01 バイスコマンダー
夢の記憶もなかった。泥のように眠っていて目覚めた。それなのにまた得体の知れぬ喪失感、いったいなにを喪ったというのか。時刻はちょうど4と半の夜明け前、起きると決めておいた時間。任務を前に、寝が足らずとも年余の習慣で目が覚めた。不可解な感傷にひたる間はない。
頭はそんなふうに明晰さを取りもどして行ったが、若くはない体の方はそうもいかなかった。日21たってもなお違和を感じるこわばった体に活を入れる必要があった。
しょぼつく目に映る、うす暗い常夜保安のライトマジカ、暖房が切れて冷えた部屋、そしてあるだけましのパイプベッドと薄い寝具。
書類の片付けが遅れて帰宅かなわず、それでも数時刻ほど横になれた。飛ぶまで時刻一つ半。ぬるくにしかならないシャワーを浴び、装備一式身支度を調え、同じ棟内のひとけがなかろうが常時温い上級士官談話室に入った。
掲示板に連絡事項の最新張り紙。
番手1、バルーンのガス制御弁に不具合。整備で遅延時間1。
それで食べそこねた夕食のシチューのとり置き分を温めさせる時間がとれるとわかった。当番兵に手配させた。
空腹を中和香辛料を効かせた根菜とすじ肉の熱いひと皿で満たしてなだめた。
それから本日分の航空食、赤豆と刻みラルド(塩漬け燻製獣脂)のスパイス煮込みを天日で干してかためたスティックの包みに、酒精なしの蒸留水の水筒、苦い覚醒の発泡錠、そして甘い飴玉の一揃い、いつもの定番を受領し、日2前の雪がほの白くかげに残る離陸塔番1に向かった。近づくにつれ夜明け前の静寂の中、かすかに聞こえていた作業の喧噪が次第に強くなった。
ここの番3まで建てさせた離陸塔は毒塵舞い上がった全世界地空震にも耐えた堅牢な鉄の骨組みの高50もの巨大な天蓋のない円筒の構造で、バルーンの格納庫を兼ねている。
その向こう、近いところでキロ1離れた低い丘が連なるゆるやかな稜線の曲線の上、白んで橙色に明け染めはじめた空を背景に、まだ日を受けぬ細い雲が数条、黒くたなびいていた。
まだ暗い他の三方、南西北に天頂まで見ると全天の雲量は略1と知れた。
地上の風は西北西の1弱だが気温は0未満で、乾いた冷気に髭をあたった頬が少しちりちりした。
この季節、肌身を曝して上がるようなことはないが、そんなまねをすれば氷霜を降ろす明前の寒気が鋭利な刃やいばとなって吹きつけてくるだろう。
それでも今朝は冬の月2のはじめとしては悪くなかった。澄んだ晴天が拡がる上々の哨戒日和だった。
重装備のフライトスーツの見た目ほどにはごわつかないグローブで、ヘルメットから眼保護のゴーグルを降ろして顔の上半分を覆った。
研磨されたガラスに問題はなく、方位北西から方位南東の方向へゆっくりと流れる明けの小さな星が一つ、いや今朝は追うように二つ目のかすかな光点が見えた。
西向きのものだけなぜかみられていない、流星とは違うあれがなになのか、ゆっくりとした点滅を繰り返すものもあり、宵の空にも見られる。
ここの監視哨の日報にもさほど日を置かず載るが、星界の眷属なのだろうか。各基地からの観測結果を照合すると、高度キロ200以上を秒速キロ7を越えて飛翔しているらしい、手出しはおろか、鑑定もとどきようがないとんでもない代物であることはわかっている。帝都軍務省の参謀本部は脅威上位の評価をいれてはいなかった。
火気不可表示の重い鉄の扉をおし、外まであふれてくる喧噪の中に入った。
索条や滑車のタール臭濃い中、不安定極まりない危険な爆裂ガスで膨れ上がった巨大なバルーンが整備の低い位置まで引き下げて繋留されていた。
まばらなライトマジカでも黄ばみがわかる逆水滴型の耐爆仕様の結界嚢はその細くしぼまった底部が、濃淡ある灰色模様の哨戒飛竜(哨飛と略)の胸腹帯と数4の短い索条で繋がっていた。
アイマスクで視界をふさがれてうずくまる竜が吐く金臭い白い息の合間にあわせ、給餌員が触媒の黒い細粒をまぶした黄色や白の脂身肉を義手の先につけた黒びかりする鉤で引っ掛けて、横から赤い口吻の奥に突っ込んでいた。
「副司令官閣下。時間1遅延スケジュールで任務の実施が可能です。再度確認します。標準手順で高度400で発進。気温が氷点下2より下がらなければ、気速キロ180、気流制御静電で時間13まで滞空可能です。番17哨飛の翼4みな状態優ですが巡空中は氷結せぬよう晴空でも高度400以下を保って下さい。右後脚は先月の踵骨骨折が癒合したばかりで状態はみなし可です。養生中のため、帰りは登り面失速着地ではなくプール番2着水でお願いします、云々」
竜付きの年配の曹長がだみ声でいつに増して早口でブリーフィングを繰り返した。
ひとあし先に来ていた後席搭乗員もすぐそばに控えて耳を傾けていた。昨日急ぎあつらえさせたばかりの青より黒い真っ新な冬のフライトスーツにどう見ても逆に着られている感の小柄で繊細な容姿。若さが痛々しかった。
翼の長さを極めさせた哨飛は、平地からの自走発進はもとより、苛烈な加速Gのカタパルトも実際的ではなく、負担の小さい空中発進が常で、脚の状態に多少問題あろうが任務自体の遂行は可能ではあった。
そこで、いささかロートルな搭乗資格者にひよこだが使える新人をあてがえば、員数外の臨時セットをひとつ計上。それで最極東基地から出せる重複哨戒は段2から段3に回復。その番手1として飛び、高度350で東へ時間5進出、そこから北へ時間2、そして略西南西へ時間5で帰投と言うのが昨日決めたフライトプランの大筋だった。
雲や霞みの気象条件に恵まれても、低いと視程が限られるので少しでも高く飛びたいところだが、上ほど強い寒冷がそれを許さない。
秘匿開発してきた哨飛、デイオーバー種の鱗の断熱性能は軽量化優先でまだそれなりだ。
革新的な軍事機密、静電位気流制御の実用化にこぎつけて航続距離は比類なく長大化できても、降雪域やこの季節の氷温下の雲中飛翔は無謀以外のなにものでもない。それでなくても気象状況不明の大洋上を時間残1まで飛ぶのは厳しい。
搭乗する方もフライトスーツに守られてはいるが、風防は軽量優先のないよりは少しまし程度の細い最小サイズで、長時間の吹き曝しで体力も気力も消耗する。
しかしながら帝国が面する東方洋上に、先鞭つける清浄地は島嶼すら今だ未発見で、一昨日で貴重な12のすでに未帰還3が現実の、人の命がそして竜の命も消耗品の戦時の尖兵に等しい火急の軍務だった。
地表や母艦から飛び立てる飛竜種では哨戒線の長さは片道時間2にも足りない。
拘束復座のもろもの艤装、静電位発生扇と電位計はもとより気圧高度計、気速計、磁針計に、時辰儀、六分儀、気温計、ビンゴ(当たり)とヘル(不祥事)の高価で使い捨ての遠距離魔送信管が各1、信号拳銃、通信筒、写映箱、単眼望遠鏡、保護マスクと伝声管コネクタ、航空食など一式の点検を終え、背あわせで後ろ向きに乗る後席搭乗員の準備完了の申告も受けて、離陸準備の完了を宣言した。
それを復唱したいつもの顔色がさらに良くない小太りの管制士官が、上空進路に障害なしの信号旗フラグをちらりとみてゴー(進行)の許可を出した。
それで「番17哨飛、離陸はじめ」を宣言。
係員らがバルーンをつなぎ止めで延びきった繋留索をいっせいに解き放った。
微風なので今朝はそれで問題なかった。
塔内側の防錆塗装の鉄の武骨な梁が目の前を上から下へと次々とおりすぎて行く。
”カンカーン、カンカーン、カンカーン、カンカーン、カンカーン、カンカーン、カンカーン”
当初の予定よりちょうど時間1遅れた離陸時刻を告げる鐘打点7が響きわたるなか、風の方位の向きに哨飛を吊したバルーンはふわりと浮き上がり、垂直に外へと浮上して出て、明るさ増す空の青さをめざし昇って行った。飛竜の脚部を拘束していた索条が次々とはずれていった。
規定どおり高度80で胸腹帯の底部に繋がった最後の一索アンビリカルが外れる際はひときわ揺れた。
同時に竜の体を温めていた胸腹帯の熱水栓が開放になり、真白いスチームがまだ直下にあって口が開いた巨大な円筒内部めがけて盛大にシューーと噴いた。
索条の重みと予熱水あわせて成人略3の重量から解き放たれて上昇速度に拍車がかかった。
すぐに気圧高度計読みで高度100に達し、番17哨飛のアイマスクをはずして飛翔用意を促した。
頭があがって、長12の前後二対の翼が滑らかに開いていくのを確認。
風圧よけ兼用の防護マスクをつけると、後席からマスクに接続の伝声管で縦尾翼の展開を伝えてきた。
飛翔を開始すれば風切り音で他の音はまず聞こえないので、伝声管越しの通話のみとなる。
高度150を越えると丘の稜線越えの朝日がとどいている高さに達した。
頭上でバルーンの半面が無垢の金24のように鮮烈に輝いた。
その輝きが手前、すぐ上でにわかに揺らいだ、陽炎?! いやまずい制御弁から爆裂ガス漏出だ!
すぐさま高度確認もなしで「緊急分離)」を宣言しながら、バルーンの底から胸腹帯を吊る数4のハンギングライン(吊り策)を前から解き放った。
そして度60の前傾で落ちながら「番17哨飛、発進」を宣言。
まだ日のとどかぬ大地に向かって低い高度からダイビングがはじまった。
状態ヘルのバルーンから開放され、哨飛の流麗な翼が強さを増して、めいっぱい風をはらんで行った。
すぐに丘がつくる影の中に再突入して、飛翔安定気速に達して行った。
後席からうわずったそれが本当の地声だと知っている、蒼いソプラノの報告。
「後、後方、バルーン炎上! 塔、番1番2の間に墜ちていきます」
制御弁がガスの爆裂圧に耐えられず吹き飛んだか。日6前のトラブルもこれだ。
不具合残したままの見切り、竜付き士官と管制士官の様子からしてそれで不思議はないが、裏がある可能性も否定できない。
きわどいタイミングで12中の番目4にならず離陸塔ともども難を逃れたのは良かったが、これで使える離陸用のバルーンは残5。
整備を考えると、明後日以後は段3の哨戒線の維持は難しい。
いやそれ以前に再整備で本日の残りの番手2と番手3も中止になるか、司令官の裁量次第だ。
かろうじて高度40で気速100の初期水平飛翔を宣言できた。そのままゆっくりと離陸塔の合間を縫ながら飛び、左右の旋回を試した。それから徐々に気速と高度を稼ぎに入った。
ほどなく日の当たる空に戻れて、後席にも六分儀で現在地を略測させた。
炎上中の残骸を見ても動転した様子がなく、すぐにこちらの測定値と精度誤差内の答えを返してきたから、肝は据わっている。
無理を承知で出した配属要件をみたすくらいだから、卒業准尉なりたてであってもいろいろはずれでない資質もちなのは当然だ。生きのびれば良い女子搭乗員に化けるだろう。
海から基地への火線をさえぎる形で南北に連なる失速丘陵の、常緑にむら消え残雪白のまだら模様。監視哨と航空良識が配置されたその上空を越え、白波が押し寄せる最極東島の東海岸を直下に見る頃には、高度350気速キロ180方位東で、気温-2の翼の尖端から氷結寸前の風を切って澄んだ空を飛翔していた。
「静電位発生扇開放はじめ、電位確認、初期値異常なし。接続。初期状態異常なし。制御を後席に委譲。後席、静電調整はじめ」
後席に静電位による気流制御を委譲し、飛ぶ竜との同期を後席の感応にまかせた。
トライアンドエラーの修正で羽ばたきが次第に若々しいしなやかさを増して巡空状態に入った。見込んだとおり、後席は筋が良かった。
前席で前半球視界に気流読みと進路調整、後席で後半球視界に飛竜と静電位の調整と言う役割分担がこれから先、順調に行く限り、延々と続く。長時間の哨戒任務には復座が向いている。
高度350の視程では水平線はおよそキロ60先にある。
今朝の霞みはわずかで邪魔な低い層雲もなくそこまで見通せたが、コンパクトな風防越しに進行方向彼方の天候の油断のならない変化の徴候、宏観に目をこらした。
昇り始めた太陽は、凪ぐことの稀な外洋の海平線より光球径一つ離れた高さでまばゆく、周囲の空と海を橙色に染めて、前方向すぐ右の位置にあった。
行きも帰りも上空の雲量が少ないほど晴天ほど行く手が逆光となる。
早朝から終日の東方洋上進出なのでそうなるのだが、日没後、薄明として残れば、気流制御を停止しないと使えない磁針計に頼らずとも帝国の方向がわかるのは良い。
その今は背後方向、年1000の歳月をかけて合した大陸地5に主諸島地10の全域が最大の地空震にこれが最後とばかり一際大きく揺らいだ。万人の意識も一瞬とんだ。
そして夜、空の様相が一変していた。
全天を覆わんとする炸裂星雲の脅威は、朧気環まぢかにまでに迫って見えた光に闇と劫火は、リングとともに忽然と消えた。
そこは溜息が出るほど多くの見知らぬ星々の海になっていた。
そして今は西に沈んでいるが、朝な夕なに満ち欠けの姿が映えるほど明るい、唯一になってしまった美しい月。
航法月星図の作り直しに躍起の天測部門の意見は別のようだが、六分儀が使えるし太陽だけは不変のように見える。
斯くして神託の予言は果たされた。
それが日21前に起きたこと。
大絶滅ではじまった苦難の千年紀は明け、この時のためにこそ涵養してきた特別な哨飛が未知なる世界の大洋上を長駆探索する番がきた。
命を使う、文字通りの使命。
「 遠神 恵賜 清浄の地 導きたまふ 」
祈るのは簡単だ。
だが出だしからして冷や汗ものだった。
神が個の肉体の運と命が見通せぬほどすでに遠きことは(酒宴の席の)従軍神官も認めている。
後席のひよこともども五体一尾無事で生還することが最優先だ。
無理をして墜ちるはめになる、心中同然をこの世の名残とする、そのつもりは毛頭ない。いや、なかったのだが。