番外編 親と子と
時間は少しさかのぼります。
神奈はスマートフォンを眺めて考え込んでいた。
今、魔王軍と人類軍の間にはしばしの平和な時が流れている。
サミットの結果を待たねば黒の勇者も動けない状態だ。
大半の者が、和睦で終わるだろうと見ている。だが、結果はまだ出ていない。楽観視できない状況だ。
神奈は憂鬱の中にあった。後回しに後回しにしてきたが、やらねばならぬことがある。
神奈はスマートフォンの表面をなぞり、その連絡先を見つけて、一つ溜息を吐く。
「憂鬱そうですね」
リンネが声をかけてきた。
神奈は顔を上げて、苦笑する。
「そろそろ、親に連絡を取らなくちゃと思ってね」
「そう言えば、神奈さんは前の世界じゃ急に消えた状態なんでしたっけ」
「そ」
短く、返事する。
仕事も家族も何もかもを放り出して神奈はこの世界にやって来た。
その後始末を、まだしていない。
「どう説明したもんだろうね。いきなり娘が消えました。連絡もつきませんでした。仕事先にも連絡を取っていません。親としては大激怒よね」
「ただ、元気な声を聞かせるだけいいんじゃない?」
呑気なのはマシロだ。
「そんな単純な話ではないのよ」
「そうかなあ……」
「そうよ」
「私はマシロに賛成ですかね」
「リンネもそう思う?」
「元気な声を聞くだけで安心するものです」
「そっかぁ……」
二人に勧められたが、決意もつかず、スマートフォンを道具袋にしまう。
そして、再度溜息。
神奈の憂鬱は晴れない。
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「ああ、やっぱりここにいた」
そう言ってリンネがやって来たのは、北壁内の修練場だ。
グリムは北壁の兵士達と、木剣をぶつかりあわせている最中だった。
上半身が裸で、細身だがしっかりと筋肉がついた体が露わになっている。
「どうした、俺の巫女様」
グリムは汗をタオルで拭いながら、リンネに近づいてきた。
その呼び方に、リンネは少し胸が高鳴った。
「いやね、ちょっと話したくて」
「何かあったのか?」
「そう言えば、グリムのお母さんの話って聞いたことなかったなーって」
「ああ……」
グリムは視線を逸して、苦笑する。
「あまり愉快な話ではない」
リンネは、黙って視線でグリムに訴えかける。
グリムは、観念したようにリンネをまっすぐに見た。
「場所を変えよう」
「うん、そうだね」
グリムはタオルで体を拭くと、上着を着た。
そして、タオルを籠に投げると、前を歩き始めた。
やって来たのは、この前二人で月を見た場所だ。
「俺は、母を恨んでいてな」
「どうして?」
「母が父を止めてくれなかったせいで俺は馬鹿にされた。そう思っていた。幼い頃の俺にはその恨みしか拠り所がなかったのだ」
リンネは、口籠った。
グリムの少年時代は闇に包まれている。ランドニアの英雄という光の中にいて、彼の足はまだその時代の暗闇に浸かっている。
「母はさぞ苦しんだだろう。夫を失い、周囲からは馬鹿にされ、子供からは憎まれる。それでも絶えずに食事を作ってくれた。俺を養ってくれた」
「……今は、恨んでないんでしょう?」
「ああ、過去のことだ」
そう言って、グリムは苦笑した。
リンネは、グリムの背に静かに触れた。
「手紙、出してあげなよ」
「今更、手遅れだ」
「そんなことないよ。親と、子だよ?」
「それでも、埋められぬ溝というものがある」
「あのね、グリム」
リンネは背伸びをすると、グリムの顔を掴んで、自分の方を向かせた。
「お母さん、きっと苦しんでると思う。それを楽にしてあげられるのは、グリムだけなんだよ」
「……それは巫女としての命令か?」
「大事な友人としての忠告」
「そうか」
グリムは苦笑する。
「手紙など久々に書くな」
リンネは、微笑むと、グリムの顔から手を話した。
「しかしだな、リンネ」
グリムは、からかうような口調で言う。
「今の俺達を誰かが見ていたら、キスでもするのだろうかと思っただろうな」
「馬鹿言わない!」
リンネは思わず、大声を出した。
最近、グリムといると調子が狂う。
まんざらでもない自分がいるのを感じて、わけがわからなくなる。
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「で、この惨状と言うわけか」
ライトが小声で嫌味っぽく言う。
部屋の中央のテーブルでは、黒の勇者とグリムが向かい合って座っている。
黒の勇者はスマートフォンに、グリムは手紙に向かって無表情で考え込んでいる。
その二人の間に流れる沈黙が、重い空気を場にもたらしていた。
「惨状っていうのは表現としては正しくないのではないですか?」
リンネは面白くなくて、思わず言い返す。
「なら暗鬱だ」
無駄に口の回る男だ。リンネは呆れてしまった。
「ぱっぱと終わらせてくれんものかな。雑談もできん」
ライトが部屋中に響き渡る声で言う。
「そう簡単に終わったら苦労しないわよ」
黒の勇者は憂鬱げにスマートフォンを見つめている。
グリムは、返事もしない。
「あー、駄目だ。どっかで飲んでくる」
そう言って、ライトは部屋を出てしまった。
リンネは座り込んで、二人の様子を見守る。
マシロは何処か北壁の中をうろついているのだろう。
二人共、動かぬままに夕食の時間がやって来た。
運ばれてきた簡易的な食事を、二人はスマートフォンと手紙に視線を落としながら食べる。
「食事中ぐらいやめろよ」
ライトが迷惑げに言う。
「あんたと会話する義理もないわ。私は今悩んでいるの」
「その悩んでいますってポーズをやめろと言っている」
黒の勇者は苛立ったように顔を上げた。
「言ったわね」
「ああ言ったさ。可哀想なヒロインを演出するのはやめろと言うんだ。お前はヒロインという歳でもないだろう」
リンネは頭を抱えたいような気分になった。この人はどうしてこう捻くれた物言いになるのだろう。
「歳のことまで言ったわね」
「ああ言ったさ」
「叩きのめしてやる……」
「やれるならやってみろ。いつもお前は口だけだろう。戦えば少しはすっきりして頭も回るだろうさ」
「そう。じゃあ今日という今日はやるしかないみたいね」
「いいだろう。雌雄を決しようじゃないか」
ライトが立ち上がる。
「雌雄はもう決まってるじゃない」
黒の勇者も立ち上がる。
「言葉の綾だ」
「まあまあ、それぐらいにして」
マシロは呑気に仲介に入る。
「あんまり考えすぎるのも良くないよ。思ったまま、素直な言葉を伝えればいいんだ」
黒の勇者は、少し冷静になったようで、腰を下ろした。
「……怒られるのが、怖いのよ」
神奈は、呟くように言った。
「いくつになっても、親の前では子供のままだわ。私は」
「それでも、いつかは立ち向かわねばなるまい」
ライトは、ぼやくように言う。
「……そう、ね……」
沈黙が場に漂った。
ライトは不味そうに食事を摂ると、部屋を出ていった。
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神奈は、決意を固めた。
スマートフォンを操作し、親の連絡先へとダイヤルする。
しばらくのコール音の後、父が電話に出た。
「神奈か? 今、何処にいる?」
神奈は思い出していた。
子供時代、神奈が交通事故にあった時。父は、同じように不安の篭った声を出していた。
「お父さん、心配かけてごめんなさい」
「それはいい、何処にいるんだ」
「言えないの。今は、まだ……」
「どうなってるんだ。仕事も放り出して。行方不明だなんて。大人のやることじゃないぞ」
「はい……」
沈黙が漂う。
父は、喉元に言葉が詰まっているような様子だった。
「ご飯は、食べているのか?」
「しっかり食べてる」
「良く、眠れているか?」
「眠れてる」
「そうか……」
父はまたしばし、黙り込んだ。
神奈は、審判を待つ被告人の気持ちだった。
「何はともあれ、お前が元気なら、良かった」
神奈は、その一言で、体が軽くなるのを感じた。
知らず知らずのうちに抱えていた罪悪感。それが浄化されるような思いだった。
「いつか、帰ってくるんだよな……?」
帰ることは出来ない。ここと父の住む地は地続きではない。
けれども、神奈は微笑んだ。
「うん。約束する。だから、待ってて」
神奈は、目に滲んだ涙を拭った。
それは、優しい嘘だった。
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補給隊が北壁から去っていく。それを、グリムは見送っていた。
その隣に、リンネが並ぶ。
「手紙、送ったんだ?」
「どうにかな」
「気分はどう?」
「懺悔して爽やかな気持ちだ」
「なら、この行動は正しかったんだよ」
「そうだな」
グリムは苦笑する。
そして、リンネをまっすぐに見た。
「君と会って、俺の世界は変わった」
リンネは、心音が高くなるのを感じた。
「そんな、大げさな」
「いや、俺は君のおかげで生への執着を得て、君のおかげで母と和解できた。君は俺を変えてくれた人だ」
「買いかぶり過ぎだよ」
「いつか、俺の母と会ってくれないだろうか」
「……いいよ。グリムのお母さんとなら、仲良くなれそうな気がする」
「そうか」
グリムは微笑んだ。
(なんか外堀を徐々に埋められている気がする……)
一抹の不安を覚えたリンネだった。
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そして、一行の間にはいつもの空気が戻ってきた。
神奈もグリムも上機嫌だ。
それはそれでライトは不服らしく、こんなことを言う。
「そんなに脳天気になるもんかね」
「あんたは鬱屈してても上機嫌になっても不満なのね。私はどんな顔をしていればいいのかしら」
「まあそうさな。一理ある」
珍しく、ライトは引き下がった。今の穏やかな空気を大事にしたいのかもしれない。
「私、ずっと引け目を持ってた。けど、今、とても自由な気持ち。魔王との決戦に、万全な気持ちで望めるわ」
「そこまで、親の比重は強いかね」
「ええ、そうよ。ライトなんて、親泣かせなんだろうけれど」
「これでも立派な息子をやってたつもりだぜ。親には育ててもらった。その恩は返したつもりだ」
「薄情なんだ」
「そうさな。お前に言わせればそうなんだろう。俺に言わせれば、お前は親離れできていない」
「そうかな」
「そうさ」
「そうなのかなー……」
神奈は考え込む。そう言われてしまえば、それまでだ。
「私の親はあの人しかいないし、あの人の子供は私かいない。その絆が、私には大事なんだ」
「そうですね。子供にとって親は、その人しかいない。だから、大事なのです」
「そういうもんかねえ……」
ライトは、しばし考え込んだようだった。
「声を聞いて、やっぱり良かった。また、話そうと思う」
「そうですね。私も、また手紙を書こうと思います」
「めでたしめでたし、だね」
リンネが微笑んだ。
一つの仕事を片付け、勇者一行は最後の決戦の準備をまた一つ済ませた。




