘れた双眸は、どこか信じがたい色を纏ってもいた。
男が言葉を重ねるにつれ小刻みに震える肩に、オーレンはアレクが倒れてしまうのではないかとの危惧を抱いた。
だが、血の気の失せていた顔が紅潮していく様に、アレクを支配している感情が恐怖などではないことに気づいたのだ。
アレクの姿を視界の端に留めながら、リディオに視線を流せば、こちらへむけられたリディオのそれといきあう。互いにわかるかわからないかの動きで首を上下させた。
「……それとも、痛い目みるまでわからねぇのかね、あの村の連中みたいにな」
男が吐き捨てるように言うが早いか、アレクが怒りに目を染めた。突き動かす衝動のままに、飛びだそうとする。
その足が地面を蹴る寸前、オーレンとリディオが両脇からアレクの腕を捕らえた。
「――っなせッ」
もがいて抜けだそうとする細い腕を、オーレンは痣になるくらいきつく掴む。そうでもしないと、この小さな身体は本当に男の前へ躍りでてしまいそうだったのだ。
「おちつけっ」
低く、脅しつけるような声色で制止をかけるが、嚇怒するアレクには届かない。逆に、どうしても抜けだすことができないと察したアレクは、大きく口を開いた。
「っんたのせいで、村が…っ なのにっ、よくも平然とそんなこと! みんな、しんっ、死んだのに……なんとも思わないのッ?」
喉も裂けんばかりの怒声に、場の視線が一気にアレクに集中する。
ハッ、とその中の一つが嘲弄を放った。
「あんな連中がどうなろうと知ったことかよ! 俺は散々言ったぜ、あいつらに。俺につけってな。こんなかつかつの生活じゃなく、もっと楽に生きてけるってなぁッ。莫迦な連中だぜ、おまえの親父なんかについて貧しく暮らした挙句、死んじまったんだからよ!」
「テイズ…ッ」
色の違う激情がぶつかりあう。触発されてエカルドの兵たちの雰囲気が昂ぶっていくのが、手にとるようにわかった。
このままアレクに言葉を発せさせておくのはまずいと、咄嗟にオーレンはその口を塞ごうとする。
だが、それより早くライナスが動いた。
ざっ、とわざと荒く音をたて、皆より一歩前にでる。音と動きに、男と兵たちの注意がライナスへと逸れた。
「今のを聞くかぎり、この子とは知りあいのようだが……我々もそんな物騒な知りあいに、この子を渡す気はない」
厳然と告げるライナスに、男の目が険悪に細められる。
「んだと?」
「どんな理由があるかは知らないが、渡すわけにはいかないと言っている」
感情を映さない声が、淡々と告げた。
ライナスの淡白さに、男だけでなくエカルド兵たちも興奮している神経を逆撫でされたらしい。場に一気に怒気がたちのぼった。
「てめぇ…っ」
低く唸った男が、次の瞬間、はっと気づいたような顔つきになった。探る目つきでライナスを眺め回し、一層いらだちを露わにする。
「もしかして――おまえたちもアレを狙ってるのかッ? それとも、そいつを使ってルドーさまにとりいろうって腹か? そうはさせるかよ!」
「なんのことを言っているのか、」
「うるせぇッ!」
わからない、と続けようとしたのだろうライナスの言葉を、男は叩き切るように遮った。というよりは、むしろはじめから聞く耳など持ってはいなかったのだ。
ぎらぎらと憤激を宿したまなざしが、オーレンたちを射る。
その攻撃性にあてられ、オーレンは無意識に左手で長剣の柄を握り締めていた。
「こうなりゃ、力ずくで奪うまでだ!」
男の叫びに呼応する形で、エカルド兵たちが鞘から剣を抜き放った。やっちまえ、と口角から泡を飛ばす勢いで怒鳴り散らすのを合図に、兵たちが動く。口々に声を発して剣を振りかざし、こちらへと地を鳴らしてむかってくる。
エカルド兵が踏みだす寸前に、ライナスもまた一同に応戦の合図をだした。次々と隊員たちの剣が閃き、むかってくる敵に対する。
ライナスのうしろに控えていたザックがさっと踵を返すと、オーレンとリディオの二人の耳元に顔をよせ、すばやく囁きかけた。
「アレクはおれが連れてく。おまえたちは援護しながらついてくるんだ。包囲を抜けて、例の場所へ」
「わかった」
ザックは二人の手からアレクのひきとると、剣を握る手とは逆の腕を小さな肩へ回した。アレクはさきほどの威勢とは一転、状況に怯えるのか大人しい。
だが、だれもがアレクの表情にまで気を配ってはいられなかった。
どこかで最初の剣花が散る。
あとはもう、乱闘の様相を呈していった。
怒号と乾いた落ち葉を踏み鳴らす音を、高い金属音が切り裂く。さほど木の密集したあたりではないとは言え、森の中には違いなく、長剣を振るうにも思うに任せない。ライナスたちは剣戟の合間に、時に蹴倒し、また柄を首元へ叩きこんで、相手を昏倒させていく。
オーレンは空いた右手で、太腿に帯びていた短剣をひき抜くと、ザックの左後方についた。同様にリディオが右側を護っている。
ザックがアレクを片手で抱きかかえるようにしながら、仲間の作る隙間を足早に縫っていく。ここをアレクを連れて抜けないかぎり、この争いは終わらせることができないのだ。
それがわかっているから、三人はできるだけの速さで足を運ぶ。
だが、敵も逃げられるわけにはいかないのは同様だ。隙をついて、次々にこちらへと襲いかかってくる。アレクの命さえあればいいと思っているのだろう。その攻撃には容赦がない。
ザックはむかってくる兵と剣をまともに交わらせることはせず、力に任せて薙ぎ払い、先を急ぐ。ザックに打ち払われた兵へ、リディオが体勢をたて直す間を与えず切りかかっていく。
一方のオーレンは、振りおろされた剣を短剣で受け流し、空いた脇腹に固い長靴の踵を沈めた。もんどりうって倒れた兵をそれ以上は相手にせず、即座にザックの背を追う。
そうしながら、オーレンはあたりに注意深く視線を走らせた。と、その目にこちらの方を指さしながら、大声で叫び散らしている男が映る。
威勢のいいことを口にするわりに、テイズと呼ばれた男は戦いに加わっていなかった。隊の者たちも襲ってくる者たちの相手が精一杯で、だれも男にまで気が回らないのだ。それをいいことに男は周囲から距離をとり、自分は安全な場所から感情的になにごとかを怒鳴っている。
オーレンの瞳に剣呑な色が宿る。握っていた短剣の柄を、強く握り締めた。我を忘れて男へ足を踏みだしかける。
その時、突然の衝撃が足元を襲った。
どん! と地面から感じた、突きあげられるような振動に、身体の均衡が崩れる。
はっと一瞬の理性の喪失からたち戻り、反射的に両足に力をこめたオーレンの耳を、
「アレクッ!」
鋭い叫呼が打った。同時に目前を人影がよぎる。
それはザックの腕から逃れたアレクの姿だった。いつのまに手にしたのか、抜き身の短剣がアレクの手元で木漏れ日を返す。
唐突な揺れに手足の止まった敵味方の中を、アレクは一直線に男にむかって走っていく。
オーレンが動きをとりもどすのは早かった。短く舌打ちするとその背を追う。
だが、この絶好の機会を敵も見逃すはずがない。
「ガキを捕まえろっ、この際多少の怪我はしかたがない!」
男とは別の、エカルド兵が檄を飛ばす。
声に応じ、近くにいたエカルド兵が動いた。前しか見ていないアレクの背後へ切りかかる格好で、剣を振りかざす。
走るアレクの背を、風を切った切っ先がかすめんとした時、オーレンが間に割ってはいった。アレクを突き飛ばす形で、幼い背中を押す。
「――ツッ」
次の瞬間、オーレンの左腕に灼熱の痛みが走った。
しかし、痛みなど気にしていられるはずもない。勢い余って自身も地面に転がったオーレンは、切りつけられた左肩で受身をとり、即座に起きあがる。右手に短剣を構えて応戦の体をとるが、その時にはすでに別の隊員が兵の背面をとっていた。
オーレンは構えを解かず、すぐさまアレクのもとへ移動した。
「大丈夫かっ?」
アレクが、地面に座りこんだ格好で呆然とオーレンを見上げた。すこし離れた場所に転がった短剣は、突き飛ばされた衝撃で手を離れたらしい。
あの時は意識している間がなかったが、転んだ拍子に短剣で怪我をしなかったのは幸いだった。ほかに傷を負っている様子もないことに、とりあえずオーレンは胸を撫でおろす。
「立てるか?」
周囲を警戒しながら伸ばした左腕をアレクが凝視する。服の上からでもわかる、血に濡れたそれにアレクの身体が小さく震えた。
「っぁ……ゃッ」
声にならない叫びをあげ、泥に汚れた頬に涙が伝う。
「アレク?」
ふいの変化に、オーレンは戸惑った。頭を振って、後退るように身を捩ったアレクは、あきらかに動揺している。
「オーレンッッ」
すぐ近くから聞こえた緊迫したリディオの声に、オーレンはアレクを見遣り逡巡する。
しかし、長く考えている暇はなかった。
オーレンは意を決して、右手の短剣をすばやく鞘におさめた。怯えたように身を縮こまらせるアレクに構わず、空いた両腕でその身体を肩へと担ぎあげる。
初めて会った時同様に嫌がるのを押さえつけ、すぐさま立ちあがった。
アレクを狙う兵の攻撃をかわしていたリディオとザックへと声を投げる。
「いこう!」
二人の是非を聞くこともなく、走りだす。続いた足音を仲間のものと信じて疑わなかった。
あとはもう周囲など気にする余裕などない。
一心不乱に木々の間を駆け抜けることだけが、オーレンにできたすべてだった。