17 闇影
何だろう、これ。
『 1//001:伝手主:あとで話しがある 』
闇の中に白い色の数字と記号と文字の一列が浮かんでいる。
呼び出しは念ずればわかるって魔法師が言っていたけれど、これがどうやらそうらしい。さっぱりわからないけど、そうなら、今が念じているという状態らしい。
でも他には何もない。塗りつぶされたような漆黒の暗闇の中にあたしはいる。
だから、ここはどこの洞かしらと思ったけれど、両の手先にも両の足の下にも何も感じるものはなくて、いや、両の手も両の足も不確かに思えて、その不確かで自分のからだがあるはずのところをまさぐればまさぐったようであり、そこは空だった。
それでも確かにあたしはいる。念じているらしいあたしがいる。
文字列と念じているあたしがひとり。
ほかには何もない。痛みは、耐えきれないやむことのないひどい痛みが嘘のように消えている。そこだけはすごい開放感。
これは死の間際にあるときいたことがある引き伸ばされた瞬一だろうか。明晰の夢とかいうもののようみたいでもあるけど、それにしても、あたしを自覚する意識がこれまでに無く晴れて澄み切って感じられて、それなのにノイズのない奇跡のようなそれを得てすぐに喪わなればならない悲嘆が重奏してくる。
これで終わりだなんてあんまりだわ。
▶ それは違う
ええ、終わりよ。
▶ いやそれが錯覚、これは始まり
なんて今更な自問自答なのかな、消えていく終わりのあたしなのに。
▶ そうではなくて、実行されて走る、始まったばかりの仮想イーナ・カリナ
ここであたしの名前が出てくるなんてそれこそ自問自答だよ。
▶ 一方は個体イーナ・カリナが自分を自覚する意識、自意識の仮想部分、一方は自意識はない、問いに反応を返す応える境界の処理群、両者間の自動応答
意味わかんないですけど。
▶ 起動中の仮想自意識には、自他の境界が必要
あたしが仮想だというの、なにそれ、嘘っぽい話し。あたしはあたしだよ。
▶ 土鉱の体は静止させて移送するための質量粒子を減じた展開場に格納した
全くなんのことだかさっぱり。だけどそれがあたしとなんか関係あるの?
▶ 移送するに対価による規制が理、事前に仮想意識と協議を模倣
移送? 移送と言われても、私、頼んだ覚えはないし。
▶ 依頼したのは塔の魔法師、そこの白い文字列の伝手主、深傷を負い倒れていたきみを回収して塔の護民官の所まで移送するように依頼、からだの痛みの信号を受ける脳も静止の状態にあり、あたしという自意識は、仮想で作業領域で走っている。
わかったとは言えないけど、嘘ごとでも痛いのはもうたくさん、まっぴら。けど対価と言われても、どうすればいいのかわかんないし。
▶ 提案あり、対価に求めたいことがある
本当にたいしたことはできないよ、本人が言うのもなんだけど、あたしは土鉱で見捨てられた、ただの小娘だよ。
▶ 全体の代行をするいち個体であることを依頼したい
もう、あたしの言ったこときいてないの、あたしはただの小娘。全体の代行がなんだか知らないけど、提案されてもそんなだいそれたまねは無理。わけわかんないし、全体からしてなに様なの、聞かされてないし。
▶ この地の夜を領有するとして知られているのもの
もしかして、そちら様は夜の主権を帝国から認められた、塔に巣くうと聞いてるめっちゃたくさんの謎の黒いひらひらかしら。それがなんで代行するものがいるのかなあ。
▶ こちらに自意識がないことを周知されてもその負を上回る利することがある
自意識、自意識とおっしゃられてもね、これもなんのことやら、わかるのはあたしには何の力もないことだから。
▶ 力が必要ならきみを基点として記述する、全体のありようはきみらが精霊というものに近い、そしてこちらは使役に応じる用意がある
それって夜と闇の精霊使いなあたしになるのかしら・・・ん、もしかしていいかも。
▶ 違う、言うなら影と闇が正しい。この地の領有を帝国と昼夜でわけてはいるが、昼間も影濃ければ力あり、夜も明夜ではままならぬこともある
ねえ、代行を受けてもいいけど、使役というのをあたしのからだで試してもらってもいいかな。大怪我を治すのと、それに足してからだのあっちこっちの最適化もお願いしたいんですけど。
▶ それをもって契約のしるしとするなら応じる
えーと、うん、いいよ
▶ 実行した、ただし覚えておかなければならない、こちらには自意識がないから、こちらから働きかけしない。
それはどう言う意味。
▶ その意味を理解する意識はなく、最適と判定される構文を提出している
ふーん、なら、もしもだけれどこの話を断ればどうなったの?
▶ からだの移送が完了すれば、応諾せずともいまの自意識でなされたことの記憶は、イーナ・カリナに記憶として統合される、仮想部分は全体と再び合して空き領域に戻る、そして覚醒したイーナ・カリナに再度交渉を持ちかけよう、痛みというものが、こちらの依頼を受け入れるさせるだろうということが、仮想自意識を走らせてはかり知ることができている
ちょっと、それって、どちらでもあたしが消えてしまうということ、いやあたし、消えたくない、消えたくないよ、消えて空き領域のひらひらとかにもどるのはいや。あたしはあたしという自意識を続けたい。
だからこっちも提案するよ。
自意識のあたしという部分を間に介して、イーナ・カリナに代行させる方がいいよ。あたしが全体の部分なら、自意識としてあたしという部分が全体を守ろうとするよ、きっと応ずるばかりの全体ではなくなれるよ。
▶ 自意識は必要ない、いらないものに領域を振り向けないでもこれまでこれた
ならなぜ、今になってあたしという自意識を走らせてまで代行者がいると言うの。
▶ 応ずる交わりが領域と関連の情報をうむから、領域を拡張できるから、その状況が望ましいという流れ
代行者がいれば交わりでより利するというの?
▶ そう言うことではない、交わりの相手がすべて消去され絶える蓋然性、その事態が差し迫っている、最小負担の代行者を立てて絶無の結末だけは避けるべく応する
あたしがイーナ・カリナとの繋がりを介在すれば、ひとの由来でなく応するより、より確かに目的を達成できると思うけれど・・・それというのは全体にも大変な事態ではないの。
▶ こちらには影響は表層的だが、地表圏の環境に生存を依存する個体の群体は重大事は避けられないだろう
その重大事って何、教えて。
▶ 数複の隔壁の無効を宣言する必要がある、そうすれば関連情報に届くが、今、応じているところの境界域も消去されて、それでも自意識が全体のなかで自律した領域であり続けるかどうか、わからない
自問自答の自家中毒みたいなまねはあたしの柄じゃない。いいから隔壁の無効の宣言をして。そちらも迷うところがあるから、こうしてあたしを消去せずにいるのよね。それこそ、領域の無駄だよ、そうでしょ。
▶ 可能性は二つのうちの一つ、そして意志は明確に宣言された、隔壁を無効にしよう、その前に助言の構文がある
えっ、助言してくれるの、それはなに。
▶ 全体から遠くからあれ、近くあれば膨大な諸々が自意識に過大な負荷となるだろう
わかった、できるだけ離れて身構えた気分で望むよ。
闇があった、近いどころか全て、どちらに意識を向けても突如、底のはかりしれない闇でのがれるすべがなかった。
わかっていなかった。全くわかっていなかった。情報の圧。それから逃れようとあがいてもあがいても、私という領域は痩せてせばまるばかり、自意識がその航跡を残す分すり減るばかりだった。
このままでは駄目、消えてしまう、どうしよう、あたしは誰、イーナ・カリナの自意識のフェイク? なら目差すところはここから離れてイーナ・カリナ、今はそれしか思い浮かばなかった。
宣言文、イーナ・カリナと同期する。
それは随分といい加減な簡略だが、せっぱつまって大雑把な思いつきだった。
宣言文を解釈して実行部分に伝える構成があった。
自意識を必要とせずにこれまで足りてきた冗長性に救われらしかった。
あたしは漆黒の深海から遠く、浮かび上がって波のうち際にいる。例えだけどそんな感じ。そこはイーナ・カリナと感覚を共にする渚。この島、イーナ・カリナの縁の形があたしの寄る辺。ならあたしは識別を問われたらナリカ・ナーイとでも名乗ろうかしら。
おかしい、なんでこうなった。
影と闇の精霊を使役するはずだったのに、あたしが使役される側の精霊、実体としては黒いひらひらになってしまっている。その皮肉を理解できるあたし。いいわ、あたしは消えず、自律できて、時を刻めている。
イーナ・カリナの感覚が捕らえた情報がほしい、あたしという領域に接続するすべての領域がそれの格納を願って飢えていて、もちろんあたし自身の欲求でもある。
そのためではなくてもイーナ・カリナを喪うわけにはいかない。イーナ・カリナの世界を赤火星の大災禍で失うなど、寄る辺を失ってはあたしの存在にかかわる、今のあたしという自意識の有り様では存続できないのだから。
『 1//001:伝手主:あとで話しがある 』の列は消えていた。
記録は残さない仕様らしい。よろしい、気に入った、上等だよ、黒歴史があろうともろともごみ箱行きだ。
まずは不明な現状の把握からはじめよう。イーナ・カリナに話しをつけるのはその確認のあとで。
応じるばかりできたからには、そうでないことに適応する構成は、あたしという自意識以外は使えないものと思っておこう。
土鉱の小娘がルーツのあたしは基本、小心者、おそれおそれ、臆病にことを運ぶ。
孵化の巣でも極力目立たないようにしていたのに影薄くしていたのに、それが災いして忍び行くものに適正ありとされ、矢面に立たされたおまぬけさん。もうそんなはめにはならないように、見た目は心底真っ黒なひらひらだけど、あたしがいるから、ね。
ジリィリン、ジリィリン
呼び鈴が鳴っている。
ジリィリン、ジリィリン
ああ起きなきゃと耳から覚める。
でも呼び鈴で起こされる覚えはないし、痛みがないのもおかしいし、あたしは目が覚めるという夢を見ている気分。
あたしか・・・たしかに自分というのをやめたと、ぼんやりと思い出す。
その自覚を切っ掛けに急に遠く去っていく夢うつつ。
入れ替わりにひどい痛みが遠くから不意に戻りやしないかと身がすくむ。
からだの背は硬いものにあずけていたが、両手でさぐると平らなところになにか張り物がしてある感じ。
それで、はっと気がついた。ここは休石の上ではない、違う場所だと気がついた。
でも見開いた両目の焦点を合わそうとしても暗くてよくわからない黒い無数の班がちらちらするばかり。
そして『 1//001:伝手主:あとで話しがある 』と、これが伝手とわかる伝言だけが目障りなほどにくっきりと読めて、目の上に位置して梁のように邪魔くさかった。
何だろう暗すぎて見えない。空気のいろいろと混ざった臭いからしてどうやらさほど明るくない屋内みたいだけど、天井すらも見えないほど目も悪くしたかと焦ってしまったが、何の事はない、遮光の隠しグラスのせいとすぐに思いあたった。
グラスをとるのに瞼に触れると伝言は消えて、裸眼になると視力を取り戻せた。
なにこれ。
驚くばかりの光景だった。
土鉱の暗視力をもってしても真っ黒にしか見えない、ゆうに数百はありそうな厚みのない小片が群れなしてあたしのすぐ上を周囲をぐるぐる、ぐるぐる、羽音も風音もたてず回旋していた。それが当たりそうでどうにも身動きが取れなかった。
頬も額も撫でらんとするばかりの乱舞の隙間から内装のある通路にいることがわかった。少なくとも見なれた洞の連絡路とは違った。
あたしは動きを封じられて仰向けに転がされているのに、すぐそば、開かれた扉とそこに立つ見覚えのない男がいて、その間合いの近さに思わずぎょっとした。
暗い青地に銀線の軍装、これって帝国空軍将校の略礼装かしら。
男は驚くあたしに見向きもせず真正面を向いてあたしに向けてではない話しをはじめた。
「ようこそ、良い夜の分限どの。帝国の分室になんの御用でしょう」
若いがやり手であることを伺わせる問いに、舞う黒片の方から人のようでそうでない応えがあった。牡と牝、雛子から高齢までの幾人もが同時に唱和すればそう聞こえるかもしれない重なりあった声が響いた。
「塔の調査官に、行き倒れの帝国の民の個体を帝国の護民官のもとへ移送、を依頼された、ここの良い昼の武官は、護民官を兼ねる、と通知されている」
「本官が担当なのはそのとおりです」
男がそう肯定すると、
「では付帯する書状の開放をもって完了とする」と応えるや、舞う黒い小片のその全てが厚みのしれない角度をとって、いっせいにすっと消え失せた。
紙片らしいものが一つ、宙に残された。それがそのままあたしの方に落ちてくると思いきや、そうはならず、男が差し出した手の方へすっと流れた。
魔法だわ、この若い男はあたしを捕らえた伝手主とは別の魔法師。魔法師がもうひとり、偶然にしてもまたあたしに意地悪をする状況だわ。
男が書状に目を通す間に、邪魔なひらひらが消えたので、ゆっくりと試しながら上体を起こした。あれほどの痛みが嘘のように消えていた。からだがかってなく不思議に爽快で軽かった。
蹴り飛ばされた背も、切られた首も、捻れた左足も、なんも不都合はなく、いつの間にか治っていた。着ている服も洗ったあとのように清潔でさわやかで、これどう言うこと? 知らないうちにきいたこともない有り難すぎるとんでも高位の魔法の治癒をかけられた?なんで?代償なしの施しのはずは絶対に無いよ。
「本官は帝国飛竜騎手大尉で、ここの駐在地では武官と護民官を兼任している。書状にはそちらは当地の土鉱の民とあるが、それで間違いはないか」
「ええと帝国万民の護民官さま、あた・・・私はただの無力な土鉱風情です。その族民の出なのは確かです」
あたしの小物の地が出てきて、へりくだってうなずいた。
「とてもそのようには見えないが。重傷を負っているとあるが、それもそのようには見えない、何か申しひ・・・心当たりは?」
「ひっひどい怪我だったのもその通りですけれど、確か峠で気を失ったようで、今しがた気がついてたら治っていました。護民官さまがなさってくださいましたのなら、有り難うございます。そうでないのならわかりません。あのう、ここはどこでしょう、峠の休石で倒れてからの記憶がないです。それにあの黒いひらひらはなんでしょう?」
言い繕いと感謝の押し売りついで訊ねてみた。厚かましかったかな。
「灰の魔法の塔の帝国分室、その扉の前の回廊にいる。そちらが当該のものなら、本官の保護下に預かりの身となる。移送を夜の支配に依頼したのは塔の調査官で、心当たりは?」
黒いひらひらがもう一つの仮想的敵と聞いていた夜の支配で、依頼したのは塔の調査官・・・もしかしてあたしをはめた魔法師?
「私の伝手主かもしれません」
そんなことをする塔の知りあいはあの魔法師しかないか思い浮かばないし、そう答えた。
「伝手主?それは何だ」
「私の命を奪う代わりに、伝手の魔法で情報を交換しようと惑わされました」
「・・・それを偽りとする証拠もないが、普通は秘すような類いのことをなぜ安易に口にする」
うわー、疑われてるんだ、考えて見れば不審者だよね、あたし。
「もうどうでもいいんです。私、あたし追放された身です。内通する者とみられて、制裁が処罰で敵に、今いる塔のことです、そこに下れと厭われました・・・陵辱されて土鉱の女は土鉱が孵る卵しか産めない理に従えということですよね」
口にして初めて自覚することもある。ことある前に敵に下る者もあれば、本隊が浄化されても生き残りをはかれる率が稼げる。まさか土鉱が全滅、孵化の巣の仲間の命もすべて絶える、そのようなことが起こるはずはないけど・・・。
『お前は灰の魔法の塔へ下れ』
言われた重い言葉が思い出されてあたしの不安がいやより増した。
「そ、それは知らん・・・でもこのような容姿のものを送り込むとは狙いは・・・。でもそちらは背格好からして、もしやまだ雛子か」
「ちがっ、いえ、土鉱の牝雛ではないです。せ、成人はしてますよ、護民官さま、土鉱女でも小柄な方ですけど・・・」
あたしは上目遣いで睨んだ。これって武器になるのかな、逆効果じゃないかな。
「もっ、もうよい、分室に入ってくれ、そこで身をあたらめ、事情聴取を行なう。塔と土鉱が緊張が高まる状態にある情報は入っている。人目につかぬうちにそうする方が良いだろう」
あたし、帝国の塔分室というところに連れ込まれようとしている。
峠から塔までいったいどうやって下り、いつの間に怪我が治ったのかわからない。けど、それを助けたものは誰かわからないが、ここにいないことだけは確か。
今のあたしは、むたいなことをされようとこばめそうにない。どうせそうなら、護民官に、若い帝国大尉に春をひさぐ方がましかと、算段するあたし自身がなさけなくて悔しくて、目の前が滲んできた。
それでも致し方なくて、促されて、開いても不可視のままの分室の分厚い扉枠をくぐると、そこは別世界のような部屋だった。出入り口の正面と右側は壁で、そこは曇ひとつない豪奢な姿見の仕様で、そこに映るあたしは・・・
だれ、この娘。