18 内なる黒
外からの視線を遮り、ひとりずつしか通さぬ門の保安設定が裏目に出ていた。
娘に続く部屋の主の大尉は、姿見を前にして娘が立ち止まったとは思いもよらず、娘の姿に蹈鞴を踏むも、間に合わなかった。
無防備の娘と、それを背から襲う暴漢。他には誰ひとりいない。
まるきりそれと同然の状況だった。
護民官の職にあろうものが、保護を依頼された小娘を手籠めにするとは・・・そんな誤解の余地があれば事実でなかろうが、土鉱と、保護を依頼した塔と、どんな無用な緊張を招くか、譲歩を迫られるかわかったものではない。
そんな瞬一の判断が大尉をして、押し倒さぬよう抱き抱えごめんと謝罪を口にするより、「邪魔」と姿見の方へ娘を突き飛ばしていた。
「きゃっ」
娘の悲鳴。
そしてそれは悪手だった。
土鉱の娘が映る自分の姿に唖然とした門内側の角合わせの姿見の実体は、反対側に立てば透けても見える特殊防護盾で、帝国兵器厰で低レベル軍用反射攻壁に改造されたものだった。
娘のからだは、瞬時にいずこからともなく現れた黒片が纏わりついて、それを攻撃と判断されて倍速にして跳ね返された。その高速な質量を受ける形の大尉。
ふたりして吹き飛ばされた。門は操作がないので通路には開かず閉じたままで、そこに衝突した。大尉は、娘と門に挟まれる形で後頭部を強く打たれて昏倒した。
娘にしてみれば、後ろから突き飛ばされた感があった途端、目の前が閉ざされて、すぐに闇が晴れればなぜかすぐ後ろの足もとに、入り口との間に、暗い青地に銀線の軍装の姿が倒れていた。
なにが起こったのかわからないが、その直前に何か叫びを聞いて背中に衝撃を感じたことから、自分が大尉を倒したと同然の状況に置かれたと思った。
「これはあたしのせい? そんなぁ」
それでも鼻から血を流して生気の無い大尉の容態を確かめなければと腰をかがめて大尉に恐る恐る手を伸ばすと、それが起こった。
娘は自分の両の手のひらから無数の黒い細片が噴き出して大尉の上体が覆うのをみた。
「ええっ、なんで、あたしの中から黒いのがでてくるのよ」
驚きを重ねて固まる娘の耳に、意味不明の詠唱のような声がどこからともなく聞こえた。それを為す術無く聞き流すこと回3、娘が困惑をさらに重ねる事態の始まりとなった。
尉官室一つとそれに付帯する幾つかの小部屋であった駐在拠点の中でも最たる簡素な仕様の帝国軍の領分は、音もなく形態の変貌を始めた。
塗り埋め込まれて隠されていた幾多の遊色乳白魔石が浮き出て姿を覗かせてどの漆喰の壁までも倍に遠く押しやった。
頭上は多重に重なりあう魔法陣。魔銀の精緻な象嵌の絡みが錯視とも判別つきかねる変容を始め、その捉えがたい煌めく紋様が溢れ、広げられた天井を高く倍に高く遠く押し上げた。
足もとの床は魔力炉の遅発の臨界がわずかに透けて見えてきた。純色の青色の波が遠くから遠くへ緩やかにさざめいて、その視線を誘う無音の幻想的な美麗の虚飾で、無知な者に強大な出力の上昇を無害に装った。
そして離れた壁のひとつがまるごと大窓にあり様を変じた。そこに壁など無かったように、開放された夜闇が白と黒の色のない景観に姿を変えて、そこに映し出される景色はすばやく速く遠く彼方をめざして動き始めた。加速し、すぐに雲を突き抜けて弾道軌道に乗り、永遠の星海を望む夜空を高く飛んで進んでいた。
灰色をした塔を外からどこから眺めても目を欺くかごとくそのような大窓などなく、この室と付帯する小部屋も、内なる者には目を欺くことのなく、真に占有する規模が拡大していた。
知られざるが最たる至高遠までほど遠くない所を求める秘匿のコードが、組み込まれた手順に従い自動執行されていた。
魔法を名に持つ自治領であり魔法資源も潤沢だった。それを鑑みても、広大な辺境に数ある室一級の尉官駐在分室としては度をはずした高いレベルの魔力が投射されていた。
娘が帝国分室の変貌と大窓の映像に目を奪われている間に、大尉の上体を覆っていた黒の小片は失せていた。それとともに、鼻血の黒いこびりも消えていて意識が回復した大尉。
訓練が大尉をして慎重に行動を始めさせていた。
最小の動きで自身の身体状況を確認。閉じた門に背を預け腰を落として座り込んだ姿勢だが身体に別状無し。すぐ目の前に見えるのは、これは土鉱に違いない娘の尻、部屋の中の方を見ているようだ。
その慎重は、娘のからだの向こうの有様に目の焦点があうやいなや、蒸発した。
「なっ、なんだこれは」
思わず娘の柔な双丘をぐいと押しのけて立ち上がった。
「きゃっ、わかりません、あたし、なにもしてません、なにもしてません、本当です」
大尉が「なぜ室が起動している」とそう呟いたところで、大窓からまばゆい光が差し込んできた。
丸い地平線のむこうに隠れようとするこの星の太陽に追いついた光だった。そのまばゆい輝きのもとで、大窓に映る眼下の景色は、彼方から現れ、色のない白黒から夕暮れの赤、そして青や緑や茶の色を取りもどしつつ、手前に流れていた。やがて高度は下がり、白い雲間の向こうに午後もまだ昼の内の大都市、帝都に違いない広がりが見えてきていた。空も青くなってきた。
自分が意図したものでない、帝国軍本省との遠距離通信連結が確立しようとしていた。
娘がこの土鉱の小娘がなしたというのか。本人は否定はしているが、関係がないはずがない。誤作動だろうか、いやそうだとしても、娘が関係していないはずがなかった。
娘を反射攻壁に突き飛ばしたは、まずい対応だった。倍速で跳ね返された娘のからだをうけて門と衝突して自分は意識を落とした。たぶんそう言うことだったのだろう。そして
突き飛ばした瞬一、娘は確かに黒く姿を変えた。自分は気を失ったがなぜか少しの打撲のあともない。十のうち九か八、娘もそうだ。
夜の分限と知られる異種が帝国が支配の要のひとつ、灰の魔法の塔の分室内で顕現、その状態で自分が意識を消失していた。公安事案となっていた。
現状は異種が自治領司令室に侵入。帝国の主権が侵害されている、外交がらみの問題が起きている、いち大尉にすぎない自分の権限を越えているやもしれない。
この土鉱の娘はたんに美麗を極める小娘にあらず、夜の分限にもかかわるもの。塔の調査官はなんというものの保護を求めることをしてくれたのか。かりにも魔法師であろうに、いや魔法師だからこそ機会をのがさず試さずにはいられなかったのか。
大尉はそう理解して行った。
その可能性までは考えが及ばず、門にとおしてしまった。ずいぶんと易く見られたものだ。この厄介ごとの貸しは高くつかせてもらおう。
それにしてもうかつだった。そのあと、まさか門のすぐ向こう側で娘が立ち止まっていてそれを突き飛ばしてしまうとは。
その際、娘は黒くなったからには、夜の分限に憑依されているのは明白だろう。だが体当たりされたのは、自分が娘を反射攻壁に突き飛ばしてしまったせいであり、故意の攻撃ではない、事故であり、そしてふたりともなぜか打ち身のひとつもない。その穏便路線のシナリオで行こう。
そう方針を決めた大尉が「おい」と声をかけると、そばで大窓の景色に目を奪われていた娘は守るように自分の身を抱いて、いやいやという風に後ずさった。
「お、お許しを」
「許しもなにもない、ちょっとこちらへ来い」
「だって、あたし、これから御無体なことをされるとこでしょう」
「誰にだ」
「ええとあなた様に・・・違うんですか」
「はあ? 何を言っている」
「あたし、番わされるんでは」
「(辺域の)部族娘の相手をする? それがそちらののぞみか」
「いえいえ、そんなことないです、けどあたしってすごくいい美雛みたいだし、いい匂いもしますよぅ」
「ふん、それはこの部屋の薫香※だ。地雷は踏まん、黙って口を閉じてついてこい」
「せっかく合法美雛子になったみたいなのにちょっとだけでも手出しされないとは、それはそれでなんか」
「おい、帝国法で処罰されたくなければ、ふざけたことは言うな、黙れ、口を開くな。それからついてくるだけで、なにも触れる盗るな」
土鉱の娘は、それが本能、そばの壁の遊色乳白魔石のひとつに伸ばしかけた癖の手をびくっと引き、首をこくこく縦にうなずくと、大尉にいそいそとついて広大窓の前まで遠くなった部屋を歩いた。
それでも映る景色に本省の環状列百魔石陣が現れ、その構成のうちのひとつ、灰の魔法の塔を模した巨石に間に命中する段になると、迫真の映像にひっと思わず声が洩れてしまい、それをひと睨みして大尉は娘を左に横並び立たせた。
「ここでじっとして動くな。いいか許しを聞くまでじっとしてしゃべるなよ、絶対しゃべるなよ」
遠隔の地、遙か遠く、日が没しつつある地平を越え、さらに遙か遠く遠く、帝都へ、帝国の軍政の枢密へ、そこのまだ暑い夏の昼光を浴びる環状列百魔石陣の構成石の一つとの時空の同調がなり、大窓の映像が暗転してそこに帝国の輝ける旗章が映し出された。
目の前の床の何もなかったところからすーっと円柱が生えて、その上端は内部より魔法陣が投影された半透の半球で、それを右手で掴む大尉。
大窓に認証終了の文字が現れて本省外部局辺域監察軍MFMの直属上司の執務室に繋がった。飛竜騎手大尉は戦闘語CLで事案の要約を始めた。
大尉が直属する上司なら普通は佐官さまだよね。それがなんでそれより上、雲の上の将官さまなの。話しがところどころしか聞き取れず、ぼんやりとそんなことを考えていた。
かろうじてわかったことは土鉱と塔に黒の異種と帝国軍の四重奏。
あたしのことながらなんてややこしい状況だろうと思う。とてもじゃないけどやってられないよ。それもこれもあの雛子の対、隣領でここに向かう幼い対の無事を見届けてやろうと峠までつけたのが、そもそもの始まりだったと思う。あの視線、キロ1離れても巨竜の愕前に勝る威圧に比べたら、これくらいなんてこともないよって、あたし、遠隔でお偉いさまに値踏みされてるよ。
いつの間にやらCL要約が終わっていた。
不意打ちで、頭の天辺から髪の毛がふわっと少し浮いてきて、頬を首筋を、胸の起伏とお腹からくだるところを、背と腰とそのしたを、大窓通しの魔力でまさぐられ、そのくすぐる熱感が手足の先の方へ拡散して行った。こんなの初めて。
「あんあーん」
やだ、思わず、唇から声が洩れてしまったけど、これはおしゃべりじゃないからいいよね。
「間者とは思えないほど堪え性がないな、演技とも思えんが」
「ですが閣下、この容姿です。ハニートラップの可能性は否定できません」
えっ、なに、あたしがなにって。
そういえば姿見に映ったあたしは確かに・・・あたしのままで、とんでもない美少女、うっかり自分に見とれてしまうほどの合法雛子な美少女になっていた、うん、そうなの。
「ふっ、やり〇んのきさまがそれをいうか」
「閣下、お戯れを。いずこが企むものであれ相手がトラップでは役得になりえません」
「・・・・・・よし、そこの状況への対応はきさまの責務として自治領内の帝国警察権及び司法権をきさまに暫定委嘱、形式は大命準拠とする。今回の連結の経費を含め妥当性は主計に了承させる。何か動きがあれば連結ではなく連絡でせよ、手を煩わせるなよ大尉、事後報告となることは辺遠ゆえの織りこみ済みとする」
上司がお偉い将官さまで、そこからこれは自由裁量権だよね、その許しがいただけるなんて、この若い大尉、なにものなの。いけ好かない魔法者だけど、抱かれてみかえりに頼りにしていいかも。あたしは見捨てられた土鉱の小娘だし、仕方ないよね。
「はーふー」
ゆっくり息して目を閉じてからだの火照りが引くのを待つそのあいだに、いつのまにやら、大窓は壁のひとつに、あたしの遊色乳白魔石もすべて壁内にひっこんで、部屋の様子は元に、全て変化の前の見かけに戻っていた。
「おい、落ち着いたらこちらへきて、そこの向かいの椅子に座れ。詳しい話しを聞こう。調書を取る」
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「目立たないようにしていたら、そのせいで間者に選ばれた。そして知らぬうちに、その姿になっていたと」
「そうですなのにゃ、大尉さみゃぁ」とあたし。
「おい、おかしな口調で、にらむのはやめれ、いい加減にしろ」
「にらんでないもん、これは上目遣いだもん」
「尻尾もない部族民のくせに、子雛ぶっても無駄だ。得体のしれぬ者に取り入られる気は無い」
「でも、部族からひどい仕打ちされて灰の魔法の塔に下れと追い出されたもん、帰るとこはここしかないもん」
「わかったわかった、今晩は泊めてやるから、もう一度話せ、塔の調査官との関係は?」
「情報の交換の繋がり?」
「お前のようなかけ出しが手練れとか? おこがましい」
「たぶん繋がりがばれちゃって部族を追い出されたんだと思う」
「ふん、それで」
「峠に登りきったところで行き倒れたの。次に気がついたら、なぜか塔の通路。そしてなぜか仕打ちの傷もなおってた」
「ふん、そっちの話しは今はいい、おまえ、塔の調査官とはどこで繋がった」
「大尉さま」
「なんだ」
「あたし、言っときますけど誰とも番ったことありませんから」
「誰もそんなことはきいてない」
「ならいいです。あたしは目立たないことだけは、少し自信がありました。だからつけいられる隙をみせるなんてことも、普通なら無いことなんです」
「おい、目立たないことと隙をみせないことは別だろう」
「わかってます。でも、そうじゃないんです。あの日、あれっ、まだ今日のことかな、随分と遠い前のことのような気がする。あたし、峠むこうの隣領でこの塔に向かう不審な雛子を見張ってました。そして峠まで見届けたとき・・・
話しながらあたしは鮮明に思い出していた。
キロ1は離れていた。
それでも息をするのも憚られる威圧に身がすくんだ。
とうに気づかれていたとわかった。
振り向きを止めて豆粒より小さな対の姿がちょうど輜重の道のかどになっている峠の稜の向こうに見えなくなるまで、わずか分1。たかが分1、されど分1。これほど長く感じる分1はなかった。
洞で巨竜に獲物に足りずとばかり開いた牙百並ぶ顎門に見逃された、死九に生一、生き延びられた、その時のトラウマよりもこれは耐えがたかった。
・・・それで余裕無くしてあせったあたしは、目立たないでいることを忘れて、それがたぶん隙と同じになって」
「塔の調査官に魔法で落とされたというのか、違うだろうな」
「違うんですか」
「塔の手練れの調査官が雛子を見守る眼前に、飛び込んできた邪魔な新人の間者、匹いちの方がまだしもありそうな話しだな」
「むう」
「それで、その不審な雛子というのはなんだ」
「はい、それが見た目からして変なんですよ、ともにせいぜい7かそこらの歳の牡と雌で、白黒の対の長頭巾付きの長上着を着てました。あれ? 大尉、どうかしましたか」
「・・・おまえ、白と黒の雛子の対にあっていたのか」
「さっきからその話しをしてますけど、きゃっ」
大尉は急に立ち上がると机を押し倒さんばかりに身を乗り出してきて告げた。
「よし、決めた、決めたぞ、お前」
あたしの両肩をがしっと掴んで正面に顔をよせてくる大尉。
えーと、これはもしかしてあれだよね、絶対あれだよね、そう思ったあたしは目をとじて唇を・・・
「お前、本官の権限に応じ徴用されろ、部族出でまがりなりにも間者技能持ちだから、等3特務兵な」
こらー、あたしのどきどき返せー!
「ひどい、ひどいよ」
「ん、そうか、だが、新兵は等3。技能持ちで特務をつけてやったから、等一兵相当だ。それで本官の従僕も務まるだろう」
「ひどすぎる・・・」
「それでも不満か、よし明日から特別訓練だ。CL検定準級2をとれ。それで等2特務兵に昇進させてやろう、特務でなければ等3曹相当で喜べ”個室”っぽいものがお前の割り当てになる」
「・・・個室でなくて、””でかこったぽいものなんですか」
「今は無人だがプライベートがない段4組寝台より、狭い棚でも遮蔽ある寝台をやろう、個室はいやか?」
「そうではないですけど」
大尉の寝台に連れ込まれてするのとどっちがいいだろう。あれ、なんかおかしい。
どきん
「お前は灰の魔法の塔へ下れ」
どきん
あれ? 心の奥底までまだその言葉は突き刺ささっていた。
「お前は灰の魔法の塔へ下れ(そして情を発し、番え)」
えっ
なんで劣情の魔法、あたしにそれがかかっているの
あ、あたし、あたし、保険。部族全滅時の保険。
ちらっと脳裏をかすめたまさかが、まさかが、まさかが・・・
「事情聴取は明日も続ける、集合寝台の好きな棚段で休め、明日は時刻0530起床だ。うわっ、どうした、目が赤いぞ」
気がついたら、あたしは濡れらした頬を大尉の胸に押し当てていた。
「・・・すみません、少し、こうさせていてください・・・上官殿」
※部屋の薫香:そしてその鏡の前に立つことは、にわかに、室を満たす清浄なる香を嗅ぐことになり、入室を許された新参の者をして息をすることからして畏れ入ることを強いてやむことの無いものだった。